[#表紙(表紙.jpg)] 吾妻博勝 新宿歌舞伎町 マフィアの棲む街 目 次  まえがき  麻薬密売人Kが消えた  マフィアは暴力団対策法適用外  無国籍売春クラブの秘密  消えた一匹狼「片腕の龍」  マフィア化する日本のヤクザ  メデジン・カルテルの脅威  現役外交官が麻薬取り引きに関与  コロンビア・マフィアとの対決  闇に潜む�殺し屋�の群れ  日本で拳銃を密売する謎の中国人  謎の拳銃密売貿易商「李大容」の正体  蛇頭《スネーク・ヘツド》が腕時計に突き立てたナイフ  |黄金の《ゴールデン・》三角地帯《トライアングル》から来た密航中国人ホステス  歌舞伎町から消えた三人のイラン人  売上金強奪・強姦犯のイラン人を追う  ある現役ヤクザの告白  イラン人を富士山中に運んで撃った  あとがき  文庫版へのあとがき [#改ページ]  まえがき 「週刊文春」編集部からこの取材を担当するよう指名されたとき、私は何かが喉に詰まったような異様な圧迫感に襲われた。正直いって、かなりうろたえてしまった。取材の困難さもさることながら、手順を一歩間違えれば、取り返しのつかない危険に遭遇するかもしれない。その夜、私は素面《しらふ》ではどうにも抑えきれない昂《たかぶ》った感情を鎮めるために、帰宅路線からはずれた東京・江戸川区内のある小さな居酒屋へ一人で行き、イナゴの佃煮を酒肴に夜中まで飲みつづけた。ストレスがたまると、私はなぜか日頃めったに口にしないものを無性に食べたくなる。それは、私にとっての一種の通過儀礼のようなものだった。  それまで私は、歌舞伎町へはたまに付き合いで飲みに出掛けたことはあったが、台湾、中国クラブなど外国人ホステスがいる店へは一度も入ったことがなかった。したがって歌舞伎町を「マフィアが棲む街」というイメージで捉えたことはなく、さまざまな形で街を裏側から仕切ってきた地元ヤクザとの接点もなかった。困った末に、以前に何度か足を運んだことのある日本人経営のスナックを数軒訪ねてみた。すると、彼らは一様に、「マフィアの動きは、日本人には掴めない。連中の恨みを買ったら、命を狙われる」と忠告した。  結局、取材は手探りで始まった。そのうち昼と夜の生活が逆転し、否が応でもアルコールとの付き合いを続けざるを得なくなった。そして、外国人犯罪組織の影を追ううち、日本進出の事態が想像以上に進んでいることに私自身驚かされた。取材を始める前、一度だけ所轄の新宿署を訪れたことがある。そのとき、幹部の一人が「外国人マフィアが暗躍しているという認識は持っていない。たとえ暗躍していたとしても、実態は把握していない」と語っていたが、歌舞伎町の闇社会はすでに警察の捜査力も到底及ばないところまで突き進んでいた。中でも数の力で他を圧倒しているのが、中国各地から様々な方法で潜入している大陸系マフィアだった。一九九二年九月に歌舞伎町で起きた台湾マフィアによる警官銃撃事件が、この取材を始める糸口だったので、取材当初は台湾マフィアの動きを探っていた。ところが銃撃事件後、台湾マフィアは警察の目を逃れるために海外へ逃げたり、関西方面へ姿をくらますなど、歌舞伎町では次第に少数派になっていった。ヤクザは一九九二年三月に施行された暴力団対策法によって動きを封じられていることもあって、大っぴらに力ずくで外国人マフィアに対抗することはできない。ヤクザの中には、対抗するどころか、新たな資金源確保を狙って、後にマフィアと呉越同舟になっている者すら少なくなかった。  本文では触れていないが、九四年に入ってから、ロシア人の姿を見掛けるようになった。彼らは、歌舞伎町周辺のホテルに三、四人のグループで数日間滞在し、その間、暴力団に連なる日本人及び香港系中国人らと拳銃の取り引きをしているという話を耳にした。その頃から、歌舞伎町には、ロシアのチェチェン共和国、また、グルジアやカザフスタン、ベラルーシなど旧ソ連の独立国家出身のホステスも目立つようになり、その多くが売春で金を稼いでいた。当時のオウム真理教最高幹部の早川紀代秀被告が出入りしていたのも、界隈のロシアクラブである。目に見えないところで犯罪が多様な形で国際化しているのだ。最近、一般人による拳銃発砲事件が相次いでいるが、拳銃や麻薬は歌舞伎町に限らず、都内の盛り場ならどこででも手に入るといっても過言ではない。私自身、ある風俗営業店で働くまだ十代の少年から、「興味半分に買っちゃったんだけど、金がないんでこれで五万円貸してほしい」と言われて、目の前に中国製拳銃トカレフを差し出されたことがあった。  この『新宿歌舞伎町 マフィアの棲む街』は、九三年から九四年にかけて、「週刊文春」に十八回にわたって掲載されたものである。連載時のペンネームは、「覆面ライター 宮島龍」とした。これは、当時「週刊文春」の編集長だった花田|紀凱《かずよし》氏の命名による。ペンネームを用いたのは、あくまでも便宜上のことに過ぎない。取材活動と週刊誌連載が同時進行であり、しかも歌舞伎町というごく限られた地域での長期取材である。無用なトラブルに巻き込まれ、取材活動が不可能な状態に追い込まれる危険があまりにも大きすぎたからである。また、つまらないことで取材相手や協力者に誤解されるのはまずいと思い、この取材では、警察関係者とは一切接触を持たなかった。そして何よりも警察情報とは一定の距離を置き、あくまでも街の裏の顔を独自に取材するというのが、編集部の当初からの基本方針でもあった。  穴に逃げ込んだ熊を相手にしていたわけではないが、私は、ある程度のところまで煙で燻《いぶ》り出すかのような取材方法をとった。しかし、追い込み過ぎれば、容赦のない反撃を受けることになる。その辺りは状況に応じて身を引いた。それでも何度か痛い目に遭った。  逆に私を、中国、香港、台湾への現地取材に誘い出そうとする正体不明の人物も何人か現われた。それらの誘いを私はすべて断り、あえて歌舞伎町にこだわり続けた。さまざまな欲望がぶつかり合い、常に地殻変動を起こしているこの街の闇のボーダレス犯罪勢力の一端を、多少なりとも捉えたのではないかと考えている。  なお、本文に出てくる台湾、香港などで使われている用語は、広義の中国語という観点から、一部を除き北京語読みに表記を統一した。また、連載記事の中には私の思い違いや単純ミスもあったので、その点については訂正した。連載中には、誌面に出せなかった事実も大幅に加筆してあることをお断りしておく。 [#改ページ]  麻薬密売人Kが消えた  一九九二年十月のことである。都内のネオン街で働いている女性から、私はある時、こんな話を聞かされた。  台湾マフィアから麻薬を仕入れている日本人の密売人を知っているというのだ。麻薬取り引きのため、密売人の男は時々、新宿・歌舞伎町周辺に姿を見せる。しかも彼女は、男が飲みに行っている店の場所まではっきり口に出し、ここで台湾マフィアと麻薬の受け渡しをしていることも、男から聞いて知っていると言った。  最初は、覚醒剤の常習者である彼女の話をどこまで信用していいのか、こちらも判断に迷った。精神依存性が強い覚醒剤常習者は、時として禁断症状から激しい被害妄想に襲われることがある。最悪の場合は、殺人を犯すこともあるし、また、自分を少しでも現実に引き戻そうとするあまり、周囲に媚を売って、相手が大喜びしそうな作り話を平気で口に出すこともある。万一、話が嘘だったりしたら、まったく無意味なことに振り回されることになるので、こちらも慎重に対応せざるを得なかった。  深夜、私は仕事を終えた彼女を食事に誘い、同じような質問を何度も繰り返し、探りを入れた。すると、彼女はしまいにはこう言って怒ってしまった。 「私の話を疑っているのね。あなたと約束してもいいわよ。もし、私の言っていることが嘘だったら、クスリ(覚醒剤)ときっぱり縁を切るわ。はっきり言っちゃうけど、私、その男から何度もクスリ買ってるのよ。これで私の話を信用するでしょう?」  指先が小刻みに震え出した。それは常人とは逆に、話に信憑性《しんぴようせい》があることを示していた。彼女を紹介してくれた人物によれば、これまでに警視庁、神奈川県警などに計三回も覚せい剤取締法違反で逮捕されている。その人物も今や彼女にはサジを投げているらしく、「気はとてもいいんだが、改心の気配をまったく見せない女だ。いずれ体がボロボロになる」と顔を曇らせていた。幼い娘を二人残して、地方公務員の夫から家を追い出されたのも、覚醒剤が原因だった。  平凡な家庭の主婦だった彼女が、覚醒剤の魔力に取り憑《つ》かれたのは、痩身への憧れからである。八九年夏のことだ。同じマンションに住む主婦仲間と近くのカラオケ・スナックへ月に二、三度、出入りしているうちに、前にデュエットしたことがある客の一人から、「痩せ薬だよ」と言われて、白い粉末の入った小さな紙包みをそっと渡されたという。彼女は当時、体重が七十キロちかくあり、肥満体質をとても気にしていた。何日かして、その白い粉末を水で流し込むと、息苦しさと壮快感が入り混じった不思議な感覚に包まれ、体が萎《しぼ》むような錯覚にとらわれたという。それが彼女の転落の始まりだった。  彼女は、アルミ箔に包《くる》んだ『テルモ』製の細い注射器をバッグから取り出すと、何を思ったのか、テーブルの上でそれを何度も転がした。他の客の目が気になって、私が手首を押えると、「覚醒剤は最初から私の体にぴったり合ったのよ」と言って淋しそうに笑った。最近は注射痕が目立つ腕への静脈注射は止め、その代わり腟の中に粉末や液状のものを擦り込んだり、外陰部に直接注射を打ったりしているという。覚醒剤にこんな接種方法があるとは初耳だった。  警察庁によると、一九九二年の一年間だけで、一万五千六十二人が覚醒剤にからんで検挙されている。そのうちの二割近い二千八百四十二人が女性。女性の検挙数は、八八年を境に増加傾向にある。九三年は、一万五千二百五十二人が検挙され、そのうち六千四百一人が女性で、この中には主婦が三百三十人含まれている。  警察庁がまとめた最新のデータでは、九四年一月から六月までの上半期だけですでに百六十三・一キロの覚醒剤が押収されている。その約九四パーセントに当たる、末端価格で二百数十億円相当の百五十二・五キロが、台湾シンジケートの介在によって日本に密輸されている。上半期だけで前年一年間の押収量をすでに上回っているが、これでも警察当局に押収されるのは、氷山の一角にすぎない。大半は巧妙に国内に持ち込まれ、何人かの手を経て、最後は彼女のような末端に流れていく。  その最大の供給源が、じつは台湾マフィアだった。  彼女の情報をうまく生かせば、日本で暗躍している台湾マフィアの生態について、思いがけないことが明らかになるかも知れない。そのためにはまず、台湾マフィアと取り引きしている日本人に会うのが先決だった。歌舞伎町での長期にわたる潜入取材は、この男を追うことから始まった。  ただ、残念なことに、彼女は男の連絡先を知らなかった。ある第三者が、男が店に現われる日時を一方的に伝えてくるだけで、彼女が独自に男と連絡をつける手立てはなかった。その第三者については、彼女は、「べつに怖い人じゃないけど、色々と差し障りがあるので言えないわ」と口をつぐんだ。こちらには窺い知れない特別な事情があるようだった。第三者に関しては、私はそれ以上は何も聞かなかった。  問題の店は、確かに彼女から聞いた場所にあった。信号待ちの時間を含めると、JR新宿駅から店までは、ゆっくり歩いて十数分かかった。  間口が狭く、奥に細長い居酒屋である。これといって特徴のある店ではないが、入口の縄ノレンと赤ちょうちんにはかなりの年季がうかがわれ、ノレンのほうは、触れるのも躊躇《ちゆうちよ》するほど黒光りしている。  店から出て来た三、四人の年配客にそれとなく評判を聞いてみた。 「マスターのちょっと抜けたところがいいね。ゆったり飲める」 「若いアンチャン、ネエチャンが入って来ないから、店が静かだよ」  返ってくる言葉はいずれもこんな調子で、外観や評判からは覚醒剤の密売人や台湾マフィアが出入りしている店とはとても思えない。店主に関しても、悪い噂はまったく出てこなかった。 『伊勢丹』の紙袋が決め手[#「『伊勢丹』の紙袋が決め手」はゴシック体]  ただ、犯罪者は善良な市民を隠れ蓑《みの》にすることがよくあるので、連中がこの店に出入りしていても別に不思議ではなかった。それよりも気になったのは、この店と同じ路地に、目印にしていた赤ちょうちんの下がった居酒屋が三軒あることだった。勘違いしていることも考えられるので、念のため女性に確認の電話を入れてみた。 「店を背にして、左側の大通りにコンビニエンス・ストアを見通せたら、それが私の言った店よ。他の店からは、路地がカーブしていて、絶対に見えないから。だって、前にクスリを買ってた時は、いつも私がコンビニの前へ立ってて、あの男が店から出るところを何度も見てるんだから」  三つの赤ちょうちんの前に立ったが、彼女の話と合致する店はやはり最初の一軒しかない。  下見をした翌日、私は一人で店へ入った。その日は金曜日のせいか、夜十時を回っても、店はまだ満席状態だった。ザッと見て客は約四十人。私は、カウンターを詰めてもらって、やっと座れた。  常連客が多いからだろうか、店側も呑気なものだ。注文をさばき終わると、五十代後半の店主は、カウンターのなかでビールをあおりながら、従業員と競馬の予想紙を広げていた。一見《いちげん》客に対しても、構えたような素ぶりは見せない。はっきり言えば、限りなく無視に近い接客態度で、それがかえって客の気持ちを落ちつかせる。  初日は、店の雰囲気をつかむのが目的なので、早目に引き揚げることにした。それに出入りしている客の中には、それらしい男は見当たらなかった。  先の女性は、台湾マフィアとは直《じか》に会ったことがないので人相はわからないが、密売人のほうは、いつも『伊勢丹』の紙袋を抱えているから、一発で特定できるはずだと教えてくれた。 「『伊勢丹』の紙袋は、最初の客に会う時の目印なの。半年ぐらい前、人に紹介されて、私が初めて彼からクスリを買った時もそうだった。万一、同じ紙袋を持った人が他にいた時は、相手の指を見ることよ。あの男は両方の小指がないんだから。ちょっと前まで、ヤクザ屋サンをやってたみたいよ」  余談になるが、以前、西日本のあるところで、指の大半が欠落しているヤクザに会ったことがある。まともなのは親指だけで、他は第一関節、あるいは第二関節から欠落していた。聞けば、計十一回の不始末を起こし、そのたびに指を詰めて親分、兄貴分に詫びを入れたのだと言う。私は不始末の内容に興味をそそられたが、真面目くさって指の来歴を語る男の顔を見たら、質問を浴びせる気にはとてもなれなかった。  本来、あるべきはずの指がこれだけ欠落していると、やはり不気味としか言いようがない。  それよりもさらに不気味な思いをしたのは、ある取材で某組長宅を訪れた時だった。応接間の大きなガラスケースのなかに、なんとホルマリン漬けの指が何かのあたかも医学標本でもあるかのようにズラリと並んでいた。 「指をコレクションにしているのは、全国でもわしぐらいじゃないのかね。第一、若い衆が詫びを入れるのに持ってきた指をゴミ箱に捨てたりしたら、指がかわいそうじゃないか」  組長の話を聞いているうちに、私は全身がブルブルッと震えてしまった。  だが、このヤクザ独特の指詰めも、台湾マフィアの掟《おきて》の厳しさに比べたら、まだまだ可愛いほうだと、日本在住のある台湾人実業家は、台湾「黒社会《ヘイシヨホイ》」の掟について、こんなふうに話した。 「日本のヤクザが指を落とす時は、本人も覚悟のうえですね。向こうは違います。もっと血腥《ちなまぐさ》い。仲間を裏切ったり、組織の秘密を漏らしたのがバレたら、もう大変だよ。腕や足に何カ所も金串を突き通される。手足の甲にやられる人もいます。  もっとひどい時は、腕や足を切り落とされたり、眼を潰されたりすることもある。そして最後は、あの世へ行くことになります。台湾のマフィアは平気で人を殺しますからね」  問題の居酒屋に出入りしている台湾マフィアも、こうした冷酷な掟の世界をくぐり抜けてきたに違いない。  居酒屋には、結局、休業の日曜日を除き、連続十三日間通い詰めることになった。  週末以外は、夜九時を過ぎれば、カウンターの客はほとんどいなくなる。私がいつも座るのは、すぐ後ろに壁がある、一番奥から四、五人目のところだ。犯罪者は、防衛本能から人に背中を見せるのを嫌うので、連中が来れば、恐らく私の奥に座るだろうと踏んだのである。 欠落した両小指を確認[#「欠落した両小指を確認」はゴシック体]  店に通い始めて、四日目のことだ。夜十時ちょっと前に、茶色の革ジャンをひっかけた、密売人らしい男が一人で現われた。指の具合はまだ見えなかったが、丸顔で眉が濃いところは、彼女から聞いた人相とぴったりだ。男は、ダークグリーンの地に赤と黄色の大きな格子模様が入った紙袋を抱えていたが、よく見ると、袋の右下に黄色のローマ字で「ISETAN」と刷り込まれていた。やはりこの男に間違いない、と私は確信した。  カウンターのどこに座るか、一瞬、キョロキョロしていたが、こちらの予想した通り、私と同じ並びのカウンターの一番奥に入った。入って来た時の印象では、まだ三十代後半だ。  しばらく顔は見ないことにした。相手がまだ酔っていない状態で視線が合ったりすると、逆に怪しまれる怖れがある。それでなくとも、なぜか私は私服の刑事に間違われやすい。取材を始めた頃、歌舞伎町を歩いていると、こちらの姿を見るなり、ポン引きたちがクモの子を散らしたように路地に逃げ込むというようなことが何度かあった。  その男にあらぬ警戒心を抱かせて店に来なくなったら、すべてが御破算になる。  取材できる感触がつかめるまでは、身元は明かせない。まず、客仲間として自然な形で雑談ができるようになるまで気長に待つしかない。そのためには、男のほうから話しかけてくるような雰囲気づくりが必要だ。ちょっと愛想がある店主なら、店主を巻き込んでこちらから仕掛けることもできるのだが、ここではそれがまったく期待できそうにない。店主はカウンターのなかで相変わらず黙って座り込んでいるだけだ。  左側の男をチラッと見ると、右手の小指が欠けていることが確認できた。男はビールを飲み始めたが、飲みっぷりは大したことはない。グラスを左手に移した際、左手の小指も欠けているのが確認できた。彼女の情報はじつに正確だった。  男はグラスを両手に交互に移しながら飲んでいる。そのうち、スポーツ紙を広げた。どう見ても、積極的な飲み方ではない。大して酒が強くないのかも知れない。  こちらはいつもの酒癖に従って、男の逆をいくことにした。  それまでビールを飲んでいたので、私は次は日本酒二、三本、ウイスキーの水割りを三、四杯、焼酎のお湯割りを二、三杯とチャンポンで立て続けに飲み、それを繰り返した。相手が女性ならともかく、これで麻薬密売人の気を引こうというのだから、まったく骨が折れる。  男は一時間半ぐらいのあいだに、店には何も言わず、三、四回外に出ていった。いつものことなのか、店のほうも大して気にとめていない。恐らく近くのコンビニの前で、誰かに覚醒剤を渡しているに違いない。私に情報をくれた女性が男から覚醒剤を買ったときも、受け渡しはコンビニの前だった。店に戻ると、前と同じようにまたスポーツ紙を広げる。  こちらの飲みっぷりが気になったのだろう、夜中の十二時過ぎになって、やっと男のほうから声をかけてきたのだ。 「お客さんの酒は凄いね。チャンポンでピッチが速くて、そんな飲み方の人、初めて見たよ。それで明日、起きれんの? 俺なら死んじゃうよ」  低く押えた声だ。初めて顔を正面間近から見たが、顔全体が青白い。日中は寝ているのか、ほとんど太陽光線を受けていない顔だ。眼の奥がどんより濁っている。  こちらはできるだけ男との会話を途切れさせないように全神経を集中させた。 「よく誤解されるんだけど、ヤケで酒飲んでるんじゃないんですよ。同じものだけ飲んでいると、口のなかが甘ったるくなって、気持ちが悪くなってね。  たいがいの人は悪酔いするらしいけど、チャンポンの酔い方が好きなんですよ。マリファナを吸ったときみたいに気持ちがよくってね」  もちろん、最後の部分は口から出まかせである。  マリファナという言葉を口に出したのは、その響きから同類意識のようなものを相手に感じさせて、こちらとの距離を少しでも縮めさせるのが目的だった。ともかく、わざときわどいことを言って興味を引かないことには、会話がスムースに流れなくなってしまう。沈黙が一番の敵なので、相手がちょっとでも考え込むような話題は、この際、避けたほうがいい。  三、四十分とりとめのない話が続いたが、奥の方で閉店準備が始まったので、私は男と一緒に店を出た。どこへ行くのか、男は近くの通りでタクシーに飛び乗った。 「その日の気分でいつ来るかわからんけど、会った時にはまた飲もうや」  別れ際、男がそう言い残していったので、次はかなりのところまで切り込めそうな気がしてきた。こちらがその実態を追っている台湾マフィアと一緒に来たら、その時はまた別な対応で迫ればいいと思った。 警察も介入できない黒社会[#「警察も介入できない黒社会」はゴシック体]  このときに限らず、歌舞伎町での取材は、最初から最後まで酒との闘いでもあった。情報の収集、確認のためには、あちこちの店で外国人ホステスと接触せねばならず、そこでは否が応でも酒を付き合わざるを得ない。一夜に数軒の店を回ることもあり、相手の都合によっては、そんな日が何日も続くことになる。しまいには昼と夜が逆転してしまった。辛いのは、酒量相応の酔い方ができないことだ。どんなに飲んでいても、聞き出した情報、中でも固有名詞はトイレなどで必ずメモに残しておかなければならないし、また、万一に備えて、常に周囲に気を配っていなければならなかった。それも取材は長期戦だった。  時計はすでに午前一時を回っていたが、私は男と別れてから、近くの歌舞伎町に行ってみることにした。  特に週末の歌舞伎町は、何かに吸い寄せられるように人が集まってくる。中心に位置している新宿コマ劇場の周辺は、真夜中だというのに、人の波が渦巻いていた。  通りを一晩そぞろ歩けばわかるが、この街はアジア最大の盛り場といわれるだけあって、二十四時間、まず眠るということがない。けばけばしいネオンサインが朝方までギラギラと輝き、まさに「不夜城」という形容がピッタリの街である。  ネオンの明るさに誘われるのか、コマ劇場の屋根に、どこからともなく十数羽のカラスが飛来してきた。観察していると、ときおり人混みのなかに滑空するように降りて来る。嘴《くちばし》の太いハシブトガラスだ。こいつは雑食性で、人間の食べるものなら何でも腹におさめてしまう。  案の定、生ゴミ漁りである。ふらついている酔っぱらいの足元をちょんちょんくぐり抜け、ポリバケツからはみ出たフライドチキンの骨やスパゲティを引っ張り出すと、それをくわえてまたコマ劇場の屋上に消えた。カラスに混じって、普段は神社やお寺を飛び回っているドバトが居酒屋の店頭に現われることもある。  歌舞伎町はまた、慢性的な不眠症の街といっていい。疲れ果てている半面、何かに異常に飢えている。だからこそ、この街で、食欲、性欲、物欲といった人間の欲望を、よくも悪くもいとも簡単に満足させることができるのだ。  街全体が内包しているエネルギーは、他のネオン街に比べてケタ外れである。夜は眠るはずのハトやカラスの生態が狂うのも、この底知れないエネルギーのせいだろう。  吸い寄せられるのは、カラスだけではない。わずか五百メートル四方の歌舞伎町には、世界中のマフィア組織が蠢《うごめ》き、気がつくと、警察もうかつに介入できない恐ろしい「黒社会」が築き上げられていた。  台湾、香港、そして中国大陸の福建省や上海などから密かに上陸している中国系マフィア。数こそ少ないが、タイ、ベトナム、マレーシア、シンガポール、フィリピンのグループも暗躍している。そしてお隣りの韓国からも大物が入って来ている。 �ヤクザ簀巻き事件�の恐怖[#「�ヤクザ簀巻き事件�の恐怖」はゴシック体]  南米のコロンビアからは、コカインを扱う麻薬マフィアのメンバーも、すでにここ歌舞伎町に根を張っている。  ペルーから来たニセ日系人の中には、窃盗で全国を荒らし回っている者も多く、その一部が歌舞伎町で盗品を売り歩いている。  街頭で絵やアクセサリーなどを売っているイスラエルのユダヤ組織は、実は日本のテキヤも手を出せないほどの強力なネットワークを誇っている。  九三年四月中旬、変造テレホンカード約二万枚を所持していた不法残留のイラン人が都内で逮捕されたが、こうしたイラン人の不良グループも多く、しかもタチが悪い。また、アヘン、ヘロインを日本に密輸しているパキスタン出身の犯罪グループも出入りしているし、アフリカからは、ナイジェリア・マフィアと呼ばれる連中もこの街に入ってきている。  その中でも、特に荒っぽいことで知られるのが、中国系マフィアだ。  客引きの一人が声をひそめる。 「歌舞伎町では、最高に怖い連中です。一人が日本人と喧嘩になると、あっという間に仲間が十人ぐらい集まって来るからね。九二年夏のことだけど、コマ劇場の真ん前で、若い日本の男が、中国語を話す三、四人組に袋叩きにされ、ナイフで首筋を切られたことがあるよ。すぐ近くに交番があっても、逃げ足が速くて捕まらないんだ」  何十人の目撃者がいても、連中の逃げ込む場所がわからないというのだから、始末が悪い。  各自ポケベルや携帯電話を持ち、仲間うちの連絡は相当緊密にとっている。  歌舞伎町とその周辺には、日本のヤクザが関係する事務所が約百六十カ所もある。およそ二千五百人がここでシノギを削っているといわれるが、日本のヤクザが中国系マフィアの挑発を受け、時には半殺しにされることもある。 「ある組の幹部が、コマ劇場の近くの通りに白いベンツを止めておいた。若い衆二人が車の番をしてたんだが、そこに中国系の男が一人でフラッとやって来て、いきなり小便をひっかけたんだ。怒った若い衆がそいつを張り倒した。それからどうなったと思う? 仲間が仕返しに来て、若い衆は二人とも腕や腹をブスブスッと刺されちまった。  みっともない話なんで、本当は話したくないんだが、危うく命を落としそうになったヤクザもいるんだ。ある三十代のヤクザが一人で歩いていたら、肩が触れたといわれて、中国系の男に文句をつけられた。俺たちヤクザにとっちゃ、まったくアベコベな話だよ。  相手はきゃしゃな体をした若造だったんで、『この野郎、ふざけんな』と怒鳴ってやった。そしたら路地裏から仲間五、六人が飛び出して来て、目隠しされたまま、ビルのなかに連れ込まれてしまった」  この組関係者によれば、ヤクザは全身を殴る蹴るされ、口の中に銃口を突っ込まれたり、サーベルみたいな大型ナイフで手首を切り落とされそうになったり、殺される一歩手前まで痛めつけられた挙げ句、さらに布団で簀巻《すま》きにされ、そのまま埼玉県内の山林に放り投げられていたそうだ。  なんとか自力で山を降りたが、サイフはもちろん、腕時計も指輪もすべて奪われていた。 「落とし前をつけてやろうと、今でも連中を捜しているんだが、まったくわからない。連中は日本のヤクザみたいに、所属先がはっきりしてる訳じゃないから、どうしようもない。同じ国から来た仲間に匿《かく》まってもらったり、女の部屋を転々としながら全国を回っているみたいだからな」  その組関係者は、「お手上げだよ」といって両手を広げ、あとは両手を組んだまま押し黙ってしまった。  この�ヤクザ簀巻き事件�があったのは、九二年七月のこと。場所はコマ劇場の裏手から職安通りに抜けるちょっと手前の路上だった。  ところが、それから二カ月後の九月十五日正午前、このすぐ近くで、新宿署の警官が、不審な男二人を発見して職務質問しようとしたところ、そのうちの一人に、振り向きざまにいきなり発砲される事件が発生した。発射された銃弾三発のうち二発が命中して、警官の一人が背中から胸へ貫通、もう一人は顔をかすった。弾が急所をはずれたのは不幸中の幸いだったが、一歩間違えば、確実に命を落としていた。  犯人の王邦駒《ワンバンジユ》(当時26)は、台湾クラブのママが住む新宿・大久保一丁目のマンション「ヴァレヴェール新宿」の一室に逃げ込み、浴室の天井に隠れたが、間もなく逮捕された。王は、歌舞伎町のクラブで働いていた台湾人ホステスと愛人関係にあり、彼女がこの部屋の借り主と顔見知りだった。王は愛人のツテから、前もって隠れ家を確保していたのである。 台湾の殺し屋、王邦駒の本性[#「台湾の殺し屋、王邦駒の本性」はゴシック体]  逮捕時、王が所持していた拳銃二丁と実弾二十九発も押収された。新宿署の鈴木一三副署長(当時)に話を聞いた。 「拳銃は二丁とも密造ではない本物でした。歌舞伎町の喫茶店で、見知らぬ男から買ったというだけで、あとは何を聞いても、口を閉ざしたまま。どこに住んでいたのか、誰と付き合っていたのかなど、ウラを取られるようなことに関しては、頑として何も話さない。日本語は挨拶程度で、とにかく呆れるほど口の堅い男です」  王の歌舞伎町での交友関係を知っていると思われた愛人のホステスも、事件が起きてすぐ台湾へ帰ってしまった。王は、逮捕された時に日本円で約五十万円の現金を持っていたが、そのカネをどこで手に入れたか、についても一切答えようとしない。  台湾の捜査当局の調べでは、王邦駒は、台湾の流氓《リウマン》《マフィア》組織「芳明館《フアンミングアン》」に所属していたことがあり、九〇年三月二十七日に台北市内で拳銃を発砲して一人を殺害、さらに警官も負傷させていた。その後、偽造パスポートで台湾から逃亡して、タイや香港などで拳銃や麻薬の不法売買を重ねたのち、別の偽造パスポートで二度台湾に戻り、さらに二人を殺害した疑いが持たれていた。  日本には、事件を起こす約四カ月前の五月二十五日に、マレーシアで手に入れたシンガポール国籍の偽造パスポートを使って、滞在期間九十日の観光目的で入国した。その入国記録には、偽名で「王亦翊《ワンイーイー》」と記されていた。台湾当局から指名手配を受けている大量殺人犯が、成田から堂々と入国していること自体が驚きだが、それよりも怖いのは、今後この種の殺し屋が金の力で何らかの犯罪に日本で利用されることである。  私が、外国人マフィアの実態を追って歌舞伎町で取材を始めたのは、この台湾マフィアによる警官銃撃事件が端緒だった。  拳銃にしても、警察が王から押収したのは二丁だけだが、歌舞伎町のさる台湾人関係者によると、実際には、同じ台湾マフィアの仲間と一緒に何十丁も隠し持っていたというのだ。  ツテを頼って探し当てた、あるクラブの台湾人従業員は、その王邦駒と顔見知りだった。 「仕事が終わったあと、よく台湾スナックへ飲みに行くんだけど、王邦駒とは何度か顔を合わせたね。最後に会ったのは、捕まる四、五日前だった。台湾人が所有してる『L』ビルの七階にある店で、台湾の女の子を口説いていたよ。いつもジャンパーを着て、台湾の流氓七、八人と飲み歩いていた。皆、偽造パスポートで来ている連中だよ。警察は知らないと思うけど、王が日本に来たのは、一度だけじゃないよ。事件を起こす一年ぐらい前にも、歌舞伎町で何度か彼と会ったことがあるんだ。その時は、確か許少秋《シユイシヤオチウ》という名前を使ってた。  実をいうと、彼は台湾で、自分の恋人のお父さんも殺しているんだ。結婚を反対されてね。王邦駒が歌舞伎町に逃げて来ていることは、多くの台湾人が知っていた。でも、怖い仲間はいるし、拳銃もたくさん持っているし、殺されるのが嫌だから、皆、黙っていたんだ」  台湾マフィアの非情な手口を一番よく知っているのは、同じ台湾人である。  このクラブ従業員は、接触した場所が台湾人が出入りしていない店であることを何度も念押ししたにもかかわらず、王邦駒の仲間がよほど怖いのか、最後の最後まで不安気な顔をしていた。  私はその間も毎晩、例の居酒屋に通い詰めた。そして、あの麻薬密売人と再び会うことができた。初めて接触した日から数えて十一日目のことだ。  いつ来るかわからない人間を待つことが、こんなに全身の筋肉を使うものだとは、その時、初めて知った。店の入口のガラス戸が音を立てるたびに、体がバネ仕掛けの人形のように、ピクンと動いてしまうのだ。ただし、その間には収穫もあった。ある晩、店の電話が鳴って、従業員の一人が受話器を取った。そのあと、私に向かって訊《き》いてきた。 「カウンターのお客さん、横浜のKさん?」  私が横に手を振ると、従業員は、「来てません!」と大きな声を張り上げ、受話器を置いた。 「『横浜のKさん、いるか、早く呼べ呼べ』だなんて、どこの国の人間ですかね。困るんだな、ああいった電話は」  カウンター越しに、従業員が店主にそう話しかけると、店主は、焼き鳥を焼く手をちょっと休め、何の興味もなさそうな顔でこう答えた。 「例の指のない人と一緒に来る中国系の人じゃないか、きっと。酒がおいしいってことを、『酒、おいし、おいし』といつか言ってたじゃないか」  ここでは仮にKとしたが、従業員の口からは、ちゃんと日本人の苗字が出ていた。Kが台湾マフィアと関係がある密売人であるのは間違いない。 麻薬密売人が浴びせた怒声[#「麻薬密売人が浴びせた怒声」はゴシック体]  その晩、Kは十時過ぎに店に入って来た。首のあたりを指先でカリカリ掻きながら、「世の中、どこも景気が悪いんだなあ」と他人事のように呟き、前と同じように私のすぐ近くのカウンター席に座った。テーブル席は、そのちょっと前に、グループ客が引き揚げたばかりで、店全体がガランとしていた。これでKとは二度目の顔合わせなので、最初からわりと気楽な感じで雑談を始めることができた。頃合いを見計らって、ビールを勧めた。すると、一気に飲み干したので、また勧めた。  私のほうは、前回会った時のようなチャンポンはやめ、男のペースに合わせて、ビールだけを飲むことにした。わざと相手の興味を引く段階は過ぎ、こちらの立場をさりげなく相手に伝えておく必要があった。 「酒の席なんでザックバランに聞きますけど、おたくさん、組の人? ビールついでたら、指が見えたもんですから……」  男の耳元に顔を近づけ、小声で訊いてみた。この手の問い掛けは、ちょっとでもタイミングを間違うと、相手の機嫌を損ねて、外に引っ張り出されることもある。 「うーん、そうだな、一年前まではそうだったけど、いまは違う。クビにされたんだ。組から破門されちまった」  一瞬、気まずそうな表情が浮かんだが、気分を害した様子はない。 「こっちは、いろいろと調べることが仕事なんですけどね」  男は、飲みかけたグラスを口元から離した。 「警察?」  初めて眉間に皺《しわ》が寄った。 「いや、記者なんです。何かいい情報ありませんかね」  男は気を取り直したようにまた、ビールを飲み始めた。 「そりゃあ、話はいっぱいあるけど、話せんことが多いからなあ」  私はここで名刺を差しだした。男のほうはKという苗字だけを教えてくれた。店に電話をかけてきた台湾マフィアがカタコトの日本語で、「横浜のKさん」と言っていたのは、やはりこの男だった。  例の女性から聞いた苗字は別だった。こっちのほうは、恐らく麻薬密売人と客との間で便宜的に使われている通称なのだろう。  私は、思い切ってKを他の店に誘うことにした。Kが取材に応じるかどうかはともかく、居酒屋では話がしにくい。車で十分ほど離れた馴染みのスナックへ電話をかけ、一番奥のボックスを空けておいてくれるように頼んだ。Kは思ったより簡単に、私の誘いに応じた。  店に落ち着いて十分ほど経ってから、Kに、 「実はあなたのことを二週間前から追っていた。台湾マフィアとシャブ(覚醒剤)の取り引きをしていることも知っている」  と打ち明け、偶然の出会いを装ったことを詫びた上で、取材協力を求めた。  その瞬間だった。 「なんだと! この野郎! ふざけたマネをしやがって!」  Kの怒声、罵声がしばらく店内に響きわたった。激昂したKがビール瓶を振りかざし、紙袋の中から拳銃を取り出す一幕もあった。これが馴染みの店でなかったら即、追い出されたか、警察に通報されていたに違いない。幸いなことに、他に客もいなかった。店の女の子はガタガタと震えていた。  しかしなんとか最後には、Kも気を鎮めて「ある程度のことなら話してやってもいい」ということで話がついた。 「脅かして悪かったな。ついカーッとしてな。奴らと会う時は、必ずチャカ(拳銃)を持つようにしてる。相手も何か必ず持っとるから、イザという時は、自分で自分を守るしかない。撃つか撃たれるかは、その時の運次第だよ……」  Kが私に語った台湾マフィアの手口は、じつに恐るべきものだった。 「それを聞くな。殺される」[#「「それを聞くな。殺される」」はゴシック体] 「新宿署の警官が撃たれたあと、横浜や大阪に隠れているのが多いけど、歌舞伎町に潜っている台湾マフィアは、台湾にいる連中より怖いよ。十万円単位の金で人殺しをやる奴だっている。『ワタシ、オンナ三人、台湾へ泳ガシタネ』と言うんで、凄い女がいるもんだなあと感心していたら、意味が違うんだ。台湾人の女の子を日本で三人殺したって意味なんだ」 「『ワタシの仲間、台湾人のオトコの手、キレイしたネ』って意味、理解できる? 手を洗ってやったとしか受け取れないよな。実は頭に両手をあげて命乞いした男に、中国料理で使うでかい包丁を振り下ろし、指をぜんぶ切り落としたってことなんだ」  台湾マフィアが仕切っている歌舞伎町の秘密の麻雀賭博で、台湾人のママやホステスが何百万円、何千万円も負け、マフィアに追われている話をあちこちで聞かされた。殺されたのは、そういったホステスたちだろうか。まだ歌舞伎町の外堀を取材しているような段階で、台湾マフィアと付き合いがあるKからこんな話を聞かされると、私は何とも言えない圧迫感に襲われた。 「連中は、代紋や組織を守りながら生きている日本のヤクザとはまったく違う。仲間はいても、信用できるのは自分だけ、そんな考えだから、義理だ人情だなんて話は通じない。カネよこせ、ダメだ!? それでズドン、バッサリだよ。利害でぶつかったら、仲間だって殺《や》られる。台湾じゃ、親分だって子分に殺される。日本流の命乞いは通じないってことだ」  すでに現役を引退している新宿署の元刑事の話では、十何年か前に、両手の指が根こそぎ切り落とされる刃傷沙汰《にんじようざた》が歌舞伎町で起きているが、その時は、犯人が逮捕された。ところが今は、マフィアの報復を怖れる余り、被害者の台湾人も同じ台湾人の医師に頼んで密かに治療し、事件は決して表沙汰にはならない。  Kは「それだけは聞かんでくれ。そんなことを話したら、こんどは、こっちが殺されっちまうよ」と言って、麻薬に関しては話したがらなかった。  組を破門されたあとのKは、ヤクザとしては生きられず、その日の飯代にも困ることがあった。その成れの果てが、麻薬密売だったのだ。台湾マフィアから覚醒剤を仕入れているKのような男は他にもゴロゴロいる。 「組織を離れたら、俺のような人間は食えないよ。シャブは一番手っ取り早いんだ」  Kと別れたのは、朝方だった。  それから一カ月ぐらい経ったあと、例の居酒屋を訪ねた。 「あの指のない人、来てる?」  Kのことを店主に聞くと、店主がボソボソと話し始めた。 「ああ、あの人な。十日ほど前に来たな。一人で。それが最後だよ。その時、ちょっと変だったな。飲んでるところに、カタコトの日本語を話す中国人風の三人が入ってきた。『おカネない、ダメね』なんて、言い合いしてたよ。約束、約束って言葉を何度か聞いたな」  店主の話から、双方のあいだに何らかの金銭トラブルがあったことは容易に想像できた。Kは、三人組に手を引かれ背中を押されるような恰好で、居酒屋から出ていったという。それ以来、Kは一度としてこの居酒屋に現われていない。  この夜を境に、Kは歌舞伎町から忽然と消えてしまったのだ。 [#改ページ]  マフィアは暴力団対策法適用外  私はKの消息を追った。会う回数を重ねれば、いずれは台湾マフィアに関するもっと詳しい情報を明かしてくれるだろうと期待していたからだ。同時に、その後、Kが台湾マフィアからどんな処遇を受けたのかも知りたかった。  都内の盛り場をあちこち歩き、何人かのツテを頼って覚醒剤密売関係者にも当たったが、これといった話は何も出てこなかった。組から破門される前は横浜を拠点にしていた、とKから聞かされていたので、私は横浜にも何度か足を運んだ。  しかし、ここでもKの消息を知っている者は一人もいなかった。組関係者の話から、Kがかつて同棲していた女性が横浜市内にいることがわかり、彼女を訪ねてみた。すると、醒めた口調でこんな答えが返ってきた。 「電話一本あるわけじゃないし、どこにいるのか、まったくわかりません。だって、組を出された時に、私はあの人とは別れているんです。ヤクザは、現役でいたって、何かで殺されることがあるんだし、まして組を抜けたら、どこで殺されたって、ちっとも不思議じゃないですよ」  私は、Kの両親が神奈川県内のある町に住んでいることを女性から聞き、早速、訪ねてみた。年老いた父親は、息子の存在などすでに忘れているような口ぶりだった。 「あいつは、先生を殴って高校をやめちまってよ。それからヤクザになって、何度か刑務所に行ったみてえだな。ここ二十年、家に帰って来たことはほとんどないな。今だって、どこにいるかわかりゃせんのですよ。また何か悪いことをしたんですかね?」  結局、私は、Kが生きているのか死んでいるのかも掴めずに、追跡取材を切り上げた。  Kが脅しで私に向けた拳銃は、かつて�CRS�と呼ばれたフィリピン製の密造銃で、八〇年代後半まで日本の暴力団のあいだに出回っていたものだ。�CRS�は、フィリピン国家警察軍の指揮下にある犯罪調査局(Criminal Research Service)の頭文字を並べた、密造銃を総称する隠語である。�CRS�の製造地は、密造銃の島として知られるフィリピン中部のセブ島である。同島ダナオ市内には、拳銃の密造で生計を立てている職人が数千人もいるといわれ、かつては戦前の抗日ゲリラやアジア各国の反政府ゲリラ勢力、犯罪組織などに低価格で銃を供給してきた。中でも漁船をチャーターして買い付けに行くこともあった日本の暴力団は、密造業者にとって大の得意先であった。  ところが、日本経済のバブル崩壊の波は遠いセブ島にまで及び、密造業者を次第に廃業の瀬戸際まで追い込みつつある。暴力団対策法の施行で拳銃を使用する抗争事件が減少したこともあるが、それよりも暴力団の金回りが悪くなって、これまでのように大量に�CRS�を買い付けることがなくなったからである。  また、�CRS�は、中国製軍用拳銃トカレフが八〇年代後半から日本に流入してきたため、いずれは闇市場から消える運命にあった。この密造銃は至近距離ならもちろん真正銃と同じ殺傷能力はあるが、中には発射した弾が銃口の先からポトンと足元に落ちてしまうオモチャみたいなものも含まれている。�CRS�を相手に向けたとたん、逆に撃ち殺されてしまったヤクザもいた。  Kが、そんな密造もので本気で中国系マフィアに立ち向かえると思っていたなら、大変な思い違いをしていたことになる。  警官銃撃犯の王邦駒にしても、九発連続速射できる25口径のベレッタと、スミス&ウエッソンの38口径リボルバーを隠し持っていた。いずれも真正銃で命中率が高く、破壊力も凄まじい。  中国系マフィアは、中国軍が制式銃に採用しているトカレフの密輸・密売にも関係しているので、実戦用の銃をいくらでも手に入れることができる。しかも、兵役経験のあるマフィアも多く、元来、銃器の扱いには手慣れている。  その中国系マフィアが歌舞伎町で、こっそりゴミ箱を漁っている──ちょっと腑に落ちない話を私は聞かされた。この情報が入ったのは、ひょんなことがキッカケだった。  その日の昼過ぎ、JR新宿駅西口の高層ビル街を通りかかると、ちょうど新宿住友ビル前の歩道で、大勢の人垣ができていた。覗くと、一人の男が三人組に殴る蹴るの暴行を受け、頭を路面に打ちつけられていた。顔じゅう血だらけだ。 「これじゃ死んじまうな」  隣りの若いサラリーマンから溜め息がもれた。周囲のヤジ馬はただ見ているだけで、誰もが黙っている。あまりにも一方的な喧嘩で、倒れたほうはピクリとも動かない。私はたまらず割って入った。 「オメエには関係ねえ! 口出しすんな! こいつは汚ねえ野郎だ。死んだって構わねえ」  赤ら顔の男がすごみ、怖い顔でこちらを睨む。 「事情は知らないけど、これ以上殴ったら、本当に死んじゃうよ」  私がそう言うと、男は私の胸ぐらをつかみ、他の一人が右側で一升瓶を振り上げた。とっさに私が足払いをかけると、ガシャンと瓶が割れ、男もしばらく立ち上がれなかった。 掟を破った浮浪者への制裁[#「掟を破った浮浪者への制裁」はゴシック体]  それですべてコトは収まった。ただ、腹が立ったのは、見物人のなかの数人が飛び出してきて、足払いで倒れた男を足蹴にしたことだ。 「何人もで無抵抗の人間をやるなんて、汚ねえぞ」  他の見物人の中からすぐ、そんな声が上がった。  その言葉を聞いて、私は思わず叫んでしまった。 「姑息なマネはやめろ!」  彼らは、私の一声で足蹴を止め、こちらと目があうと、気まずそうな顔をして新宿駅のほうへ歩いて行った。それまでは高みの見物をしていて、相手が倒れると今度は皆で襲いかかる。キチンとした身なりこそしているが、その中身は、一升瓶を振り上げた連中よりもうす汚い。私は心底、腹が立った。  実は、先のゴミ箱の情報をくれたのは、三人組にやられて大の字に伸びてしまった男だった。  喧嘩をしていたのは新宿駅周辺をねぐらにしている浮浪者仲間で、酒の取り分をめぐる内輪揉めが原因だった。浮浪者たちは毎朝、歌舞伎町の飲食店から出される空き瓶からわずかずつ酒を回収し、適当な量がたまったところで酒盛りを始める。  その日は大の字の男が酒の回収役だったが、仲間のところに持ってくる前に相当量を一人で飲んでしまった。つまり、男は浮浪者の掟を破ったことで、制裁を加えられたのである。  九四年五月末には、私が喧嘩を止めた場所のすぐ近くで、五十七歳と四十八歳の浮浪者二人が、頭や顔をコンクリートの塊で殴られて殺されている。これも浮浪者間のトラブルが原因だった。二人は、「態度が大きい。人の物を盗む」と因縁をつけられ、死の制裁を受けたのだ。  やっと立ち上がった男の顔には古傷があちこちにあった。殴られることに慣れっこになっているのか、十分も経たないうちに立ち上がった。額が裂けて血が流れていても、袖口でサッと拭くだけで平気な顔をしている。 意外な武器の隠し場所[#「意外な武器の隠し場所」はゴシック体]  私は男を近くの階段の端に座らせ、タバコを勧めながら雑談を始めた。  男は、自分はサハリン生まれで、戦後、三歳の時に親兄弟と北海道に引き揚げた。その後、岩手県に移って昭和五十年の正月明けに、東京へ出稼ぎに来た、と訥々《とつとつ》と語った。 「だがよ、こんな姿じゃ岩手に帰りたくても帰れめえ、恥ずかしくて。女房、子供はいねえが、オヤジ、オフクロは死んでんのか生きてんのか、じぇんじぇんわかんねえもんな」  先の浮浪者殴殺事件が起きたのは、この男と会って約一年半後のことである。被害者の一人が、五十七歳の岩手県出身者であることを新聞記事で知り、私は一瞬、この男と同一人物ではないかと気になった。  額の出血がなかなか止まらないので、私はポケットから取り出したハンカチを差し出した。男は、それを傷口に当てがいながら、しばし身の上話をしたあと、こんなことを口にした。 「俺を殴った連中は、中国の不良がおっかねえがら、酒あづめに行がねえんだ。半年ぐらい前だな、俺がたまだまゴミ箱からピストル見づけだら、別のゴミ箱をかき回していた日本語もろくに話せねえ奴らが来て、俺を殴りやがった。歌舞伎町もおっかねえよ、最近は。ゴミはうめえものがいぐらでもあんだけどな」  歌舞伎町で、日本人が中国系の男と喧嘩になると、相手の仲間がどこかへ消えて、すぐ拳銃やナイフを持って取って返して来るとは聞いていたが、まさかゴミ箱が武器の隠し場所になっているとは知らなかった。  歌舞伎町という街からは、とにかく凄まじい量の生ゴミが排泄される。清掃事務所が毎日回収するだけで約七十八トン、このほか飲食店が委託契約している民間業者の回収分が約十五トン、合わせてなんと約九十三トンにも上る。  新宿西清掃事務所の話では、 「朝早くから人が集まるところなので、毎朝八時半から九時半までの間に六十五台の清掃車を動員してすべての可燃ゴミを回収しているんです」  私は、ゴミ箱に近づく中国系の男をこの目で確かめようと毎日のように朝五時頃から街を歩き、あちこちの通りに目を凝らしてみて驚いた。生ゴミの恩恵に与かっている生き物がこれほどいるとは、私もそれまで知らなかった。それもゴミ箱を漁る順番がほぼ決まっているのだ。  まずポリバケツを漁り始めたのは、浮浪者。ウイスキーやビール瓶を耳元で振って残量を確かめると、まるで重要な実験でもしているかのように別の瓶に移し替える。暗黙のうちに縄張りが決まっているのか、ひとつの路地で二人の浮浪者の姿を見掛けることはまずなかった。手にした空瓶は丁寧に元に戻し、食べかけの弁当を見つけると、それも丁寧に紙袋に仕舞い込んだ。その身のこなし方はあくまでもリズミカルで、まるでパントマイムでも見ているような気分になった。  彼らが姿を消すと、次いで野良犬、野良猫があちこちから姿を現わし、ポリ袋を破って中身を引っ張り出した。中には首輪を付けたままの立派な犬もいて、飼い主の無責任さに腹が立ったが、ちょっと救われたのは、どれも丸々と太っていたことだ。骨の浮き出た野良犬は、とても可哀相で見ていられない。ここでは食い物に困るようなことはまずない。  ラブホテル街の一角で、犬がさかんに首を振っているのでよく見ると、澱《おり》がたまったコンドームが鼻先にからまっていた。  犬、猫の姿が少なくなると、次にやって来るのは、カラスだった。  カラスを忌み嫌う人は多いが、間近からよく観察すると、カラスの羽色はただの黒ではない。歌舞伎町の取材を始める二年ほど前に、私は、「カアチャン」「ガアチャン」と名づけた、二羽のハシボソガラスを雛から飼育したことがあるが、その微妙に紫がかった光沢は、光の具合で青緑に見えることも金色に輝いて見えることもある。これほど繊細で美しい黒は、それまで私は見たことがなかった。しかし、歌舞伎町で見掛けるカラスは、どことなく薄汚れているように見えた。都市鳥の宿命だろうか。  新宿御苑の方角から飛来したカラスの大群は、犬や猫がいなくなるまでちゃんとビルの屋上で待機していた。ヒヨドリもカラスとほぼ同時刻に姿を見せるが、カラスには分が悪いのか、なかなか街路樹から降りて来ない。カラスにやや遅れて、大きなドブネズミが何匹も現われた。  四六時中餌をついばんでいるのはスズメだけだが、私はある朝、細い体つきをした赤褐色の小動物がスズメを押え込んでいる場面を目撃したことがある。最初は信じられなかったが、それはイタチだった。いまでは山間部でもめったに見られないイタチが、どんな経路を辿って歌舞伎町に入り込んで来たのか、私は今もってわからない。  ともかく、ここ歌舞伎町では、生ゴミ漁りにも厳然とした秩序が保たれていた。そしてスズメを喰らうイタチの姿を見て、コンクリート・ジャングルにも弱肉強食、すなわち食物連鎖の法則がしっかり生きていることを改めて思い知らされた。  あちこちのゴミ箱の周辺を徘徊した結果、やっとマフィアに遭遇できたのは、暮れも押し迫った九二年十二月二十四日の朝五時半頃だった。前夜は、忘年会帰りの客やクリスマスを前にした若い買い物客が歌舞伎町に流れ、まともに歩くこともできないほどの混雑ぶりだった。  目つきが鋭く、いかにもそれらしい五人組の男たちがいたのは、華僑が経営する『風林会館』裏手の通りだった。 黒い包みを取り出す二人組[#「黒い包みを取り出す二人組」はゴシック体]  私はとっさに千鳥足で歩き始め、酔っているフリをした。だが、フリをするにも限度はある。中国系不良の中には、日本人の酔客をターゲットに、路上強盗でカネを稼いでいる者が多いと聞いていたからだ。  五人組は立ち話をしているだけで、なかなか動こうとしない。私は千鳥足で連中の横を通り越した。どの地域の言葉なのか、私にはさっぱりわからないが、耳に入ったのは、間違いなく中国語だ。二人は手ぶらだが、他の二人は携帯電話を持ち、残りの一人は茶色のセカンドバッグをかかえていた。  九二年九月、台湾マフィアの王邦駒が警官を撃つのに使った拳銃は、セカンドバッグに隠されていた。私は急にそれを思い出して、バッグの中身が余計に気になってしまった。  そのビルのオーナーには悪いことをしたが、連中から十メートルほど離れたところで、私は仕方なく壁に向かって立ち小便を始めた。酔ってもいないのに、わざと体を大きくゆらしての立ちションは、意外に難しい。ちびりちびりとやりながら時間をかけて観察していると、五人が二手に分かれ、二人組のほうがこちらに向かって歩き出した。  二人ともまだ三十歳前。後ろを通り過ぎて二十メートルほど行ったところで、私はゆっくり連中の後を追った。三十秒も歩かないうちに、二人組は区役所通りに向かう道に入った。そこには本物の酔っぱらいが何人もいたので、私もだいぶ気が楽になった。  一人は小太り、もう一人は痩せぎすで、背丈はともに百七十センチぐらい。服装は地味で、二人とも申し合わせたように同じ茶褐色の半コートを着ていた。  区役所通りに出るちょっと手前で二人が急に立ち止まった。痩せぎすのほうが周囲をキョロキョロと見渡すと、小太りのほうが道端の青いポリバケツに深く左手を突っ込み、何か黒い包みを取り出した。  私はゲロを吐く恰好をしながら、その一部始終を数メートル後ろから目撃した。小太りのほうがその場にしゃがみ込むような恰好で黒い包みを広げ、中から新聞紙にくるんだ紙包みを二つ取り出すと、コートの両側のポケットに一つずつ突っ込んだ。あっという間の出来事だった。  それから二人組はすぐ先の区役所通りでタクシーを止め、職安通りに消えていった。  タクシーの会社名と車輛番号を書きとめておき、あとで運転手に会うと、二人組は山手線高田馬場駅の近くで降りたという。 「料金は千二百三十円、メーターを見て、背の高いほうが『イチ、ニ、サン、いい数字ね』なんて冗談言ってたな。二千円出されたので、釣り銭を渡そうとすると、『アナタにあげる』と言って、受け取らなかった。一人のほうは黙っていたからわからないけど、背丈のあるほうは、簡単な日常会話ならできるって感じを受けたね」  料金をもらう時、右手の親指の付け根に、指輪をはめたように濃紺色の刺青《いれずみ》が入っているのが見えた、と運転手は付け加えた。  それが何を意味するのかは不明だが、あの二人組は中国系マフィアの一員で、紙包みの中身は、浮浪者が生ゴミ漁りの最中に見つけたのと同じ拳銃であることは想像に難くない。そして、二人組と別れて別方向へ行った三人も、恐らく同じように武器の回収に行ったのだろう。 「六合彩」というギャンブル[#「「六合彩」というギャンブル」はゴシック体]  そうこうしているうちに、歌舞伎町のクラブで働いている馴染みの台湾人ホステスから、ポケットベルに連絡が入った。彼女の店にはたびたび足を運び、こちらからは週に一、二回のペースで電話を入れていたが、彼女のほうから連絡を取ってきたのは、この時が初めてだった。 「アナタに言うのは初めてだけど、実は今日は、六合彩《リウフーツアイ》の日なの。だから女の子は半分以上休みね。店も暇だから、顔を出して。ワタシ一人でアナタの相手する。小さい声で話せば、仕事の話もちょっとなら大丈夫よ」  彼女はこちらの取材目的を十分承知したうえでの協力者だった。日本に通算して四年も住んでいるので、日本語にも不自由しない。 「あとで顔出すけど、その六合彩って、いったい何のことなの? 台湾のお祭りのこと?」  私はごく自然に反応したつもりだが、何を思ったのか、彼女は急に笑い出した。電話の向こうで、腹をかかえている姿が思い浮かぶほどの大袈裟な笑い方だった。  私は嫌な気分になった。時々彼女は、何か気に食わないことがあったりすると、それを表情に出さない代わりに、わざと大笑いすることがあるのだ。この時も私は逆に、台湾人が傷つくようなことを訊いてしまったのかな、と一瞬心配になった。  しかし、それは私の思い過ごしだった。笑いが止むと、彼女の口から意外な話が飛び出した。 「六合彩はお祭りじゃないよ。でも、流氓にはお祭りかも知れない。だから、アナタの言ったことが面白かった。六合彩は、台湾や香港の流氓が関係しているギャンブルのことよ。歌舞伎町だけで、一日に何千万、何億のお金が動くこともあるの。  六合彩があるのは、火曜日と木曜日だけど、台湾や中国の女の子は、この二日間はまったく働かないね。ギャンブルに夢中になって、店に来なくなる。詳しいことは、あとで話すわ」  中国系マフィアの資金源は、麻雀とサイコロ賭博ぐらいと思っていたので、私は六合彩というギャンブルを知って興奮してしまった。その言葉には、南の島のジャングルに棲む極楽鳥を連想させるような美しい響きさえ感じられた。  彼女の店へ行くには、JR新宿駅から歩いてコマ劇場の裏手に回り、ラブホテルが何軒も並んでいる細い路地を通り抜けるのが、一番の近道だった。 「日本のヤクザは怖くない」[#「「日本のヤクザは怖くない」」はゴシック体]  ただ、このコースを選ぶと、タイやマレーシアなど東南アジア系の街娼に言い寄られるので、それを振り切るのにひと苦労する。 「アナタ、イイコト、ダイスキネ。ワタシもダイスキ、二人でアソビマショ」 「ワタシ、アナタのカラダ、マッサージするよ。サービス満点、病気ナイ、エイズ心配ないよ。一時間二万円、安いよ。アナタ日本人、お金たくさんあるね」  国籍に関係なく、口からでるカタコト日本語はイントネーションも内容もほとんど同じだ。  まともに歩けば、コマ劇場からその店までは、四、五分で行ける。ところが、その四、五分のあいだに十数人の街娼が言い寄って来る。ちょっとでも立ち止まったり、言葉を返したりすれば、その気があると見込まれ、さらに執拗な誘いを受ける。 「アナタ、セックス、スキスキネ」といった程度しか話せない子もいるし、一方、各地のスナックで働いた経験があって、上手に日本語を話す子も多い。  街娼たちの顔はこの日も派手な化粧、服装とは裏腹に、暗く沈んでいた。眼だけ異様に充血して、脂っ気のない乾いた皮膚から化粧の白い粉が浮き上がっているように見える。これといって満足な食事もせず、午後三時過ぎから翌朝まで通りに立ち、その間、三、四人の客と一人二時間ずつ、近くのラブホテルで過ごすというのだから、疲れるのも無理はない。  じつは彼女たちも中国系マフィアの資金源になっているのだ。街娼の一人は、私にこう囁いた。 「ワタシ、台湾の男に毎日三千円払うね。払っている女の子、たくさんいる。借金たくさんある子、ぜんぶ取られる。残るのチップだけよ。払わないと、アナタ、怖いよ。棒で殴る、足で何度も蹴る。顔、お化けになった子いるよ。逃げたら、殺されるね。二年前、タイの女の子、歌舞伎町からいなくなった。彼女の部屋に血たくさんあった。殺されたね。警察? 警察は知らないね。ワタシ、アナタに初めて話すよ。  ヤクザ? 日本のヤクザは中国、台湾の男より怖くないね。殴らない。でも、スケベー多い。ヤクザにも毎日三千円払うね」  たとえ外国人の街娼でも、かつては地廻りのヤクザが完全に仕切っていて、そこに他の勢力が手を出すようなマネは考えられなかった。ところが、今は国際化を迫られたというのか、「黒社会」が街娼にまで触手をのばし、ヤクザ、中国系マフィアの縄張りが場所によって重なり合うようになってしまった。  歌舞伎町に拠点を持つヤクザは、こうした事態を指をくわえて見ているのだろうか。 「連中はやり方が巧妙でね。組織が世界中にまたがっているから、どこからでも女を連れてこれる。最近は見掛けないが、歌舞伎町の立ちんぼの中には、台湾クラブで働いていた子もいた。麻雀賭博でマフィアに借金を背負わされて、道に立たされたんだ。今は、女の首ねっこを押えているのは、ヤクザじゃなく、チャイニーズ・マフィアなんだ。連中は血も涙もない。何かあると、すぐブスッとやる。  マフィアが立ちんぼを引き揚げたら、ヤクザは一人あたり三千円どころか、一円も手にできなくなる。昔と違って歌舞伎町周辺には、日本人の立ちんぼは一人もいないんだからな。まあ、実害がなければ、日本側も争いを好まないし、連中もそう望んでいるはずだ。けっしていい気はしないが、今のところは黙認している」  ヤクザも弱くなった、と軽い冗談のつもりで言いかけたところ、この組関係者は顔を真っ赤にして怒り出した。 「馬鹿を言うな! 立ちんぼが、マフィアの命令でカネを出し渋るようなことになったら、ヤクザは黙っちゃいない。麻雀の賭場だって同じだ。客は日本人じゃない。中国人、台湾人同士で勝ち負けを楽しんでいるのに、俺たち日本人が口出しできんだろ?  ただな、ヤクザが新法(暴力団対策法)で手足をガンジガラメにしばられていることを、連中はよく知っている。ところが連中は、新法の適用外だ。警察がこれ以上ヤクザを封じ込めれば、その隙を突かれて、歌舞伎町はいずれ外国のマフィアに占領される。毒は毒をもって制す、という言葉があるが、連中を叩きのめせるのは、日本じゃヤクザだけだ。  ふざけたことに、最近の中国系は、留学生くずれのチンピラでさえ、ヤクザに刃向かってきやがるからな。ヤクザをナメているのは外国のマフィアだけじゃない。この前、こんな場面を見たんだ。俺とは代紋の違うある組の若い衆が、学生みてえな奴らとコマ劇場の近くで喧嘩してたんだが、ヤクザが逆に、『俺はカタギだ、カタギをナメんじゃねえ!』って怒鳴りまくられているんだ。それどころか最後は、皆の前で袋叩きにされちまった。同じヤクザの俺としては、恥ずかしいというか、腹立たしいというか、何とも言えない複雑な気分だったよ。まあ、日本人はともかく、この種のちいちゃな摩擦が、いつか必ず大きな衝突につながるな」  殺人、麻薬、武器の密輸・密売、売春、中国大陸からの密入国斡旋。アメリカではいま、中国系のマフィアによる組織犯罪が、大きな社会問題と化している。  ニューヨークやロサンジェルスでは、チャイナタウンを根城に勢力をのばし、韓国系マフィア、ベトナム系ギャングとマシンガンを使った血腥《ちなまぐさ》い抗争を繰り広げている。殺しと脅しでアメリカの地下社会に君臨してきたイタリア系マフィアでさえ、連中を恐れているほどだ。 土地、建物の七割が華僑系[#「土地、建物の七割が華僑系」はゴシック体]  歌舞伎町がチャイナタウン化して、ニューヨークのようにならないという保証はどこにもない。日本人妻、帰化中国人名義のものも含めると、歌舞伎町の土地、建物は、なんと「約七割が華僑系の所有物件」(在日台湾人実業家)ということである。それに韓国人所有の物件を加えれば、日本人に残された土地は猫の額ほどしかなくなる。  近い将来、歌舞伎町はもちろん、都内の主だった盛り場は、中国系マフィアや他の外国勢力に牛耳られるようになるかも知れない。  いまはネオンの陰に隠れて、滅多に姿を現わさないが、彼らは確実に、しかも急速にその勢力を拡大し、しっかりと根を張りつつある。最近は、銀座にも外国人ホステスの姿が目立つようになった。そのことを、歌舞伎町に商業ビルを所有する華僑の一人に話すと、「何も不思議なことはないよ」と言われ、こんな言葉が返ってきた。 「銀座はもう日本人だけの聖域じゃない。中国やいろんな国の女の子がこれからもっともっと増える。日本人を雇うより安上がりだから、そうなるのが自然なんだ。女の子が先に行って、流氓があとを追いかけるだけの話だ。いずれは歌舞伎町や池袋と似たようなことになる。ただ、こちらにとって困るのは、流氓が増えると、私のようなまともな中国人まで悪く見られることだよ」  ──目指す台湾クラブにそのホステスを訪ねたのは、夜も九時を過ぎていた。  夕方の電話で彼女が言っていた通り、ホステスも客も少なかった。普段なら十二、三人いる女の子が、彼女を含めて五人しかいない。そのうち、三人がチャイナドレスを着ていた。この店では中国から来た子は、チャイナドレスを着ることになっている。チャイナ服の三人はともに上海出身で、在留資格は一応「就学生」になっている。 「日本の男の人、チャイナドレス大好きね。それも両側が上まで割れているのが好きね。アナタも好きなんじゃない?」  台湾出身のホステスがそう言ってニヤッと笑った。体を擦り寄せるようにして、彼女は小声で話し始めた。 「アナタに夕方話した六合彩は、本当は香港の宝クジなの。でも、台湾では禁止されている。三つ(三桁)とか、五つとか好きな数字を並べて、それを抽選で当てるの。香港では、数字が六つに決まってるけど、流氓がやるのは、数字の数が多いほど、当たった時はお金がたくさん儲かる。何百倍にもなる。その日に賭けて、その日のうちに当たったか当たらないかわかる。抽選は香港でやる。それが火曜日と木曜日なの。台湾人は簡単なギャンブルが好きで、すぐ結果を知りたがるから、その日は仕事にならないね。ちょっと待って」  彼女がテーブルの下で私の足を軽く蹴った。ママがオードブルを持って席に割り込んで来たのだ。このママは、配偶者ビザの在留資格を取得するため、ある日本人と偽装結婚している。三十五、六歳でスラリと背が高く、実に綺麗な女性だ。 「いま、男と女の大事な話をしてるんで、ママ、あとで来てくれないかな」  私はママを体良く追い払った。 口紅で「天道盟」と殴り書き[#「口紅で「天道盟」と殴り書き」はゴシック体]  この店で私の職業を知っているのは、このホステス一人だけだ。 「流氓の愛人になっている子や、流氓の手先として客や警察の動きを探っている子もいるので、店ではわざとエッチな話をしたりして、変に思われないようにしなくちゃ駄目よ」  ホステスからは厳しくそう注意されていた。ママが離れてから、ホステスは声を落として話を続けた。 「六合彩は、現金で賭けるの。歌舞伎町にいる流氓が裏でコントロールしてる。実際は女の子からお金を集めるのは、店のママや台湾人のマネージャー。でも、うちのママはやってない。女の子から注文とると、それをまとめて台湾の組織へ流す。台湾のマフィアはすぐ、香港のマフィアに流すのよ。当たったら、必ずお金は払ってくれる」  ちょっと話すと、しばらく間を置いて、またちょっと話すといった感じで、実にもどかしい。  彼女の話を聞く限りでは、私設宝クジあるいは香港の公認宝クジのノミ行為といった形態だ。日本以外の国でも盛んに行われているというから、ヤクザがやっている野球賭博や競輪、競馬のノミ行為とはケタ外れである。  台湾マフィアが歌舞伎町に入り込んで真っ先に手をつけたのが、麻雀、トランプ賭博。しかし、これらは人数に限りがあり、六合彩のように不特定多数を同時に相手にすることはできない。六合彩の大胴元はマフィアはマフィアでも台湾ではなく、香港マフィアである。中国系のマフィアは、内部分裂も激しいが、地下で世界中つながっている。 「六合彩やってる台湾の組織って、何て名前?」  私がこう聞いたとたん、ホステスは顔を引きつらせて黙りこくってしまった。そして、しばらくしてトイレに立った。 「ビールはもういいわ。ヘネシー飲ましてくれる?」  トイレから戻ると、彼女はいつもはめったに口にしないブランデーを飲み始めた。  私がその組織名をやっと聞き出したのは、夜中の二時過ぎ、店から出るエレベーターの中だった。別れ際に彼女から渡された紙切れには、赤い口紅で「天道盟《テイエンダオモン》」と殴り書きされていた。 [#改ページ]  無国籍売春クラブの秘密  六合彩《リウフーツアイ》──歌舞伎町を侵蝕する「黒社会」はすでに人種の坩堝《るつぼ》と化して資金源も多様化しているが、これもそのひとつだろう。  客は中国、台湾、香港など中国語圏出身者がほとんどだったが、最近は、他の東南アジア諸国から来た華僑や日本人の客も徐々に増えつつある。台湾クラブの馴染み客になって、ママやマネージャーから信用を得ると、それとなく誘われるのだ。  六合彩は十万円単位で賭ける客も多く、しかも、賭け金は事前に現金で集めるのが原則ということなので、あとで貸し借りのことでトラブルが起きるようなこともない。  これだけ大がかりなギャンブルは、小さな組織では手にあまる。台湾人ホステスから、中間胴元として六合彩を裏で取り仕切っているのが、台湾に本拠を置くマフィア組織「天道盟《テイエンダオモン》」であることを私は聞き出した。  天道盟とは、一体いかなる組織なのか。  その実態を探るため、まず私は、茨城県内に住むある暴力団の中堅幹部だった男を訪ねた。  九〇年春のことだが、男は仲間が起こした恐喝事件にからんで日本の警察当局に目をつけられ、二カ月ちかく台湾に逃げていたことがある。その時、台北市の南西にある繁華街|萬華《ワンホア》で、天道盟系列の流氓と知り合い、何度か酒を一緒に飲んだことがある、とその男の知人から聞かされていた。 「台湾へ行って三日目のことだ。飲みに行った帰りに、二十二、三歳のホステスを連れて料理屋で飯を食っていたら、店の奥のほうから男が三人、こっちの席に寄って来て、『アナタ、山口組?』と声をかけてきた。俺が『組が違う』と言うと、中の一人が『ワタシもヤクザね』と言って、やけに喜ぶんだな。あの時は気味が悪かったよ。  驚いたのは、そのあとだ。店の従業員が一升瓶を持ってきて、テーブルの上にドンと置いた。これがなんと新潟の『越乃寒梅』なんだ。『日本からなんでも手に入る』と豪語していたところをみると、自分たちの組織を自慢したかったんだろうな」  男は、萬華は屋台や売春宿、路上賭場が多く、マフィアの巣窟だった、と台湾での出来事を振り返った。  歌舞伎町で警官を撃ったあの王邦駒《ワンバンジユ》も、じつは萬華を根城にしている流氓組織「芳明館」に所属し、殺人、恐喝、拳銃や麻薬の取り引き、人身売買、管理売春と悪の限りを尽くしていた。 ヤクザに接近した「天道盟」[#「ヤクザに接近した「天道盟」」はゴシック体] 「俺が会った三人は、一人が天道盟系列の親分で、他の二人はそこの幹部だった。天道盟は、関西のヤクザと付き合いが深く、その親分も大阪、神戸には七、八回行ったことがあると言っていた。  名刺を貰ったけど、表向きは貿易会社の社長だ。ダボシャツに似た服を着て身なりは地味だし、マフィアの親分だなんて、堅気の人間にはちょっと見ただけではわからんよ。  ただ、飲み屋の人は皆、連中を知っている。だって、酒飲んでる間、堂々とピストルを二、三丁、テーブルに置いたままなんだから。日本では考えられないことだよ」  男は帰国直前になって、この三人から覚醒剤の取り引きを持ちかけられたという。『越乃寒梅』まで持ち出して日本のヤクザに接触してきた裏には、そんな思惑があったのである。  男の話を聞いたあと、ツテを頼って知り合ったある台湾人実業家に天道盟について訊ねると、意外な実態が浮かんできた。その台湾人実業家は、「天道盟は台湾でいま一番大きい組織だ」と前置きしたうえで、こう語った。 「台湾では竹連幇《ジユリエンバン》と四海幇《スーハイバン》が有名だが、この二つは外省人、つまり元々は大陸から来た連中の影響が強い組織です。天道盟は逆に、本省人(台湾省出身者)が中心の組織です。台湾は現在、人口の三分の二以上が本省人だから、天道盟は増々大きくなるでしょうね。  二、三万人の組織と聞いたけど、組織自体はまだ新しい。私が初めて天道盟という名前を聞いたのは、八〇年代に入ってからです。台湾の警察にいる友達が言ってましたけど、政治家、実業家、そして警察の中にも、天道盟のメンバーがいくらでもいるってね。学校や病院を経営している者もいるそうです。竹連幇や四海幇なんかと比べたら、まだホヤホヤの新興ヤクザですけど、結束力は強くて政治にもかなり食い込んでいると聞いています。  台湾は、外省人主体の国民党の一党独裁がずっと続いてきたんですが、それに反発した本省人が一九八六年十一月に、民進党(民主進歩党)という野党を結成しました。台湾独立のスローガンを掲げ、台湾政界の新興勢力として国民党をじわじわ追い上げていますが、じつは天道盟は、同じ本省人ということでこの民進党と関係が深い。  歌舞伎町にも民進党の立法委員(国会議員)の取り巻きがたまに顔を見せますが、そんな時は、天道盟に繋がるある台湾人が派手に接待してますよ。あちこち飲み歩き、最後には好みのホステスを当てがうことになるんですが、相手が望むのは日本人でも台湾人でもない。本省人だから大陸の女性が嫌いかというと、まったくその逆なんです。どんな理由があるのかわかりませんが、その取り巻き連中の夜の相手は、北京や福建から来た子ではなく、いつも必ず上海出身の子だそうです。私から見ても、上海の子はオシャレで魅力的ですよ。台湾で働けば、月に軽く百万円は稼げますね。でも、今は政治が邪魔して、台湾へは連れていけない。  それはともかく、台湾人というのは、相手から受けた恩義に対しては非常に敏感なところがあるんです。相手にそれ以上のものを返そうとする。その立法委員の取り巻きが、歌舞伎町の天道盟関係者にどんな形で借りを返すのか、そこが興味のあるところなんです」  天道盟に限らず、中国系マフィアは、もともと秘密結社的性格が強く、実態を把握するのは容易なことではない。確かなことは、この台湾最大の流氓組織が歌舞伎町に密かに潜入し、六合彩というギャンブルで莫大なカネを吸い上げていることである。  しかし、流氓の資金源はもちろん六合彩だけではない。その事実を思い知ったのは、全くの偶然からだった。夜中の二時ちかく、ラブホテルが蝟集《いしゆう》している歌舞伎町二丁目を歩いていると、あるビルの前で妙な光景にぶつかった。  多種多様の人種の女性が、つぎつぎとそのビルの中へ消えていくのだ。三十分ほどの間に、女性は十六人を数えた。見上げると、さまざまな店名の入ったネオンサインが二十数個も飛び込んできて、彼女たちがどの店に入ったかはまったく見当がつかない。  後でわかったが、このビルには、陰で台湾マフィアが操る秘密売春クラブがあり、彼女たちはそこのホステスだったのだ。  内情を知る台湾クラブの中国系マネージャーが教えてくれた。 「二年ちょっと前までは、お客さんも多く、いい店だった。ところが、経営者の台湾人ママさんが、流氓に麻雀に誘われ、五、六千万円負けてしまった。払ったのは、八百万円ぐらい。このためママさんは流氓から、台湾の両親を殺すと脅され、自分も包丁で首を切られそうになった。  付き合ってた日本の社長さんに相談したら、その人、怖くなって逃げた。結局、流氓の女になって、店を乗っ取られてしまったよ」  この秘密売春クラブが開くのは、いつも夜中の二時前後だ。マネージャーが話を続けた。 「他の店から流れて来るお客さんが目当てでね。そこに客を連れていくのは、台湾クラブや中国クラブのホステスだよ。ホステスの中には、決まった男がいて、他の客とは絶対に寝ない子がいる。そういう子が、仕方なくこの売春クラブに自分の客を押し付けてしまうんだよ。お客さんを連れていけば、店からカネも貰えるしね。  中には、流氓の愛人や息のかかったホステスがいて、酔っぱらった客をわざわざここへ連れ込み、カネを全部巻き上げてしまうこともある。  一人で行ったって、入れてくれない。中国か台湾クラブのホステスと一緒じゃないと駄目ね。第一、ネオンも消えているんだから、一見《いちげん》の客が入るのは変だよ」  増えるいっぽうの中国クラブとは比べものにならないが、以前は歌舞伎町に、三百軒を越える台湾クラブがあった。バブル経済の崩壊でそれが二百軒に減り、九三年四月の時点では、不況の長期化で日本に見切りをつける台湾人ホステスが多くなって、その数は約百五十軒まで減った。  それでも一軒あたり平均して十三、四人のホステスがいるので、台湾クラブだけでも全体では二千人前後になる。そのうち七、八割が、北京、福建省、上海などからの就学生ホステスだ。  上海出身のあるホステスが、恥ずかしそうに私に告白した。 「上海から来た子は、何人ものお客さんと寝るのは嫌がります。二時間三万円、一泊五万円でお客さんとデートしている子もいるけど、日本人は、恥ずかしいところを舐《な》めたりするから嫌だと言ってました。中国人は、そういう悪い癖を持ってません。北京の子は、結婚してるか恋人と一緒に日本に来てる人が多いので、店で体に触れられるだけでも怒ります。  台湾の子はうらやましいよ。日本で儲からなければ、すぐ台湾に帰れるから。中国の子は、日本に来るとき、たくさん借金してるから、帰りたいと思っても帰れないよ。私も二百何十万円も借金して、やっと日本に来たんです。中国では、三十年ぐらい働かないと、そんなお金は貰えません」 潜入した無国籍売春クラブ[#「潜入した無国籍売春クラブ」はゴシック体]  台湾人ホステスの全体数が少なくなっている中で、彼女たちは特定の客としか付き合わなくなってきている。実際、日本人とホテルまで行く子が少なくなってきている。  台湾マフィアが、売春クラブの経営に目をつけた背景には、歌舞伎町のこんな�ホステス事情�があったのである。  私が初めてその売春クラブに客として潜入したのは、店が開いてまだ間もない、午前二時半頃だった。店に連れていってくれたのは、来日三年目に入った上海出身のホステスで、前に一度だけこの店に客を案内したことがある、という。私は店の陰のオーナーが台湾マフィアであることも、こちらの職業も、このホステスには伏せていた。  問題の売春クラブは、件《くだん》のビルの中階にあった。ホステスがドアを開けた瞬間、私は息苦しくなってしまった。タバコの煙と入り混じった、えもいわれぬ香水の匂いがムッと鼻をついた。 「イラシマシィ!」  私の耳に最初に飛び込んできたのが、この言葉だった。ホステスは「イラッシャイマセ!」と言ったつもりだろうが、私にはそれが「ウラヤマシィ!」と聞こえてきた。店に入ったばかりだというのに、私はその瞬間からなぜか嫌な気分になった。  一番奥のボックスに案内されると、二十人ちかいホステスの視線が一斉にこちらに集中する。黒髪、金髪、ちぢれ髪、黒檀《こくたん》のように黒光りした顔、逆に透き通るように白い顔、サリー姿のインド人風、超ミニの東南アジア系──あまりにも国際色に富んだホステスの群に、私は言葉を失ってしまった。  十坪ほどの店内は、周囲が総ガラス張りなので、女の子が実際の数の二倍も三倍もいるような錯覚に陥る。  最初は、客は私一人だった。私の指名を待っているのか、女性たちは押し黙ったままである。狭い店で、しかも何の会話もなく大勢の女性に囲まれるというのは、なんとも気味が悪い。  しばらくすると、ママが笑みを浮かべながら、私の右隣りに腰を下ろした。 「どの子がアナタのタイプですか。遠慮なさらないで下さい」  流暢《りゆうちよう》な日本語だった。 「タイプは特にないんだけど」  私がそう言うと、ママの目くばせで、左側に超ミニの子が座った。最初は、タイ人ということだったが、じつは、タイの偽造パスポートで入国したラオス人であることが、その後わかった。ママの代わりに右側に来たのは、オランダ国籍のユダヤ人。そのあと入れ替わり立ち替わり十人ちかい女性が両隣りから私を誘った。  他のホステスの出身国はナイジェリア、スウェーデン、イスラエル、コロンビア、スリランカ、インド、フィリピン、マレーシア、中国、台湾。ここには世界中の女性が揃っているのだ。一人、ブラジル国籍の日系四世の子がいたが、彼女のような売春ホステスを歌舞伎町で見かけたのは、私は初めてだった。何かクスリを飲んでいるのか、思うようにロレツが回らず、ただ私の首に腕を巻きつけてくるだけだった。  日本人の金髪信仰を見抜いているのか、私がトイレから戻る際、ママはこっそり耳打ちした。 「ヨーロッパの子は、二時間四万円、泊まりは七万円。他の子より一、二万円高いですね」  ここで、私を店に案内した上海のホステスが引き揚げた。その帰り際だった。ホステスが、狭いカウンターの奥から出て来た四十代の男に五千円札を握らされるのが見えた。私を店に案内したことに対する謝礼だろうか。  じつは、この男が台湾マフィアだった。目はまるで眠っているかのように細く、視線がどこを向いているのか、まったく定まらない。中肉中背、額がちょっと禿《は》げ上がり、調理場にいたはずなのにスーツを着ているし、ネクタイも締めていた。  この台湾マフィアは何者なのか。正体を探るため何人もの台湾クラブ関係者に当たってみたが、しかし、相手はいずれも首をひねるばかりで、決め手になるような情報は何も出てこなかった。  ある時、一人の台湾人からこんな話が入ってきた。 「誰に聞いても、その流氓の名前がわからないんだ。同じ台湾人がわからないんだから、日本人がわかるわけがない。普通は、猿とか、猫とか、こっちが勝手にニックネームを付けているが、奴にはそれもない。他の台湾クラブで飲んでいる姿も見かけない。謎の男だよ。ただ、八六、七年頃に、斉瑞生《チールイシヨン》と一緒に歌舞伎町を歩いていた姿を見た者がいるだけだね」  斉瑞生(当時35)とは、台北市を根城にしている牛埔幇《ニウプバン》の幹部だった台湾マフィアである。台湾人貿易商の陳南光さん一家七人を皆殺しにした事件に関与し、計十五件の殺人容疑で国際指名手配を受けていたプロの殺し屋だった。しかし、八七年二月に、対立していた台湾の別の組織に新宿区大久保で殺された。資金源にしていた麻雀賭博のトラブルが原因で、額と右こめかみを拳銃で撃ち抜かれていた。 「このお客さん、アブナイネ」[#「「このお客さん、アブナイネ」」はゴシック体]  眼の前の男が、そのプロの殺し屋とどういう関係にあったのかは、今となっては窺い知れない。男は客の入りを気にしているのか、カウンターに両|肘《ひじ》をついて、奥からしきりに客席を見回している。  客は相変わらず、私一人だった。途中で、年配客が一人で入って来たが、十分ぐらいいただけで、すぐイスラエルの子を連れて出て行ってしまった。  私は二時間ちょっとウイスキーの水割りを飲んでから、引き揚げた。  エレベーターを降りて、仰天した。カウンターの奥にいるはずの台湾マフィアが、ビルの前に一人で立っていたのだ。実は、客席から見えないところに別の出入口があったのである。  ちょっと離れたところから、その男の様子を窺っていると、店から客と一緒に出ていったイスラエルの子が近くにあるラブホテルから姿を現わし、男と二人でまた店へ戻った。  三日後、私は再びその売春クラブを訪れた。ホステスの誰か一人を連れ出し、話を聞くのが目的だった。  前と同じように特に指名はせず、両隣りに座ったホステスとたわいのない冗談を交わしながら、入店歴の長そうな子に目星をつけた。その間、ママの目を盗んで、ホステス三人から名前と連絡先を聞き出したが、あとで確かめると、名前はすべて偽名で、連絡先は新宿駅周辺にある喫茶店の電話番号だった。 「あの店は、怖い流氓もいるし、女の子も悪いのが多いから、油断しちゃ駄目だ」  台湾クラブのマネージャーから何度もそう注意されていたので、私は店での振る舞いには十分気をつけていた。が、それでもトラブルが起きてしまった。  ママがすっ飛んで来たのは、連絡先を聞き出そうと、四人目のホステスを口説いていた時だった。 「アナタ、ここに仕事で来てるんですか? アナタの仕事、何ですか?」  顔をひきつらせて問い詰めてきたので、私はすぐ謝った。 「すみません。可愛い子なので、つい連絡先が知りたくなって」  間髪を入れず、ママの甲高い声が返ってきた。 「そんなことじゃありません!」  ホステスの視線がこちらに集まり、私はただオロオロするばかりだった。  そして右奥のテーブルを見た瞬間、私は思わず、「あっ!」と叫んでしまった。私のカメラがいつの間にか、テーブルの上に置いてあるのだ。  黒人女性が、カメラを持って立ち上がり、他のホステスに向かって日本語で呼び掛けた。 「このお客さん、アブナイネ。一緒に行っちゃダメ、ダメ」  すぐ後ろに置いてあった私のスプリング・コートから勝手にカメラを取り出してママに知らせたのは、その黒人女性だった。  私は、この種の取材をする際は、住所録、他人の名刺は一切持たないようにしてきた。万一、奪われたら、協力者にどんな迷惑がかかるかわからない。カメラもつとめて携行しないようにしていたが、その日は、新築移転した歌舞伎町交番の写真でも撮っておこうと、軽い気持ちでポケットに入れていた。 謎の流氓�リー�との対決[#「謎の流氓�リー�との対決」はゴシック体]  悪いことは重なるものだ。なんとかその場をとりつくろって店内の雰囲気がやっと和らいだかと思ったら、夜が明ける時刻にこんどはジャケットの内ポケットでポケットベルがピリリピリリと鳴り出した。日中と違って、明け方のポケットベルは、必要以上に神経を刺激する。ホステスの視線がまたもや私に集中した。  その直後だった。カウンターの奥から、まるで死神にでもとりつかれたような怖い顔でこちらを見詰めていた例の男が、私を手招きしたのである。他に客もいないし、ここは素直に従ったほうが得策と判断して、私はカウンターを挟んで、男と向かい合った。  間近に見ると、水疱瘡《みずぼうそう》でもこじらせた跡なのか、顔のあちこちに窪《くぼ》みのある小さな斑点が散らばっていた。 「アナタ、ダレ? オンナ欲しいか、欲しくないか?」  巻舌で早口。うっかりすると、何を言っているのか聞き取れないような喋り方だった。 「可愛い子は、他のお客さんが連れていってしまった」  返答に困って、私がそう言うと、男は「手を出せ」と命令口調で言ってきた。両手をカウンターの上にあげると、男は、私の指を一本ずつ撫で回し、最後に右中指のペンだこを二、三度、強く押えた。  私を詰問したママが、心配そうな面持ちで隣りに立っていた。  私は、男が手を離す瞬間を見計らって、自分から名前と職業を告げ、思い切って聞いてみた。 「実は流氓の王邦駒と一緒にいた仲間を捜している。あなたも流氓と聞いているが、連中を知らないか?」  曖昧な態度は、逆に不信をまねくので、率直な言い方をした。が、男は、こちらの言ったことがよく理解できず、ママのほうを見た。ママが説明している間、腰から下が小刻みに震え出したので、私はその震えを隠すためわざと上半身を大きく揺らした。 「何もわからないね」  男の答えは、それだけだった。  表情はほとんど変わらず、別に怒った素振りも見せなかった。それから、ママを介して先の貿易商一家七人殺しの斉瑞生との関係や所属組織について質問をぶつけてみたが、答えは同じく「わからない」の一点張りだった。  ところが、質問の最後になって、男はいきなり怒り出した。名前と正規のパスポートの有無について聞いたからだった。 「ワタシ、流氓でない。でも、台湾にたくさん流氓いる。台湾の流氓、コワイね。アナタ、殺されるね。帰れ! 店に来たらダメよ。帰れ!」  目をつり上げ、握り締めた右手で何度かカウンターを叩きながら、脅し文句を吐いた。客席には、ホステスが三、四人残っているだけだった。  店を出ると、ママが困り果てた顔をして、私を追いかけて来た。 「お願いだから、もう顔を出さないでね。あの人怒ったら、もっともっと怖いんだから。アナタ、殺されるかもしれないよ」  男と接触したのは、それが最後だった。  しかし、ここで諦めたら、何のために危ない橋を渡ってきたのかわからなくなる。私は全く別の方法でこの売春クラブに接近し、やっとのことであるホステスから話を聞くことができた。  彼女は、台湾マフィアの男を�オーナー�と呼んだ。 「アナタが店に来てから、オーナーの顔は一度も見てません。ママさんに電話あるけど、店には来ないね。たぶん、外国でしょう。どのグループかはわからないけど、オーナーは台湾のマフィア、これ、間違いないです。両方の腕にナイフで切られた跡がいっぱいある。  タイ、マレーシア、ボリビアの偽のパスポート持ってる。しょっちゅう外国へ行ってる。名前もたくさん持ってるね。女の子は最初から皆、�リッキー�、ママさんは、�リー�と呼んでた」 �リー�とは�李《リー》�のことなのか。この男が歌舞伎町の台湾人社会であまり知られていないのは、日本にいることが少ないからかも知れない。 クラブは麻薬取り引きの隠れ蓑[#「クラブは麻薬取り引きの隠れ蓑」はゴシック体]  八六年一月、偽造パスポートで入国していた劉煥榮《リウホアンロン》(九三年三月、台湾で銃殺刑)という流氓が、麻雀賭博にからむ台湾人恐喝未遂で警視庁四谷署に逮捕された。調べてみると、劉は台湾の竹連幇の大幹部で、なんと台湾やフィリピンで判明しているだけでも十二人もの大量殺人に関与して、国際刑事警察機構《ICPO》を通じて国際指名手配を受けていた男だった。  この�リー�という男も、やはり麻雀賭博にからんでママから店を脅し取っている。まだ警察の網にはかかっていないが、ひょっとすると、劉のような恐ろしい前科を持つ札付きの流氓かも知れない。 �リー�という謎の男の正体を追っていくうち、彼が陰で経営権を握る売春クラブが、じつは驚くべき犯罪の隠れ蓑になっていることもわかってきた。  この売春クラブのあるホステスが、決死の覚悟で私に打ち明けた。 「オーナーは世界中の麻薬に関係している。店の女の子も同じ。イスラエルとスリランカの子は、タイのバンコクから何度もマリファナ、ハッシシ(大麻樹脂)を日本に運んだことがあるわ。コロンビアの子は他にも七、八人いて、コロンビアやペルーのマフィアの命令で、コカインを日本に運んでいる。他の子のことはよく知らない。  でも、皆、麻薬運んだことある。だから、オーナーから逃げられないね。偽のパスポートの子、たくさんいる。  アナタのコートからカメラ取った、あのお尻の大きい子、ナイジェリアって言ってるね。本当はガーナ人よ。チュニジアやナイジェリアのマフィアに関係してる。台湾の子は本当はマレーシア人、マレーシアの子は本当はタイ人。タイ人の本当のパスポートは、ラオスやカンボジアからタイに逃げて、いまの歌舞伎町の別の店で働いている女の子が使っている。  自分がどこの国の人間か、いつ日本に来たか、自分でもわからなくなるよ。名前もクルクル変わるから、自分の名前も忘れることあるね。  私の新しいパスポートはオーナーに取られ、写真をチェンジして、ビザが切れてる別の子のパスポートにしたね。こんなこと、普通よ」  パスポートは偽造、名前は偽名、そして偽装国籍。歌舞伎町の外国人売春婦は、もはや無国籍も同然である。  歌舞伎町周辺には、三つないし四つのパスポート偽造グループがある。写真を貼り替えるだけの簡単なものなら五十万円前後、ビザや出入国スタンプまで工作した精巧なものなら百万円と相場もほぼ決まっている。日本のパスポートはやはり値が張るが、それでも三百万円で買える。これらすべてが成田で堂々と通用している。  パスポート偽造にも、中国系マフィアが深く関わり、その資金源になっている。例の売春クラブの流氓が、自由に世界を飛び回れるのも、当然といえば当然なのである。  台湾マフィアの数は、漁船による密航者も多く、本当のところは誰にもわからない。しかも、連中の棲息範囲は、歌舞伎町に限らず、横浜、川崎、京都、大阪、神戸、福岡など全国に及んでいる。 人の首を落とすことも平気[#「人の首を落とすことも平気」はゴシック体]  ただ、歌舞伎町に関しては、「おおよその見当はつく」と、ある台湾クラブの経営者が語る。 「私がホステスや台湾料理店の従業員の話を聞いて、計算してみたんです。偽造パスポートで来ている六、七人のグループが十三、四あるので、これで約百人。他に留学生くずれ、旅行者が居座って不良化した者、これら流氓化している準構成員が百人から百三十人。さらに、正規パスポートで来ている実業家流氓が、二十人から三十人。これだけで二百数十人になる」  これはあくまで大陸系、香港系マフィアを除いた数である。  台湾マフィアの組織構成は、たとえば歌舞伎町に拠点を開拓している竹連幇の場合、まず台湾に組織の頂点に立つ幇主《バンジユ》がいて、それを守るのが悍衛隊《ハンウエイドイ》、つまり親衛隊のことである。二番目の地位は護法《フーフア》といわれ、これは日本でいう若頭に当たり、その下に堂《タン》といわれる組がいくつかある。堂主《タンジユ》とは直系組長のことで、一番下が竹派青《ジユパイチン》と呼ばれる準構成員だ。  竹連幇の前身は竹林連盟《ジユリンリエンモン》といわれる。これは、台北市の隣りの永和市内に竹林路という横丁があって、そこで麻雀やトランプなどの路上賭博で小遣い稼ぎをしていた貧困家庭の子供たちや中学、高校中退の不良グループが組織化されたものである。同じ台北市に四海幇、牛埔幇という大きな組織があるが、四海幇は、台湾大学バスケットボール部の学生を中心とした四海《スーハイ》籠球青年隊《ロンチウチンニエンドイ》が、周辺の不良を集めて組織拡大したものである。この四海幇の関係者もたまに歌舞伎町に姿を見せる。それまで私は知らなかったが、台湾と取り引きがある日本人実業家に言わせると、日本には台湾マフィアの幹部クラスが遊びと仕事を兼ねてちょくちょく来ているというのだ。 「ホテル側は知らないと思うけど、連中がよく泊まるのは、赤坂一丁目にある全日空ホテルです。三十人ぐらいで来てワンフロアを借り切り、一人五十万円で白人の商売女を二人ずつ部屋に呼ぶんです。そんな馬鹿騒ぎを三、四日続けて、次は一週間ぐらい関西に行くんだが、その間も部屋は借り切ったままです。金の使い方が半端じゃない。白人に飽きると次は日本人ですが、六本木のクラブへ行った時は、気に入った子にその場で二百万円出してホテルに連れ帰った親分もいましたね。台湾には、連中が関係した、日本人の女だけ揃えた秘密売春クラブがあるんですが、金に釣られて向こうへ連れて行かれるホステスもけっこういますよ。  日本に来るのはもちろん、秘密の商談が目的です。資金源にするために、パチンコの景品買いのシステムについて日本のヤクザから説明を受けたり、第三者の名義で日本で不動産を取得する話とか、色々ですね」  しかし、困ったことに歌舞伎町でのさばる流氓はその中でも最もタチが悪い。台湾人のクラブ経営者は、歌舞伎町の流氓事情を次のように語った。 「歌舞伎町にいるのは、堂の幹部あるいは堂からはみ出た奴が多い。ポン引きやっているのは、竹派青の類です。皆、縄張りが欲しいから、すぐ他の流氓と喧嘩になる。台湾を出る時は、下っ端だった奴が、歌舞伎町で親分にのし上がった例もある。この男は、金や職探しに困っている留学生など、立場の弱い者をつぎつぎ呑み込んで子分にするので、一部の台湾人は彼を大蛇《ダーシヨー》と呼んでいるくらいだ。台湾語で�ドアズア�というんだけどね。一番怖いのは、一匹狼の流氓です。誰にでも歯向かうし、人の首を落とすことも平気ですから」  じつは歌舞伎町での台湾マフィアの横暴を見かねて、かつて、台湾の親分たちに談判しに行ったことのある組長がいる。 「こちらの独自の判断で九〇年に行ったんだが、とにかく、歌舞伎町には、得体の知れない台湾人があっちこっちにたむろしていた。仲間同士で拳銃の撃ち合いをしたり、店で包丁で切り合ったり、日本のヤクザが面倒見てる台湾クラブに金を要求したという話も入ってきた。こんなことを放っておけば、いずれ我々とも揉め事が起こるだろうと思ったので、向こうの親分連中には、組織の指示で新宿からチンピラを引き揚げさせるよう申し入れた。  台湾一番の親分は何かでシンガポールへ逃げていて会えなかったが、他は各地から来た幹部クラス五、六十人と会った。皆、拳銃持ったボディガードを連れているし、中には、酒飲んでるときでも制服警官をボディガード代わりにしていた親分もいた。接待交際費だけで一人が月に四、五千万円使うと言うし、こっちが飲み代なんか払ったら、恥かかすなと喧嘩になるよ。  向こうの連中は、我々みたいに代紋を刷り込んだ稼業上の名刺は持っていない。皆、会社の名刺だった。ほとんどがベンツに乗ってて、日本のヤクザと同じように全身に刺青《いれずみ》を入れ、指を詰めている者も何人かいた。歌舞伎町にいる大陸出身の不良と違って、姿、恰好はどこから見てもヤクザ然としてたよ。事務所の雰囲気も、日本のように代紋の入った看板や提灯が飾ってないだけで、他は我々とまったく同じだった。  いろいろ話し合った末、台湾で二番目の親分が『新宿の台湾人をどうするかは、いまは即答できない。日本へ行って、現状を自分の目で確認してから返答する』と言ってきた」  それから二カ月ほど経って、台湾から親分クラス約十五人が極秘裏に来日した。『新宿プリンスホテル』に一カ月ちかく逗留して、歌舞伎町を見て回ったが、結果はこんな具合だった。 「結局、台湾で二番目の大物でさえも手に負えないという結論に達した。警察に追われたり、組織内部の不始末で台湾に居られない連中が偽造パスポートで来たりしているので、いくら集まるように呼び掛けても、一人も来やしない。それに加えて、どの組織の誰が日本に来ているのかも把握できなかった。組織が日本のヤクザのような大きなピラミッド型じゃないんで、電話一本で組員を呼び出すようなわけにはいかなかった。台湾には小さな単独組織はいっぱいあるが、組としての横の連携はあまりないみたいだ。だから、台湾のどんな顔役でも、歌舞伎町の台湾マフィアは統制できない。  仕方がないので、グループでたむろしている台湾人の不良は我々が締め上げてやった。一時はこれでどうにか静かになったが、しかし、どうにもならないのは、上部組織から完全に離れてしまった一匹狼の奴らだ。しょっちゅう動き回っているので、どこに泊まり込んでいるのかさっぱりわからない」  一匹狼の流氓。その言葉が私の心に妙な小波《さざなみ》を立てた。組織に属していないということは、掟や命令系統にあまり縛られていないということである。うまく接触できれば、ひょっとしたら、歌舞伎町における黒社会について何か情報を引き出せるのではないか。ちょっとぐらい危ない目に遭っても、「一匹狼の流氓」なる者に接触したいという思いが強まった。  そんな時、私はある台湾クラブの関係者から、歌舞伎町の台湾人ホステスのあいだで、「魁手龍《クエイシヨウロン》」と呼ばれて恐れられている、一匹狼の流氓がいることを知らされた。台湾語では「クェイチュウリョン」と発音される。日本語に置き換えれば「魁手龍」は「片腕の龍」になり、「魁」には「頭目」の意味合いがあるということだ。 「片腕の龍」とは一体、何者なのか? [#改ページ]  消えた一匹狼「片腕の龍」  私が行方を追った「片腕の龍」と呼ばれる男は、直接会った人物によれば、左腕が肘《ひじ》のところで切断されている。  龍が腕を失った経緯について、歌舞伎町には、こんな噂が流布されていた。 「台湾で裏切り行為を働き、組織によって腕を切り落とされた」  年齢は、四十前後。大柄で太っていて、頬が大きく膨らんでいる。一見温厚そうに見えるが、まわりを脅すときの手口は、人が変わったように陰湿だという。  龍の資金源も、やはり麻雀賭博だった。主に台湾人ホステスを相手に賭場を開帳していたが、ホステスが龍を恐れた理由は、借金の取り立てが異常に厳しかったためだった。 「お金が払えないと、怒鳴る、物は蹴飛ばす、部屋の中が壊されてしまうね。それからすぐ女の子を無理に裸にして、部屋の外に引っ張り出そうとする。泣いて頼んでも、なかなか許してくれない。友達に電話してお金持ってきてもらうまで、裸でいなくちゃならない。それも、立ったままなの。麻雀に行かないと、ワタシが働いている店にすぐ来るね。ワタシの服に水をかけたり、ウイスキーの瓶やグラスを壁に投げつける。とっても汚い男よ。ワタシは龍のせいで、三回も店をクビになってるのよ」  ホステスは、「龍の顔は二度と見たくないわ」と言って、唇を噛んだ。  台湾クラブの関係者の話を総合すると、「片腕の龍」が初めて歌舞伎町に姿を現わしたのは、八五年ごろだった。  台湾では、戒厳令を解除する三年前の一九八四年末から、「一清専案《イーチンジヨアンアン》」と呼ばれる流氓追放運動が始まり、翌年七月には、「検粛流氓条例《ジエンスーリウマンテイアオリー》」ができて、流氓が厳しい取り締まりを受けることになった。つまり、流氓と認定されると、台湾の南東沖合い約三十五キロのところにある火焼島《フオシヤオダオ》という離島に強制収容され、一年以上三年以下の労役に服さなければならなくなってしまった。  強制労役処分を免れたいがために、かなりの数の流氓が偽造パスポートや密航船を使い、日本、東南アジア、中南米に競って逃げ出した。日本に上陸を果たした流氓は、その大部分が歌舞伎町周辺に潜った。歌舞伎町は、台湾人ホステスも多く、流氓が食扶持《くいぶち》を稼ぐには、恰好の避難場所であった。流氓の流入はさらに新たな流氓を呼び、同時に台湾から愛人も呼び寄せる。さらに、戒厳令解除後の民主化推進によって渡航制限が大幅に緩和され、訪日台湾人の数が一段と増加した。中には流氓に関係する者も数多く含まれ、彼らもまた歌舞伎町周辺に潜った。  やがてごく普通のマンションがアジト化していった。  流氓の流入が始まってまだ十年と経っていないが、歌舞伎町の「黒社会」は、こうして地盤が固められていった。殺し屋、狂人、強盗、鉄、ピストル、猫、猿、麒麟、大蛇……等々、歌舞伎町の「黒社会」には、実に様々な綽名《あだな》を持った流氓が足跡を残している。いずれも、流氓個々の外見的特徴、性格、犯罪歴などに合わせて、台湾人社会でこっそりつけられたものだ。 「片腕の龍」は、歌舞伎町では古参の部類である。「黒社会」については相当精通しているに違いない。 「片腕の龍」を追って、私は関西へ飛んだ。何人もの台湾人から、「龍は、活動拠点を大阪、神戸へ移した。今は向こうにいるはずだ」と聞かされたからである。実際、龍は九〇年末に、一部のホステスにこう話していた。 「近いうちに、大阪、神戸へ行って金を儲けてくる」  以後、歌舞伎町で龍の姿を見かけた者は誰一人としていない。  左肘から下がなく、そのうえ目立つ風貌の男なので、私は関西ですぐに龍の消息をつかめると思った。台湾マフィアが多い大阪・ミナミへ足を運び、まず、台湾クラブのマネージャーや台湾人ホステスに当たってみた。  ホステスには、「魁手龍」という文字をメモ用紙に書いて渡し、大阪各地で働いている台湾人ホステス仲間からも情報を集めてもらった。ところが、誰に聞いても、返ってくる言葉は同じだった。「そんな男、見たことも聞いたこともない」と言うのだ。  ミナミのウラ情報に詳しいはずの組関係者も、「まったく知らない」と首を振った。 「ただ、猫という綽名の台湾マフィアが、新宿から逃げて来ていることは聞いた。去年(九二年)の九月、歌舞伎町で警官を撃った犯人の仲間らしい。事件とどう関係あるのかはわからんけど、警察が追っていたのは事実だよ」  歌舞伎町ほど事態は進んでいないが、ミナミ周辺にも中国系マフィアが確実に増え、ここでも次第に「黒社会」が築かれつつある。ミナミ周辺の銭湯へ行くと、日本のヤクザとは違った、スジ彫りだけの刺青《いれずみ》を入れた男が目につくが、これが台湾マフィアである。  九一年のことだが、大阪市中央区島之内の路上で、台湾マフィア十人が銃撃戦を演じ、その一カ月後には、すぐ近くで発砲事件が起きて負傷者が出た。いずれの事件も、マフィアが資金源にしている麻雀賭博にからむトラブルが原因だった。大阪では、麻雀賭博で借金を抱え込んだ台湾人ホステスが、マフィアに追い詰められて、これまでに何人も入水、飛び降り自殺する事件が起きている。  結局、私は大阪で「片腕の龍」を見つけることはできず、次に神戸へ向かった。  大阪の場合と同じように、やはり台湾人ホステスに接触して情報を拾った。神戸はネオン街といっても、歌舞伎町やミナミと比べると、ごく狭い地域なので、情報はすぐに収集できた。しかし、結果は大阪と同じで、「片腕の龍」に関する情報は何ひとつ入ってこなかった。  私は神戸から再び大阪へ戻り、こんどは北新地へ向かった。JR大阪駅の南側にあるこの高級ネオン街には、台湾クラブと名のつく店はほとんどないが、日本人経営の普通のスナックに台湾人ホステスが意外に多い。  私は知り合いのクラブのママに無理をいって、歌舞伎町で働いたことがある台湾人ホステスを捜してもらうことにした。北新地には、麻雀賭博に大負けして、歌舞伎町から逃げてきた台湾人ホステスが何人もいる、と聞いていた。流氓の情報網にひっかかる危険があるため、彼女たちは台湾人が多い地域や台湾クラブはわざと避けて働いているのだ。 「いたわよ、二人見つかった。一人は、私の知り合いの店の子。もう一人は、知り合いのまた知り合いの店の子。どうするの?」  あちこちへ電話をかけていたママから、興奮した声が返ってきた。  深夜、二人をママの店に呼んでもらって話を聞いたが、一人はすぐ取材対象から外れた。歌舞伎町にいた期間が短く、情報に疎かったからである。  しかし、もう一人からは意外な反応があった。タバコの空き箱に「魁手龍」と書いて、ホステスに見せると、「知ってるわ!」と小声で叫んだのである。 「ワタシは会ったことはありません。でも、前に新宿にいた台湾人の友達から聞いて知ってる。お金のことで台湾の子をあまりいじめるので、女の子が何人かでお金を出し合って、別の流氓に助けてくれるよう頼んだそうです。二年ぐらい前です。魁手龍が大阪にいるって? それは嘘よ。だってそんな噂、聞いたことがないもの。何か知ってるか、友達に訊いてみるから、明日の夜、店のほうに電話して」  ホステスが金を出し合って雇った流氓と、一匹狼の「片腕の龍」の間に一体、何があったのか。龍はどこへ消えてしまったのか。やっとの思いで接触した麻薬密売人Kも、流氓の影に追い詰められるようにして歌舞伎町から忽然と姿を消している。取材の先行きを考えると、私は何やら背筋が寒くなってきた。 「片腕の龍」と親しい台湾人[#「「片腕の龍」と親しい台湾人」はゴシック体]  次の日、私は、東京に戻ってから、北新地の台湾人ホステスへ電話を入れた。ところが、ホステスの声がカラオケの音に掻き消されて、何を言っているのか、サッパリわからない。 「聞こえない!」と私が大声を出すと、ホステスも負けじと甲高い声で話し始めた。 「友達が言ってた。魁手龍がどこにいるか、知らないって。龍が付き合ってた台湾人が歌舞伎町にいるから、彼のところへ行ったら、何かわかるって。その人は、台湾クラブのマネージャーやってる」  最初、私は、「片腕の龍」を台湾語読みで「魁手龍《クエイチユウリヨン》」ではなく、「|※[#「矢+欠」]手龍《コイチユウリヨン》」と聞かされていた。聞き方によって、二つの発音はよく似ているが、あとで分かったことは、後者の「|※[#「矢+欠」]《コイ》」はどうやら当て字らしかった。  ホステスから教えられた台湾クラブは、『風林会館』から歩いて四、五分のところにあり、中国風の店名が遠くからも際立って見えた。  私は下見のために、その台湾クラブへ入った。黒服を着た従業員の案内で、左隅のボックスに腰を下ろして、店内を見回していると、日本語がペラペラの台湾の子が左側に座り、日本語があまり話せない上海出身の子が右側に座った。  ビールを二、三杯飲んだところで、台湾の子が、怪訝《けげん》そうな顔で私に話しかけてきた。 「ここ、誰かの紹介ですか?」 「いや、店の看板が目立ったんで、なんとなくフラッと入ってしまった」 「アナタ、珍しい人ですね。そんな日本人、滅多にいないですよ。ここのお客さんは、ほとんど香港か台湾の人ですから。日本人で来るのは、彼らの友達か知り合いだけですね」  言われてみれば、耳に入ってくるのは、中国語ばかりである。店の四隅には、鳥や花の絵が描かれた、大人がすっぽり入ってしまいそうな大きな花瓶が置かれていた。  ボックスの数も多く、店はほぼ満席だった。ホステスも若くて美人揃いである。他の台湾クラブとはまるで趣きが異なる。 「ここは香港や台湾のどんなお客さんが来るの? お金持ちが多いんじゃないの? 向こうはマフィアが多いから、たまにはそんな人も来るんだろうね」  私が冗談ぽく訊ねると、台湾の子は少し意気がった。 「お金持ち多いですよ。今、日本人は可哀相ね。不景気でお金入らないから。台湾、香港は景気がいいですよ。昔と逆ね。マフィアの人もたくさん来ますよ。この前は、香港からそういう人が来て、ジャッキー・チェンからお金を取ろうと脅したけど、あいつは一銭も出さなかった、と言って笑ってました。アナタ、マフィアに興味があるんですか?」  ホステスは、こちらが何か訊けば、それなりの答えは返してきた。だが、ホステスの素性がまったくわからないので、いくら冗談でも、きわどい話は努めて避けるようにした。万一、マフィアの愛人だったりしたら、妙な警戒をされて歌舞伎町での取材が難しくなる。  八九年のことだが、周暁秘という二十六歳の女性が、不法残留で警視庁に逮捕された。周は、東京・赤坂の高級会員制クラブの陰のオーナーで、自分も時にはホステスとして店に出ていた。 「その傷は毒針じゃないか」[#「「その傷は毒針じゃないか」」はゴシック体]  周の正体は、麻薬を資金源にしている香港マフィアのボス、コン・ユー・リンの愛人であり、同時に組織の幹部でもあった。しかも、周は当時、千三百億円相当のヘロインをアメリカに持ち込んだ容疑で、DEA(米連邦麻薬取締局)から指名手配されていた。 「ドモ、アリガト。でも、ワタシ、お酒飲めない」  右側の上海出身のホステスにビールを勧めようとすると、彼女はあわててグラスを両手で押えた。目が醒めるようなコバルトブルーのチャイナドレスが、体を動かすたびに、はち切れそうになる。周もこのホステスと同じ上海の出身だった。  私は「片腕の龍」と付き合いがあった台湾人マネージャーの顔を確認したあと、何事もなく店を出た。時計はすでに夜中の一時を回っていた。  そのあと、私は路地を通って、ある韓国料理店を目指した。そこの店主に、韓国ヤクザに関する情報収集を頼んでおいたので、ひさしぶりに訪ねてみることにした。  歌舞伎町二丁目にあるバッティング・センターの横を通り抜けようとした、まさにその時だった。  後ろに人の気配を察して、振り向こうとしたら、何者かが体ごとぶつかってきた。背中に、何か針で刺されたような痛みが走った。前のめりに倒れ、体を起こす間もなく、こんどは両側から男がのしかかってきた。 「なにすんだ!」  私は大声をふり絞ったが、騒ぎに巻き込まれるのを恐れて、通行人の誰もが見て見ぬフリをしている。私は必死に抵抗し、路面に押えつけられる前に体を反転させようとしたら、逆に足が滑って、横倒しになってしまった。  男たちは若い三人組だった。何を言っているのかわからないが、早口の中国語が飛び交っている。ナイフでも見えたら、抵抗はやめたが、三人とも素手だった。執拗に私の体を押え込もうとする。  かつて私は、新宿中央公園で、一人でチンピラ十八人と渡り合って、私を含めた全員が新宿署に連行されたことがある。新宿署からは、「相手のほうが被害者みたいだ。キミはちょっと過剰防衛だよ」と注意された。三人組が素手なら、なんとか撃退できると思った。  横向きに倒れていたが、一瞬、自由になった右手を振り回すと、パンチが一人の顔面に当たった。ひるんだ隙に、もう一人の足首を思いきり蹴飛ばすと、フラフラとよろめいた。  形勢が逆転して起きあがると、三人組は何か言葉を発しながら、二手に分かれて逃げ出した。私は一人を追いかけた。ところが、素面《しらふ》でないので、思うように走れない。  三、四十メートルも走ると、その男は、急に立ち止まった。そして立ちんぼらしい女性の腕を引っ張って、二人でラブホテルに逃げ込んでしまった。  私も男を追って、そのラブホテルに駆け込んだが、すでに二人の姿はなかった。 「いま入った二人、どの部屋ですか? こっちをいきなり襲ってきた奴でして……」 「あなた、警察の人?」  フロントの女性は、こちらの顔を見ずに訊いてきた。警察ではないとわかると、こんどは居丈高にこう言ってきた。 「うちは一人ではお断わりです。帰って下さい」  無性に腹が立ったが、なんとか気を鎮めて、馴染みの店へ行った。カウンターに落ち着いたら、急に背中が痛み出した。背中をまくり上げて、マスターに傷を見てもらった。 「血がにじんでいるけど、そう深い傷じゃないよ。これは、注射針みたいな細いやつだな。アイスピックだったら、こんなものじゃ済まない。ひょっとしたら、毒針じゃないか」  一瞬、ドキリとしたが、たわいないマスターの冗談口を聞いているうちに、気も休まってきた。背中の痛みも次第に軽くなってきた。 店の陰の出資者は香港14K[#「店の陰の出資者は香港14K」はゴシック体]  ところが一週間後、軽く受け流したマスターの冗談をまたも思い出すような事態が私の身に起こった。  突然、腰から背中にかけて、居ても立ってもいられないほどの激痛に襲われたのである。自宅にあった市販の鎮痛剤を通常用量の二、三倍飲んでも、一向に痛みは消えない。とうとう我慢ができなくなり、早朝、急患で病院に運ばれた。腰をかがめて十メートル歩くのがやっとで、診察室に入るなり、私は長椅子に倒れてしまった。九三年五月十四日のことである。 「本当に毒針だったら、どうなるのだろうか」  情けない気持ちにとらわれながら、襲われた場面が何度も脳裡をかすめた。 「そんなに痛いなら、麻薬打つしかありませんね。モルヒネですけど」  五十代前半の女医は、私の右脇腹に手を当てながら、そう言ってきた。こちらは激しい痛みのために言葉を出すのもつらく、右手を振って断わるのが精一杯だった。歌舞伎町で麻薬の密売ルートも追っていた私としては、いくら痛み止めとはいえ、気分的にもそんなものの世話にはなりたくなかった。モルヒネはアヘンの有効成分の一つである。しかし、診断の結果は、意外にも尿管結石。厄介な病気であることも忘れ、私は正直ホッと胸をなで下ろした。  それにしても、私はなぜ三人組の中国人に襲われたのか。こちらの取材目的を知った何者かの嫌がらせだったのか。それとも単なる金目当ての路上強盗だったのか。  襲われる直前までいた台湾クラブでは、うかつなことは何も話していない。不審を抱かれるような振る舞いもしなかったはずだ。しかし、それでも私の身元がバレてしまったのか。不安がよぎった。 「黒社会」のある事情通によれば、その店の陰の出資者は、どうやら香港最大のマフィア組織「|14K《サプセイケイ》」に関係する人物らしい。  正確な数字は誰にもわからないが、香港には、約九万人の構成員を持つといわれる「三合会《トライアド》」という世界最大の地下組織がある。「三合会」は現在、約五十組織に分派しているといわれるが、その中の一つが「14K」である。 「14K」は、国民党の命令を受けた台湾の特務機関によって、一九四九年四月に、大陸の広州市で設立された。設立当初は、反共、大陸反攻を旗印にしていたが、半年後の中華人民共和国の成立で、本来の設立趣旨が次第にぼけだした。組織は香港に追われ、やがて犯罪組織化していった。 「14K」は、歌舞伎町に進出している台湾の「竹連幇」とは同盟関係にあるので、歌舞伎町で台湾クラブの経営に関係しても、何ら不思議はない。台湾人ホステスを夢中にさせる「六合彩」というギャンブルも、中間胴元が台湾の「天道盟」であることは前に触れたが、大胴元は実はこの「14K」だったのである。  香港で「14K」の幹部と酒席を共にした組関係者の話を聞くと、金に貪欲な香港マフィアの素顔が浮かび上がってくる。 「接待ということで大きなクラブへ案内された。他に客が大勢いたのに、日本から客が来たから、という一言で一人残らず帰らせてしまった。つまり、それができるだけの力があるということだ。台湾のマフィアも一緒にいたが、バッグには百ドル札がぎっしり詰まっていた。聞くと、遊びの金だと言う。とにかく、14Kの幹部が話すことというのは、金儲けの話だ。何か売れる盗品があれば俺たちが買うと言うんで、こっちも驚いたが、仮に一千万円の品物だったら、日本渡しで十分の一の値段で売ってくれ、と言ってた。ヘロインは売り込んでくるし、殺したい奴がいるなら俺たちに金で殺させてくれと言うし、金のためなら何でもやるという感じだった。飲み食いだけならいいと思うが、仕事での付き合いはちょっと無理があると思った」  私は背中の激痛がおさまったあと、その台湾クラブを再び訪ね、こんどは正面きってマネージャーの台湾人に取材を申し込んだ。マネージャーが大の麻雀好きで、「片腕の龍」と付き合いがあることも、すでに周辺から情報を得て知っていた。私はまず、龍の消息について訊いた。 「ああ、あの腕のない龍さんね。うーん、どこにいるのか、ワタシは知らないね。彼はお金のことで恨まれていたからね。よくわからないけど、台湾に帰っているかも知れないよ。彼は、ちゃんとした正規のパスポートを持ってたはずだから。彼は、日本に来てから、台湾に一度戻っているんだ。その時、向こうの警察に捕まって、何年か刑務所に入っている。そしてまた日本に来たんだ。いま台湾に戻っていなかったら、どこかで殺されたのかもしれないよ。そんな噂も流れているからね。  台湾の女の子から聞いたけど、龍さんを追っていたのは、アナタだったのか。そんなことはあまり調べないほうがいいよ。日本人には悪いけど、歌舞伎町はもう日本じゃないからね」  私はしばし茫然として、言葉が出なかった。私が歌舞伎町で動いていることをやはり知られていたのだ。これで背中を針で刺された意味がよく理解できた。相手側に情報を流した台湾人ホステスは一体、誰なのか。マネージャーを前にして、私は瞬間的に何人ものホステスの顔を思い浮かべた。 香港マフィア�死�の警告[#「香港マフィア�死�の警告」はゴシック体]  マネージャーが「客がいるので、店の中じゃまずい」というので一緒に店外の通路に出た。 「この店は、香港の14Kが裏で経営していると聞いている。経営者の話を聞きたいんだが」  外へ出てすぐ、私は率直にこう切り出した。すると、それまでわりと冷静に対応していたマネージャーが、急に落ち着きを失った。  吸いかけのタバコをポトンと床に落とすと、右足と左足を交互に使いながら、それを何度も踏みつけた。顔は下を向いたままだが、イライラしているのが手に取るようにわかる。  またタバコを取り出して、火をつけた。そして、私の顔を見据えるようにして、こう言った。 「経営者に会わせることはできないね。アナタが会いたいと言っても、いまは日本にいないよ。日本には一年に二回か三回しか来ないからね。14Kは、確かにマフィアの組織だ。ぜんぶ含めたら三万人から四万人が関係しているからね。でも、香港では大きな会社を経営している人も多いよ。立派な人もいる。14Kのメンバーは、東京にもいっぱいいる。でも、普通の日本人には誰がメンバーか絶対にわからない。宝石店の経営者も多いね。だから、クラブを経営したって、何もおかしいことないよ。名前を出したくないから、スポンサーになって他の人にやらせているんだ。こんな話はもうしたくないね。あのね、アナタにはっきり言うけど、14Kは商売に触れることはものすごく怒る。こうなっちゃうよ」  マネージャーは、両手を広げて鳥が飛ぶマネをしたあと、頭をカクンと前に落とした。それは�死�を意味する香港マフィア独特の警告だった。相手が相手だけに、私は黙って身を引かざるを得なかった。  歌舞伎町は面積はさほど広くないが、そのわりにはなかなか奥が見えない、なんとも掴みどころのない街である。それだけに、マフィアに関する情報を得るには、それなりの工夫をこらした。  私は歌舞伎町全体を平面座標に見立て、『風林会館』を基点に区役所通りを縦軸、コマ劇場の北側を通る通称花道通りを横軸と決め、人や情報が座標の上をどう動くかを見ることで、周囲との微妙な距離感を推しはかった。まわりに与える印象を固定させないために、場所によっては、酒の飲み方や服装も使い分けた。特に中国系マフィアの動きを知るには、中国人、台湾人ホステスの協力が不可欠だった。クチコミ情報を一番握っているのは彼女たちだ。  私は、どの店へも必ず客を装って入り、店側には一部のママ、マネージャーを除いて最後まで身元を隠してきた。こちらの職業を知らせるのは、最終的には一店に一人だけで、それも同じ店に何度も通って、慎重に人物的な信頼度をチェックした。  ママの指示で客席を飛び回っているような売れっ子はなるべく除外した。そういう子は、なぜか優越感を持ちすぎて同国人との付き合いが希薄になり、実際にマフィアに関する情報にも乏しかった。何が何でも名刺を欲しがるような子も除外した。  時々、私は、トイレや電話で席を立つ際、ポケットベルをわざとテーブルの下に置くこともあった。ホステスの中には、こちらが席を離れている間に番号を競うようにしてメモし、あとで執拗に連絡してくる子がいる。私は、こういう子も協力者の見込みリストから外した。客集めに夢中な子は、日本人との付き合いに時間の大半を取られ、こちらの都合で何度か誘いを断われば、簡単に遠ざかっていくからだ。マフィアという取材対象を考えれば、協力者はやはり確信犯でなければならない。  結局、最後に残るのは、客にあまり人気がなさそうな地味なホステスか、古手のホステスになる。が、なんといっても口の堅さが最も重要だった。それを確かめるのはじつに難しく、最後は勘で判断するしかないが、判断に迷った時は、気安めにこんな方法を使ったりもした。突拍子もない偽りの情報を目当ての子にそれとなく耳打ちし、それが何日か後に他のホステスに伝わっているかどうかをチェックするのである。  こんなことを繰り返しながら、およそ半年の間に七十名を越えるホステスと馴染みになり、そのうちの約三十名にはこちらの素性を打ち明けた。歌舞伎町を山にたとえれば、彼女たちは、山岳情報に通じている、あるいはそれをキャッチできるガイドの役割を担っていた。遭難を避けるためには、自分に合ったガイドを選ぶ必要がある。正直に言って、彼女たちの協力がなければ、歌舞伎町での取材は一歩も進まなかっただろう。  しかし、協力者と見ていたホステスの中には、裏でマフィアとつながっている者もいた。「14K」が関係する店のマネージャーから言われて初めて知ったが、こちらの動きを相手側に密告したホステスは確かにいた。それは、マネージャーが口にした台湾人ホステスではなく、米国籍の中国人ホステスだった。それ以後、私は、他のホステスに対しても一点集中型の質問はできるだけ避け、こちらの興味の対象を絞られないように注意を払った。  この種の取材は、じつに骨が折れる。名刺や肩書きなどまったく通用しない世界なので、自分の身は自分で守らねばならない。相手が嫌がるしつこい取材やアテもない突っ込み取材は、良くて取材拒否、下手《へた》すれば相手側の暴力を呼び込むだけだ。逆に、頭をペコペコ下げて下手《したて》に出てもよくない。  歌舞伎町という狭い一定地域内での長期単独取材なので、自分の危機管理《リスク・コントロール》は日常の最優先課題である。どんな些細なトラブルでも、後に尾を引くような処理の仕方は禁物だ。歌舞伎町に出入りすることが難しくなるからである。しかし、取材活動に限らず、ここ歌舞伎町では、誰が、いつ、どこで、どんな災難に見舞われるかまったくわからない。  台湾や香港のマフィアも怖いが、歌舞伎町ではいま、上海や福建などから来た大陸系マフィアがその勢いを増している。  それまで表沙汰にはなっていなかったが、九三年五月十四日の深夜二時ごろ、コマ劇場の真裏にある雑居ビルTで、こんな事件があった。その日は、尿管結石で医師の世話になっていたので、私は歌舞伎町にはいなかったが、あとで関係者の話を聞いて、中国マフィアの凶暴な一面をまざまざと思い知らされた。  ビルの三階に、上海クラブと銘うった『S』という店がある。そこで一人で飲んでいた中国人の男が、店の前のフロアでやおら立ち小便を始めた。店側は、なぜか男と関わりを持つのを嫌がって、直接注意することはしなかった。その代わり、ビルの前の路地で客引きをしていた馴染みの若い日本人に連絡した。その若者が三階に駆け上がると、男は、両膝を抱くような恰好でしゃがみ込んでいた。近づいて、「ちょっと……」と声を掛けたその瞬間である。ナイフがいきなり股間に向かってきて、右大腿の内側を切られてしまった。若者は、一階に通じる階段に向かって大声で叫び、客引き仲間に助けを求めた。悲鳴を聞いて駆けつけた仲間の一人が、その時の様子をこう語った。 「『殺されるぅ! 助けてくれぇ!』という声が聞こえたんで、俺ともう三人が急いで三階に上がった。声を聞いた時、何か大変なことが起きたんじゃないかと思ったんで、別の仲間が近くの公衆電話から110番に連絡した。相手はナイフを持ってて、こっちは丸腰だから、うかつなマネはできない。それであまり近寄らないようにしながら、こんな所で小便なんかしたら、他の客が来なくなる、ここはトイレじゃねえぞ、と注意したんだ。相手はけっこう酔っていて、そのうち、ナイフをポケットに戻した。それから、小便で店を汚したんだから、店の責任者にちゃんと謝るように言い聞かせようとした。そしたら、警察が来る前に、どこからか仲間が四人飛んで来て、鉈《なた》みたいなでかい包丁やナイフを振り回された。そのあとは、何がなんだかわからない」  助けに行った四人のうちの一人は、頭部に十五針縫う切傷を負い、もう一人は小指を切られた。二人とも比較的軽傷で済んだが、しかし、他の二人は、今後の生活に支障をきたし、命にも関わりかねない大怪我を負わされた。  何で殴られたのかは不明だが、一人は後頭部陥没。東京女子医大で開頭手術を受けてどうにか一命は取りとめたものの、じつに危ういところだった。もう一人は、左手の指を根元から三本も切り落とされてしまった。  中国人の五人は、警察が来る前に全員逃げてしまった。それも当然なことで、事件が起きたビルは、歌舞伎町交番から百メートルほどの距離にあるのに、警官が現場に到着したのは、110番通報から三十分も経ってからだった。被害者には、「他のことで手が回らなかった」と警官は弁解しているが、こんな調子では、日本人は誰もコマ劇場の周辺など歩けなくなる。  聞き込みを続けた末、私は、関係者の証言や人相、背恰好などから、逃げた五人が歌舞伎町のあるポーカーゲーム店を溜り場にしていた上海マフィアであることを突きとめた。仲間を現場に呼び寄せたのは、それまで立ち小便の男が飲んでいた店の中国人ホステスだった。店にホステスを訪ねると、彼女は「アナタにあの人たちの連絡先教えたら、ワタシ、日本に居られなくなります。殺されますよ」と言って顔を強張らせた。私もそれ以上の長居は危険だった。  事件後は、さすがにポーカーゲーム店には出入りしていないが、私は一味がいまも歌舞伎町を徘徊していることを知っている。その中の一人は、変装のために丸坊主にして帽子をかぶったり、日によっては、女性と見間違うようなロングヘアのカツラを着用したりして、周囲の目をくらましていた。  ある日の夕刻、私は、コマ劇場から靖国通りへ抜ける中央通りでその男がたった一人で歩いているのを見掛けたことがあった。黒っぽい帽子を目深にかぶり、何があったのか、左手首に包帯が巻いてあるのが見えた。一瞬、近寄ってみたが、しかし、何が飛び出してくるかわからないような殺気を感じて、とても声を掛ける気にはなれなかった。  男たちと同じ上海出身のホステスがこんな光景を目の当たりにしていた。 「店が終わって、タクシーを待ってる時、四人の上海マフィアが靖国通りで強盗をやってるのを三度も見たことあります。一人が日本人の男にナイフを突き付けて、もう一人がサイフ、腕時計を取り上げる。他の二人は見張りです。強盗やるときは必ず手袋をしています。どうしてなのか、ワタシにはわかりません。上海のマフィアはすぐ刃物使う。話したことはないけど、ワタシは、その四人の顔を知ってます。上海で悪いことをしていた男ばかりです。  奪った品物は、別の中国人を使って、中国や台湾の女の子に売り歩くの。中国のマフィアは欲しいものは何でも手に入れます。本当のこと言うと、ワタシも盗んだものを買ったことがあります。デパートで二十万円以上のカシミヤのコートが三万円、金のネックレスが二つで五万円。買わないと、もの凄く怒るから、女の子は誰でも買いますよ。すぐお金が欲しいと言って、百万円以上の宝石を十五万円で売りにきたこともあります。同じ店の子が十四万円で買いましたけど」 秘密のアジトに案内される[#「秘密のアジトに案内される」はゴシック体]  ひとくちに上海マフィアといっても、歌舞伎町にはいくつものグループが出入りしている。上海で犯罪を犯していた者が、賄賂を使って正規のパスポートを手に入れ、就学ビザで来ているケースもある。また、実際に日本語学校に入学する目的で来たが、金欲しさからマフィア化した者も多い。密航船による密入国者もかなり入って来ている。そして窃盗や盗品故買、強盗などで稼いだ金で偽造パスポートを買って別人になりすまし、警察に追われるとすぐ国外へ逃げる。  私は、ある中国系香港人から、「日本には省港旗兵《シヨンガンチービン》も来ている」と何度か聞かされた。省港旗兵とは、香港マフィアが中国本土から密かに香港に呼び寄せたギャング団のことで、退役軍人や民兵《ミンビン》くずれ、それに十代で文化大革命に駆り出された元|紅衛兵《ホンウエイビン》・紅小兵《ホンシヤオビン》も紛れ込んでいることがあるという。連中は、銀行や宝石店を襲う際にマフィアから武器、隠れ家などを提供してもらう代わりに、強奪金の上前をごっそり撥《は》ねられる。もっとわかりやすく言えば、出稼ぎの犯罪請負集団ということになる。警察に追われれば、また中国へ逃げ帰る。最近、日本でも貴金属店荒らし、銃器を使った強盗事件が各地で頻発しているが、その大半は未解決のままだ。  以前、貴金属店荒らしが専門の「爆窃団《バオチエトアン》」と呼ばれる香港人グループが日本で捕まったことがあるが、いまはもっと組織統制されたグループが何組も上陸していると言われている。その中に、省港旗兵も加わっているのだろうか。そして歌舞伎町を根城にしている上海マフィアとも何らかの連携があるのだろうか。  あれこれ考えながら、喫茶店でぼんやり時を過ごしていると、こんな情報が飛び込んできた。台湾マフィアにヤクザが逆襲したというのだ。 [#改ページ]  マフィア化する日本のヤクザ  マフィアと日本のヤクザとの間には、�アジトの秘密性�に対して決定的な相違がある。  日本のヤクザは、組織特有の代紋を持ち、組事務所にも堂々と代紋を掲げて、ある種の公然性を備えている。が、歌舞伎町に潜っているマフィアにはそういった公然性はまったくない。ネグラはもちろん、その行動に至るまで、すべてが秘密のヴェールに覆われている。  台湾クラブのある経営者が歌舞伎町で暗躍している台湾マフィアの数を「二百数十人」とはじき出していたことは、前に紹介した。この数字には、同じ中国系マフィアでも、中国や香港、他の東南アジア諸国から来ている者は含まれていない。それでも、これだけのマフィアがいるのだから、歌舞伎町周辺に当然連中のアジトがあるはずである。  ところが、そのクラブ経営者も、「流氓《リウマン》のアジトを知ってる台湾人は、私の知ってる限り一人もいない」と断言する。 「警視庁や新宿署の刑事にも、これまでに何度かアジトについて聞かれたが、情報は何も提供できなかった。連中は、自分の棲み家だけは、誰にも教えない。流氓の愛人になっている台湾の子を知ってるけど、ウソかホントか、彼女すら、男の部屋を知らないといってました」  九三年二月、その秘密のヴェールの一端がヤクザによって剥がされる事件があった。流氓にヤクザが逆襲したのである。  事件は歌舞伎町交番のすぐ裏手にある大久保公園の近くで起きた。真夜中、たまたま通りかかったヤクザが台湾マフィア三人に拳銃を突きつけられ、現金約三十万円、スイス製腕時計、金のネックレスを奪われたのだ。面子《メンツ》をつぶされたヤクザは、仲間の組員七人と現場一帯で張り込みを続けた。そして二日後の深夜、ついに、襲った三人組を取り押えた。三人組がこんどは逆にヤクザに拳銃を突きつけられ、ボスのいるアジトへ行くよう命令された。  それから一カ月後、私はアジトをつきとめたヤクザの男に案内されて、あるマンションへ向かっていた。 「俺は、三人組を捕まえたと連絡を受けた時、酔っぱらっていた。それでシャブ(覚醒剤)を打って酔いをさましてから、アジトへ駆けつけたんだ。シャブを打つと、いくら酔ってても、一分もたたんうちにシャキッとするから不思議だよ。普通は絶対にやらんけどな」  男はそう言いながら、体を揺するような独特な恰好で歩いた。  途中狭い路地を男と肩を並べるようにして歩いていると、私の右腕がひょっとしたはずみで男の左脇腹にぶつかった。  その時、何か硬いものに当たり、異様な感触が腕に伝わってきた。ハッとして相手の顔を見ると、男は悪びれた様子もなく言い放った。 「この辺りは夜になると、中国系のマフィアやイラン人の不良が多い。日本人にわざとぶつかってきて、難クセをつけて金を要求してくる。そういう時は、素手じゃ勝てんから、チャカ(拳銃)で対抗するしかない。日本のヤクザは、チャカの二、三丁は誰でも持っとる。ほれ、この通りだ」  男が人目を盗んで、背広の左襟を引っ張り上げると、革製のガンショルダーに拳銃が差し込まれていた。ヤクザは普通ガンショルダーを使わないので、私にはそれがとても奇異に映った。 一緒にいた山口組の元組員[#「一緒にいた山口組の元組員」はゴシック体]  この歌舞伎町界隈に、代紋の異なる暴力団は十二団体ある。男はその中の一つの組織に所属し、殺人未遂や恐喝などの逮捕歴があった。計十二年間服役している。 「キョロキョロしていると、地廻りのヤクザも気にする。この辺は別の組織の縄張りだから」  男はそう言いながら足早に歩いた。  私の方は拳銃を持った男と一緒に歩いていると思うと、どうしても歩調が鈍くなる。万一の場合、厄介なトラブルに巻き込まれる恐れがある。 「アジトに踏み込んだ時、相手は不意を突かれて、丸腰だった。あとで見ればわかるが、マンションの入口は夜だけオートロックだ。それで、捕まえた三人の頭にチャカを突きつけて、部屋にいる仲間と連絡を取らせた。仲間はまだ何も知らんから、あっさりドアを開けた。中には台湾の連中がまだ四人いて、その中の五十がらみの男がボスだった。全員に銃口を向けて、『お前ら、日本のヤクザにとんでもないことをしよって。ぶっ殺したる!』と怒鳴ってやった。  部屋には、驚いたことに日本人が一人いたんだ。誰だと思う? 前に山口組にいた奴だ。台湾マフィアのボスと兄弟分なんだと言っていたが、そんなことはこっちに関係ねえ話だ。だけどよ、二、三年前まで同じヤクザだったんで、結局、命は助けてやった。情をかけてやったんだ。そいつがいなかったら、間違いなく引き金を引いていたよ」  アジトがあるマンションを目の前にして、男は話を続けた。 「マフィアのボスは、『五百万円出すから、許してほしい』と言ってきた。こっちは五百万円の他に指を切り落として責任を取れ、と注文をつけた。すると、相手は『指を切るのは痛いから嫌だ。二百万円プラスするから、なんとか金で解決できるようお願いする』と泣き言を吐いてきた。一応、その金額で頼みは聞き入れてやった」  ボスは震える手で大型金庫のダイヤルを回し、七百万円を取り出して、ヤクザに渡した。同時にヤクザから奪った純金のアクセサリーも返した。 「金庫の中には、ザッと見て、あと一千万円ぐらい現金が入っていたが、これには目をつむった。五丁あった拳銃は全部、取り上げた。どれも中国製のトカレフだった。  子分の若い連中は、こっちから頭にチャカを突きつけられて、ガタガタ震えていたよ。次は一緒にいた山口組の元組員と話し合った。オトシマエを出さんと形がつかん、と言ったら、奴は、蛇腹のついた分厚いサイフからすぐ三百五十万円を出してきた。三百万円は詫び料、五十万円は飲み代に使ってくれということだった」  台湾マフィアがアジトにしていたマンションは、大久保駅から近距離にあった。店舗がある一階を除けば、他はほぼ全室が二LDK。家賃は管理費込みで約二十万円だった。アジトのすぐ上の階は、ある公益法人が全室借り上げ、女子職員の寮として使われていた。 「住人以外は無断立入禁止」の大きな看板が玄関に掲げられ、夜間はオートロックになる。ありふれたこのマンションに台湾マフィアのアジトがあるとは、住民も夢にも思わないだろう。  私がそのアジトへ行った時は、すでにモヌケのからだった。  事務所に使っていたリビングの壁には、大きな水牛の角と虎の絵が飾られ、豪華な応接セットも備えられていた。ボスが座っていた中央の机には、電話が二本引かれ、ファクシミリまで置いてあったという。  部屋の借り主は、台湾マフィアと一緒にいた山口組の元組員だった。元組員が幹部として所属していた組織は、山口組傘下の二次団体だったが、九〇年に破門を言い渡されていた。  私をアジトへ案内した男は、元組員や台湾マフィアのボスについてすでに詳しく調べ上げていた。 「奴はシャブ中(覚醒剤中毒者)だ。時々、頭がおかしくなって、暴れたりするんで、親分に破門を言い渡された。拳銃所持や覚醒剤の密売で六、七回警察に捕まっている。バブルが崩壊する前は、不動産会社を持っていて、新宿や渋谷で一等地の地上げをやってた。  台湾マフィアと付き合い出したのは破門されてからだ。大阪湾に入って来る台湾の船を使って、台湾から拳銃や覚醒剤を密輸入し、東京で素人に売り歩いていた。  大っぴらにやるんじゃなくて、都内の盛り場をこまめに歩き、コセコセした売り方をするんだ。それも最近は、自分は裏に隠れ、台湾マフィアに売らせていた」 台湾マフィアのボスの正体[#「台湾マフィアのボスの正体」はゴシック体]  男の話では、その元山口組組員が台湾マフィアのボスと縁ができたのは、東京・江東区内のある台湾系クラブに客として出入りしていた時だった。  ボスは、「○○公司 |陳鄭霖《チエンジオンリン》」の名刺を持ち歩き、表向きは貿易会社の会長だった。が、名刺の名前はデタラメだった。本名は「T・O」。年齢は五十七歳。その正体は、路上強盗の親玉であると同時に、日本への拳銃・麻薬の供給源でもあった。 「台湾での犯罪歴はわからないが、日本には十何年も前から来ている。だから日本語も上手だ。そのボスは台湾の別の組織から、中古拳銃を一丁五万円ぐらいで仕入れ、それを関東のあるヤクザ組織に十万円から十五万円で卸していた。拳銃を仕入れる場所は、千葉県の館山港から三十キロほど離れた海上。事前にちゃんと連絡し合って、台湾の漁船がそこにブツを運んでくる。覚醒剤やヘロイン、アヘンなどの麻薬も一緒に運ばれてくるんだ」  海上で受け取った麻薬を売りさばけば、莫大な金がころがり込む。しかし、近くを航行する漁船などに怪しまれないのだろうか。  実はこれとほぼ同じ密輸ルートを使い、かつて台湾マフィアから大量に拳銃を仕入れた暴力団組員に接触することができた。その組員は私が口の堅い人間であることを確かめたうえ、「組を特定されるような固有名詞は絶対に出すな」と念押ししてやっと口を開いた。 「千葉県のある漁港でチャーターした船をまず、館山港に呼んで、そこから出発した。魚を追っているように見せながら、海岸沿いに房総半島を北上し、鴨川の仁右衛門島にぶつかったところで、東に針路を変える。相手も漁船で来るが、漁師は二人だけで、他に台湾マフィアの関係者が五人乗っていた。  チャカは一丁ずつ黒いビニール袋に包まれ、十丁単位で小さな木箱に入っていた。こっちは木箱を八十箱、計八百丁のチャカを買った。弾は一万発ついていた。ブツはすべて新品の中国製トカレフで、仕入れ値は一丁十万円だった。こっちの売り値は一丁四、五十万円で、すでに四百丁以上売りさばいた。だが、まだ三百丁以上は売れ残っている」  その後、密輸量が増えたために、中国製トカレフの日本での密売価格は下落し、九四年十月の時点では、八発装弾で二十万円を切っている。  組織ぐるみの協力関係までには至っていないが、歌舞伎町では、中国系マフィアや他の国のマフィアと日本の一部のヤクザとの間で持ちつ持たれつの関係が結構できている。 「マフィアとグルになるヤクザは、これからいくらでも増える。これだけ新法(暴力団対策法)で追い詰められれば、食うためには何でもしなきゃならない。ヤクザもマフィア化せざるを得ないんだ。何かで人を殺さなきゃならんときは、連中を殺し屋として使うヤクザも必ず出てくる。連中はたとえ捕まっても、口は堅いと聞いているし、こっちもムショ(刑務所)へ行かずに済む。なにせ、背に腹は替えられねえもんな。警察としては、新法は、ヤクザを押え込む特効薬のつもりなんだろうが、これからとんでもない副作用がじわじわ出てくる」  歌舞伎町に拠点を持つある組の幹部はこう話すと、ネオンがきらめく通りのほうを見やりながら険しい顔つきをした。それは厳しい岐路に立たされた人間がよく見せる顔で、諦めと開き直りと、どうしようもない苛立ちが微妙に入り混じっていた。  台湾マフィアのアジトに私を案内した先の男は、指が欠けていた。アジトのマンションから引き揚げる途中、男は私に、「他に食う道があるなら、ヤクザをやめたっていい」とふと漏らした。 「だが、それは難しいだろうな。この指のお蔭で就職なんかまずできないから。背中の刺青《いれずみ》は服で隠せるが、指は隠せない。警察病院や他の民間病院で、足の指を移植する再生手術ができても、費用は百万円以上かかる。そんな金、いまの俺には用意できないよ」  私はJR高田馬場駅近くの居酒屋へ男を誘った。  指を落とした理由を当人に聞くのは、極道の世界ではタブー視されている。が、私はこの際あえて聞いてみた。 「後悔しても指は戻らない」[#「「後悔しても指は戻らない」」はゴシック体] 「これまでに三回指を落としたよ。一回目は、十数年前だ。事務所当番をしていた俺の若い衆が、組の運営資金を二百万円ちかく持ち逃げした。いくら捜しても、見つからない。それで左小指の第一関節を詰めることで、親分に対して責任をとったんだ」  指の根元に輪ゴムを何本もギリギリ巻き、指全体が白い大理石のように色が変わったのを見計らって出刃包丁で切り落とした。 「思いきり体重をかけて二回強く押したら、やっと指が離れた。血はあまり出ないが、骨が飛び出すんだな。サラシにまいた指を親分に届け、そのあと病院へ行った。麻酔をかけて切り口の骨をヤスリでガリガリ削り、それから縫合する。  最初は興奮してるから痛みはそう感じないが、麻酔が切れたあとは、どうにもならない。腕を下げると痛いんで、寝る時は手首にヒモをグルグル巻いて、タンスの取っ手に腕を吊ったまま眠った」  ヤクザの指詰めは、隠語で�エンコ詰め�ともいわれるが、この�エンコ�は、猿類の総称である猿猴《えんこう》からきている。猿猴は人形浄璃瑠界の隠語で手を意味し、これは、自由自在に手が動く手長猿がイメージ凝縮したものと思われる。一方で、猿猴は盗癖があることも意味する。  普段は気にもかけないが、小指は、物を持つときに非常に重要な働きをしていて、それを落とすと、生殖機能まで減退するらしい。諸説あるが、古くは武士の時代に遡り、不始末を起こした刀使いが、手や指を落とすことで身を引いたといわれている。また、花魁《おいらん》が、好きになった特定の男を引き止めるために、小指を落として自分の気持ちを相手に伝えた、という話も聞いた。いずれにせよ、切腹と同じように、指詰めは、日本人の精神文化の奥底にある、様式・儀式化された自損行為の一種であることに変わりはない。  ヤクザの世界の指詰めは、自分で落とすのが男気の手本とされるが、一方では、指に当てがった出刃包丁やノミを組員仲間から靴底で一気に踏ん付けてもらったり、ハンマーを振り落としてもらったりする者もいる。また、中には、恐怖心から自分で麻酔注射を打って、誰も見ていないところでこっそり落とす者もいる。当然、周囲から強制されることもある。指詰めのことで私がこれまで最も驚いたのは、刃物を使わずに素面《しらふ》で自分の小指を噛《か》みちぎったと、あるヤクザ本人から聞いたことだ。これはもう正気の沙汰ではない。  眼の前の男が二回目に指を詰めたのは、それから四、五年後のこと。こんどは前と同じ小指の第二関節から落とした。 「兄貴分が酒乱でね。酒を飲むと、女房をムチャクチャ殴る。ある時、女房が俺の部屋に逃げて来て、押し入れに一日|匿《かく》まってやった。女房とは何もなかったが、あとでそれが兄貴にバレてしまった。女房が白状しやがったんだ。そしたら、『女房を隠した責任を取れ』と言われ、仕方なく指を詰めた。  三回目は、それから三、四年たってからだ。こんどは右の小指を落とした。クラブで飲んでる時、同じ店にいた男とささいなことで口論になり、殴ってしまった。ところが、その人はなんと同じ系列の親分だった。自分の親分から、『俺の顔が立たない。指を詰めて、相手に詫びを入れろ』と言われたんだ。  三回とも、原因はささいなことだが、それが今になって社会復帰の邪魔になっている。でも、まあ、いくら後悔したところで指は元に戻らないからな」  居酒屋の座敷で男とこんな話をしている最中、困ったことが起きた。  隣りの席でサラリーマン風の三人連れが飲んでいた。若い一人がトイレへ立つ際、お盆の上の栓を抜いたばかりのビール瓶につまずいて、飛沫《しぶき》が男のズボンにかかったのだ。  見る見る男の顔色が変わっていった。私は拳銃が脇腹にぶら下がっているのを知っているので、気が気でない。暴力沙汰が起きて、警察でも飛んで来たら、取材どころではなくなる。 「わざとやった訳じゃないから、ここは許してやったほうがいい。気持ちよく飲んでる時に、そんなことで怒ったら、酒がまずくなる」  私がなだめても、男はしばらくの間、三人連れを睨みつけていた。しまいには、「洗濯代を出せよな」と凄《すご》んで見せた。  男が電話を掛けに行っている隙に、私は仕方なく三人連れに囁いた。 「ここは素直に謝ったほうがいい。あの男はヤクザだが、この場合は、相手が誰だろうが関係ない。謝らないでいると、馬鹿にしたことになるから」  席に戻った男に、三人連れがビールを二本持って「スミマセン」と頭を下げた。すると、男は急に機嫌を取り戻して、逆に三人につぎつぎビールを注ぎ始めた。私は胸をなで下ろした。  三人連れが帰ったあと、気分が乗ってきたのか、男は私に本音を聞かせてくれた。 ママが告白した忌わしい体験[#「ママが告白した忌わしい体験」はゴシック体] 「歌舞伎町のヤクザで、マフィアに対して危機感を持ってる者は、半分しかいない。他の半分は認識が甘過ぎるよ。ホテトル、マントルの中には、台湾の竹連幇から開業資金を出してもらい、儲けの三割を連中に納めている連中もいる。手入れを受けても、台湾マフィアは捕まらないし、結局は、日本人が利用されているんだ。  そのうち庇《ひさし》を貸したつもりが母屋までとられてしまい、ゆくゆくはヤクザが歌舞伎町を歩けなくなるんじゃないか」  お上《かみ》がヤクザを締めつければ締めつけるほどマフィアがのさばるというジレンマが、ここ歌舞伎町にはある。最大の被害者は一般の飲み客である。歌舞伎町では、このところ外国人による犯罪が多発し、治安の悪化は、想像以上のスピードで深刻化している。  中国系マフィアとともにやりたい放題で暴れまくっているのが、マフィア化したイラン人の不良グループである。  男と別れたあと、私は歌舞伎町に隣接している百人町のスナックへ向かった。この店は、九二年九月、手榴弾を持ったイラン人たちに押し入られ、売上金四万数千円を奪われた。  すでに取材は済んでいたが、ママの話で辻褄が合わないところが気になっていた。なぜか、ママは犯人の人数を二人と言ったり、四人と言ったり何度も取り違えていた。  二つのボックスが客で埋まっていたので、私はカウンターの隅に座った。ママはおしぼりを出しながら、「取材はお断わりよ」と小声で言った。私は「閉店まで一人で飲んでいますから」と答え、ねばることにした。ママは取材を拒んでいる顔ではなかった。  閉店でホステスが帰ってから、私はママから改めて話を聞いた。すると、事件の意外な真相がママ自身の口から語られた。 「この前は、アルバイトの女の子が三人もいたので、本当のことを話せなかったの。お金を取られたことは事実ですけど、それよりもひどいのは、店にいた四人の女の子が四人とも暴行されたんです。三人がアルバイトで来ていた専門学校の学生、他の一人はたまたま遊びに来ていた彼女たちの友達です。  店に入って来た男は、全部で七人。男の客がいないのを確かめて、駆け込むようにして入ってきたの。内側から鍵をかけられ、女の子がキャアキャア泣き叫ぶと、持っていた手榴弾を歯でカチカチさせた。抵抗することなんて、とてもできませんでした」  店は警察に被害届を出していない。  ママは私の目を真っすぐに見据えた。 「一人が二人に襲われました。実は……私も被害を受けたんです。手榴弾の他に二、三人がピストルやナイフを持っていたので、怖くてされるままでした。襲われたあと、女の子は三人とも店をやめましたが、皆、警察へ被害届を出すのを嫌がったんです」  私は、これと同じような被害を受けた店を他に二軒つかんでいるが、店側から「記事にされては困ります」と口止めされていた。  忌《いま》わしい体験を告白してかえって気が楽になったのか、ママは笑顔を浮かべていた。そして、こう付け加えた。 「入口に監視カメラを取り付けるわけにもいかないから、今度何かあったら、店をたたむつもりなの」 傍若無人なイラン人の不良[#「傍若無人なイラン人の不良」はゴシック体]  店のすぐ近くを通っている大久保通りは、特にイラン人の不良が多い地域である。  被害は、この婦女暴行以外にも少なくない。住民の一人に聞いてみると、まさに暴虐の限りを尽くしている。 「車上荒らしや引ったくりも多く、強盗に入られた家が何軒もある。まず、たいがいの奴がナイフを持ってる。でも、目撃者が何人いても、犯人は捕まらないね。鼻の下にどの男も同じような髭を生やしているので、ほとんど顔の見分けがつかないんだ。  女子高生を車に引きずり込もうとしたり、ビニール袋に糞尿を入れてきて、それを子供の顔に押しつけたり。すれ違いざまに、つばをひっかける奴もいる。やることがひど過ぎるよ。近くの戸山小学校では、イラン人という言葉は使っていないが、チラシで親や児童に注意を呼び掛けているよ」  大久保通りにイラン人がめっきり増えた。近くにラブホテル街があり、コロンビアや東南アジア系の街娼が多いからだ。  ポン引きの一人が教えてくれた。 「連中はイスラム教徒だから、本国では女と寝るなんて、とてもできない。だから大久保に来るイラン人は、女にはものすごく貪欲だよ。一時間で二万円というと、連中は、その一時間のあいだに、三回も四回もやろうとする。女の子はそれを嫌がって、しつこいイラン人を相手にする時は、ビールに強力な睡眠薬を入れて眠らしちゃうんだ。  始末が悪いのは、やることは思う存分にやって、あとで金を払わない奴だ。怒ったタイ人の女の子に、皆がいる前でカミソリで顔をズタズタに切られたイラン人もいるよ」  以前、新大久保駅近くの路上で、地元のヤクザとイラン人が大乱闘を演じたことがある。乱闘に加わった組関係者の一人は、イラン人の催涙ガスに虚をつかれて閉口したという。 「駅の近くの歩道に、イラン人が二十人ぐらいたむろしてるんで、『人が通れないから、一カ所に集まるな』と注意した。そしたら、小ぜりあいになって、相手が殴りかかってきた。こっちは、市販の警棒を持って七、八人で対抗した。  そのうち相手の何人かが近くの喫茶店に飛び込み、割れたビール瓶を持ち出してきた。乱闘の最中、俺はイラン人から催涙ガスをシューと顔にかけられた。涙が出て、目はキリキリ痛む。あれは強烈だよ。四、五分は目も開けられなかったな」  顔面血だらけになったイラン人が何人かいたが、警官が姿をみせるなり、クモの子を散らすように逃げた。以来、大久保通りのイラン人は減った。しかし、歌舞伎町の方には、イラン・イラク戦争を戦った屈強なコマンドあがりが入り込んでいる。 「若い衆と歌舞伎町を歩いていたら、図体のでかい三人連れのイラン人が肩をぶつけてきた。怒鳴りつけようが何しようが、連中は平気な顔してる。若い衆が、自分のシャツをボタンごと引きちぎって刺青を見せても、『キレイ、キレイ』と刺青を撫でて笑っている。 『俺は日本のヤクザだ!』と大声を出したら、こんどは、『ワタシ、プロレスラー。コンバット』などと言いながら、腕の力こぶを見せてきた。もう話にならんよ」  この組関係者の事務所に、最近、食い詰めたイラン人が何人か訪ねて来た。 「男は腹ペコで、何でもやるから、使ってほしいと言うんだな。十万円出せば、人を怪我させるぐらいのことは簡単にやるだろうし、その何倍か出せば、人殺しだってやるはずだ。連中は、こっちがヤクザだということを知ったうえで、職探しを頼みに来るんだ。暴対法でヤクザが動けないことも知ってて、ヤクザができないことを自分たちにやらせろ、という訳だな」  ある特定組織の一員であることを示す印なのか、足の裏にサソリの刺青を彫った不良イラン人の中には、車の当り屋まがいのことをするグループまである。 素人が簡単に銃を手に入れられる[#「素人が簡単に銃を手に入れられる」はゴシック体]  歌舞伎町に事務所を持つある会社経営者から私はこんな話を聞かされた。 「イラン人が知り合いの車にわざとぶつかってきたので、その人が相手をぶん殴った。そしたら後で仲間を十人ちかく引き連れて、その人の事務所に殴り込みをかけてきたんだ。  一人が拳銃を持ち、他の何人かはナイフを持っていた。近くのヤクザの事務所に連絡が入り、応援に駆けつけたヤクザが木刀で袋叩きにして連中を追い返したが、事務所の前に止めてあった知り合いの車はメチャクチャに壊されてしまった。中古のソアラだったから、まだよかったですけどね」  手荒なことでは、中国系マフィアに負けず劣らずだが、しかし、中国系マフィアとは決定的に異なる点がある。中国系マフィアは、同国出身のホステスや売春婦を金ヅルにしてネオン街に根を下ろしているが、イラン人にはそれができない。歌舞伎町には、世界中のホステスが揃っているが、イスラム教徒だけは一人もいないはずだ。 「イスラムの男は、キリスト教、ヒンズー教、仏教など他の宗教の女とセックスしても、問題は起きない。でも、イスラムの女が、他の宗教の男とセックスしたら、イスラムの男に殺される」  片言の日本語と英語を混じえて、こんな意味のことを語ったのは、JR新宿駅の地下通路で変造テレホンカードを売っていたイラン人だ。  イラン人の犯罪グループが資金源にしているのは、やはり麻薬と拳銃の密売である。  歌舞伎町のある店の日本人マネージャーはこう証言した。拳銃密売に関しては、それまで組関係者以外に情報を取れる日本人はあまりいなかったが、このマネージャーは、断片的ではあるものの、ある程度のことは把握していた。 「歌舞伎町で長くこんな仕事をしてると、いろんな人間と関わりを持ちますよ。ヤクザ、麻薬密売人、指名手配を受けている奴……うちは外国の女の子も雇っているから、外国人客もけっこう来ますよ。料金もそんなに高くないですからね。でも、最近は不良外国人が多いなあ。イラン人の客から、これ、買って下さい、と店で拳銃を出されたこともありますよ。実は、二十人ぐらいのイラン人グループが、中国製トカレフを都内のあちこちで売り歩いています。値段は、三十発の弾をつけて一丁三十万円。弾をつけずに本体だけだったら、半値の十五万円で売ると言ってました。そうすると、弾が一発五千円になる計算ですよね。それも客はヤクザではなく、素人に売っている。なぜヤクザを相手にしないかというと、あれこれ難癖をつけられて金を払ってもらえないからだそうです。とにかく、これからは素人が簡単に銃を手に入れられるってことですよ。  あるヤクザが、『これまでは、親(拳銃)も子(実弾)も俺たちが管理してきたが、これからはどっちも野放しになる』と言ってました。今後は、そういった拳銃が必ず、何かの犯罪に使われるだろうね。イラン人が拳銃を仕入れているのは、私が聞いているところでは、台湾マフィアからです。でも、現金仕入れではなく、売り上げを折半するやり方ですね。裏で両者は協力し合っているんです」  じつは、その両者が裏でさらにコロンビアの麻薬密売組織「メデジン・カルテル」とも手を結び、三位一体の協力関係にあることがわかった。  一体、連中はどこでどうやってつながっているのか。  その一端を垣間見たのは、あるホステスから麻薬密売人を紹介すると持ち掛けられ、彼女の案内で歌舞伎町のとあるラブホテルに入ったときだった。ホステスの話では、密売人は日本人女性ということだったので、私は不用意にも安心し切っていた。 [#改ページ]  メデジン・カルテルの脅威  ホステスに案内されたラブホテルは、歌舞伎町二丁目の東側、明治通りに面した新宿日赤病院の裏手にあった。そこはラブホテルの密集地帯で、昼夜関係なく利用者が往来している。  私はホステスの希望で、彼女から十メートルちかく離れて歩いた。ホステスはマレーシア出身で、なぜか日本人と一緒にラブホテル街を歩いているところを同国人に見られるのをとても気にしていた。  言葉はほとんど不自由なく話せた。店では「聖子」という源氏名を持っていたが、これは歌舞伎町で働く東南アジア出身のホステスが最も好んで使う名前だった。  玄関を入ってすぐ右側のボードに各室の室内写真が掲げられ、空室の場合は、そこが内側からライトアップされている。客は好みで部屋を指定できるシステムになっている。フロントの男は、私の隣りのホステスの顔をチラッと見るなり、何も聞かずに一階の部屋の鍵を差し出してきた。  しかも、不思議なことに、その部屋は案内ボードのライトが消えていて、すでに「使用中」のサインが出ていた。部屋へ向かう途中、そのことをホステスに聞いてみると、この部屋は、彼女が三カ月ほど前から月極二十七万円で借りているということだった。マンションなら、他のホステスの例を見ても、せいぜい十数万円の家賃で済むはずである。私は、彼女の意図が測りかねた。それに、月極で部屋を貸すラブホテルが歌舞伎町にあることを、私はそれまで知らなかった。  いざ部屋に入ると、ホステスは人が変わったように大胆になった。  小さな時計がついた金色のチェーン・ブレスレットとネックレスを素早く外すと、あっという間に全裸になってしまったのである。まだ少女の面影を残し、危なっかしい手つきで客にビールを注いでいた店での姿がウソのようだ。 「アナタ、ベッドに入る前にシャワー浴びてね。ワタシが洗ってあげるから、早く服、脱いで」  私は予想外の展開に面食らってしまった。  ラブホテルに入ったのは、そんなことが目当てではない。部屋に麻薬密売人を呼んでもらうのが目的だった。  事前の話し合いで、ホステスもそれについては十分納得していたはずだった。  じつは彼女の狙いは、麻薬密売人が来る前に私を裸にして無防備の状態に置くことだった。麻薬密売人から事前にそう指示されていたのだ。 「初めての人は、何を持っているかわからないから、いつもそうしている」  彼女は後でこう白状した。  しかし、そんな魂胆があるとはその時は思ってもいなかった。 「ビールでも飲もうか?」  彼女の誘惑をはぐらかすには、それぐらいの言葉しか思いつかなかった。  私は冷蔵庫に手をかけた。すると、濃い小麦色の裸体が目の前に立ちはだかり、私の右手が彼女の足ではじかれた。目のやり場に困ってタバコを吸おうとすると、こんどはライターを取り上げられてしまった。 「シャワー浴びないと、ビールはダメね」  タバコを吹かしながら、ホステスの目がいたずらっぽく笑っている。 「シャワーよりも、きのうの話はどうなったの? ホテルへ一緒に行ったら、麻薬をいっぱい持ってる人を部屋に呼ぶって言ってたじゃないか」  私が問い質すと、ホステスは一瞬、顔をプイッと横にそらし、とぼけたような顔つきをした。そして前日に会った時とまったく同じことを聞いてきた。 「アナタ、麻薬、本当に欲しいの? アナタが使うの? 誰かに売るの?」  私のほうも前日と同じ答えを繰り返した。 「使ったことも売ったこともないけど、麻薬にはとても興味がある。どんな麻薬があるのか、この目で見てみたい」  歌舞伎町の裏の裏を知るには、ある程度の冒険が必要だった。麻薬を購入すると見せ掛けながら、密売人に接近するのが、実態を知る近道だった。冒険に危険は付きものである。その時、私は相当気負っていたが、しかし、そんな素ぶりはホステスには一切見せなかった。  それまで一糸まとわぬ姿だったホステスが、胸のあたりからバスタオルを体に巻きつけた。それからどこかへ電話をかけたが、話している言葉は明らかに中国語だった。彼女に限らず、マレーシア人ホステスには中国語を話す者が意外に多い。  私はラブホテルへ行く一週間ほど前に、このホステスを介して覚醒剤を買ったことのある男から、「彼女から紹介された密売人は、五十過ぎの日本人のオバサンだった」と聞かされていた。  男は、彼女の店にときどき飲みに来る日本人で、本人の話では、面白半分に何度か覚醒剤を打ったことがあるという。店で飲んでいる最中に、彼女がその男をわざわざ私に紹介してきたので、小一時間席を共にしたことがあった。その時、男は私にこう語っていた。 「何だかよくわかんないけど、彼女が覚醒剤のことをおたくに話してくれと言うんだ。あのね、彼女に頼めば、覚醒剤なんか一発で手に入るよ。俺はそれまで覚醒剤なんか使ったこともねえけど、ここで飲んでる時、冗談話で彼女に、『歌舞伎町では店で覚醒剤を売ってるらしいな』と聞いたんだ。何度も『欲しいの?』と言ってくるんで、ナマ返事してたら、オバサンが店の外まですぐ持って来たよ。  それから三、四回買ったけど、ありゃ俺の体質に合わねえな。頭が痛くなって気分は悪くなるし、何度も吐きそうになった。彼女は、オバサンを日本人だと言ってたけど、俺には、話し口からして韓国人に見えたけどな」  私は最初は男を警戒したが、すぐに裏がなさそうな感触を自分なりに掴んだ。はっきり言って、ただの酒好き、女好きの客に過ぎなかった。左側から男の腰に手を回していたホステスは、絶えず微笑みを浮かべていた。彼女が男に覚醒剤の件を語らせたのは、そうすることで自分の麻薬供給力を私にアピールするためだった。私のほうはそれを逆手に取って、麻薬密売の現場を取材するつもりでいた。  こうした経緯から、部屋には当然、オバサンが来るのだろうと私は思い込んでいた。彼女自身も、「男の人? 女の人?」という私の質問に対して、「女の人」とはっきり答えていた。  それを聞いて私は安心し、密売人のオバサンが現われるのを待っていた。どこかへ電話をかけて二十分ほどたった頃、ホステスはまた私をシャワーに誘ってきた。 「アナタがシャワー浴びないなら、ワタシ、お店に戻るよ」  ホステスが冗談とも本気ともつかぬ顔で言ってきたので、私は仕方なく一人でシャワーを浴びた。自分の目的はわかっていても、私はシャワーを浴びているうちに、「俺はなんでこんなことまでしなくちゃならないんだ」と自己嫌悪にちかい感情に襲われ、なんとも妙な気分のまま浴室の蛇口を閉めた。しかし、ホステスの前では、そんなことは顔に出せなかった。  シャワーのあと、ずっと気になっていた疑問をホステスにぶつけてみた。 「ひょっとしたら、あなたの神様は、アラーじゃないか?」  私の視界に入った彼女の体には、体毛がぜんぜん見当たらなかった。  かつてイスラム圏に旅した時、私はイスラム教徒が毎週金曜日の夜明け前に、恥毛、腋毛をすべて剃り上げて身を清めるという話を聞いたことがあった。 「ワタシのお父さんがマレー人で、お母さんはマレーシアで生まれたインド人。お母さんはヒンズーだった。でも、お父さんと結婚してイスラムになった。だからワタシもイスラムね」 ラブホテルに現われた男三人[#「ラブホテルに現われた男三人」はゴシック体]  前にも触れた通り、イスラム教徒の女性は戒律によって異教徒との性交渉を厳禁されている。ホステスが私と一緒にラブホテル街を歩きたがらなかった理由が、私にはよく理解できた。それまで歌舞伎町にイスラム教徒のホステスは一人もいないと確信していたので、眼の前に彼女のような女性がいること自体、どうにも信じられない気持ちだった。  ホステスとたわいない雑談を交わしている最中、トン、トンと二度続けてノックの音が聞こえた。私はまだ腰にタオルを巻いただけの恰好だったので、あわてて服を着ようとした。 「大丈夫よ、そのままの恰好でいいよ」  なんと男の声だった。驚いて振り向くと、中東系の顔をした大男が私のすぐ後ろに立っていた。いつの間にかホステスがドアを半開きにしていたのだ。  それも男は一人ではなく、中国系、ヒスパニック系の男二人が一緒だった。三人とも三十代に見える。  シャツの襟元から胸毛がはみ出した長身の中東系が、私の顔を覗き込むようにしていきなり日本語で聞いてきた。 「アナタ、お金いくら持っているゥー、何が欲しい? シャブ、ハッシシ(大麻樹脂)、マリファナ、ヘロイン……何でもあるよ。アナタがお金出せば、何でも売る。アナタ、一万円持ってる?」  私は部屋の片隅に置いたジャケットから財布を取り出して、真新しい一万円札を中東系に渡した。中東系は、それを右隣りのヒスパニック系に回した。すると、ヒスパニック系は、親指と人差し指で一万円札を軽く擦ったあと、鼻が詰まったような日本語で呟いた。 「これはダメね。もっとおカネある?」  一万円はすぐに返してよこした。私は相手が何を意図しているのかわからず、頭が混乱してしまった。一万円を財布に戻し、別の一万円札を出そうとすると、中東系が突然、腰を浮かして私に覆《おお》いかぶさるように身を寄せてきた。 「それ、それがいい」と強引に財布に指を突っ込み、千円札を一枚抜き出した。かなり使いこまれたその千円札は、またヒスパニック系に回された。  ヒスパニック系は、冷蔵庫の上にあった木製の盆からストローを一本取り上げ、千円札をそれに巻き始めた。そして仕上げに、縁《へり》を唾液で丁寧に貼り合わせた。  巻き終わってストローを抜き取ると、こんどはベージュ色の布製のセカンドバッグから薄茶色の小瓶を取り出し、中身をグラスにこぼした。小瓶の腹を人差し指で軽く叩きながらも、手つきは慎重そのものだった。  グラスの底を覗くと、真っ白い粉末がうっすらと散らばっていた。コカインだった。 ポケットの異様なふくらみ[#「ポケットの異様なふくらみ」はゴシック体]  中東系も中国系も、その様子を真剣に見つめていた。  ヒスパニック系が、右の鼻孔を指先で押えた。次に丸めた千円札を使って、片方の鼻孔から、グラスの白い粉末を吸い上げた。男は三、四度頭を上下させながら、鼻で断続的に息を吸い込んだ。  その最中だった。ヒスパニック系のジャンパーのファスナー部分が両側に開き、腰にナイフらしいものが差し込まれているのが見えた。ズボンの右ポケットに浮かび上がったその異様なふくらみ方から、中東系が拳銃を持っていることにも気づいた。  バスタオルを巻いたままの私は、「何があっても連中を怒らせてはダメだ」と自分に言い聞かせた。  ヒスパニック系は、「次はアナタの番ね。これ最高よ」と言って、私に吸引を勧めてきた。一瞬、どう対応していいか、判断に迷った。ベッドのほうを見ると、ホステスは毛布を首のところまでかぶって、ニヤニヤしながら私を見ていた。  ホステスが連中を呼んだ手前、断わることはできなかった。その代わり私は、吸引方法を間違ったフリをして、コカインをグラスの底からぜんぶ吹き飛ばした。鼻から吹き出す息をわざと強くしたのだ。 「アナタ、ヘタクソね。コケイン、高いんだよ。アナタ、いくらか、知ってる?」  ヒスパニック系が、呆れた顔をして口を尖らせた。しかし、すぐに三人は笑い出してしまった。これで肩の力がスーッと抜けていくのが自分でもわかった。  ホステスが、私のことをどう説明したのかわからないが、三人は私の名前や職業については一切触れてこなかった。ホステスにしても、その時点ではまだ私の素性を知らなかった。それまでに店へは計六回通い、そのうち二回は閉店後に一緒に食事をしたが、彼女は会うと必ず一度は、「仕事、何してるの?」と聞いてきた。「酒飲むのが仕事」私はいつもそう言って彼女を煙に巻いてきた。名前についても本名は伝えていなかった。  彼女が密売人を三人も部屋に呼んだのは、私を麻薬市場開拓の有望なパートナーと見ていたからに違いない。 「コカインの値段を知っておきたい。その小さな瓶にどれぐらいの量が入ってるの?」  私がそう聞くと、三人は顔を見合わせた。ヒスパニック系がやがて口を開いた。 「いまこの瓶に十グラム入ってるね。日本人の密売人は一グラム三万円、四万円で売ってる。ワタシは一グラム一万五千円で売るね。アナタが瓶一本欲しいなら、一グラム一万二千円で売る」  人差し指と中指でタバコを挟み、握り拳をパイプ代わりにするような奇妙な手つきでタバコを吸っていた中東系が、得意気な顔で後を引きとった。 「イラン人が、日本でテリヤキと呼んでるのは、アヘン、ヘロインのことね。イランではティリヤックというんだ。ワタシは、テリヤキを一グラム七千円から一万円で売る。ハッシシはチョコレートというけど、一グラム五千円ね。アナタ、ハッパ知ってるね。マリファナのことよ。これは一グラム三千円。これ、どれも日本人の半分の値段ね」  最初からずっと黙っていた中国系の男が、二人に触発されるようにして、ようやく話に加わった。男はベッドのホステスを指差して、「ワタシはあの子から、『悪い日本人じゃないから、一度会って』と言われたから、ここに来た」と前置きしてこう話を続けた。 「ワタシは、アナタがどんな人かよくわからない。だからあまり話さなかった。最初、アナタが警察の人じゃないかと疑ぐった。だが、それは違う。今までぜんぶ合わせると、ワタシはアメリカに二年、日本に五年は住んでるが、日本の刑事は、歌舞伎町では一人では絶対に歩かないね。必ず二人か三人で歩き、夜でも誰かが新聞を持ってるよ。  靴は安物で、ズボンも短い。ワタシが見れば、警察の人間かどうか一発でわかるね。日本には、アメリカのようなアンダーカバーコップ(覆面捜査官)はいないからね」  私はドキリとして、右中指を思わず隠してしまった。謎の流氓《リウマン》�リー�が経営する「無国籍売春クラブ」へ潜入した際、�リー�にペンだこから正体を見破られたことがあったからだ。それ以来、私は歌舞伎町へ行く時は、中指がどうにも気になって、そこにバンドエイドを巻く癖がついてしまった。事情を知らないホステスからは、「アナタはいつもケガしてるのね」としょっちゅう笑われていた。ワタシはこの時も、中指にバンドエイドを巻いていた。  三人とも目つきは鋭かったが、中国系は特に人を射るような激しい何かを眼の奥から発していた。  それにしても、この中国系が歌舞伎町での警察の動きについて、なぜそんな情報を握っていたのか。  そんなことを考えているうちに、中東系が妙なことを始めた。開封したばかりの私のショートホープをテーブルの上に並べ、指でタバコの両側を揉みほぐしながら中身を抜き出した。  一方、ヒスパニック系はポケットから取り出したアルミ箔《はく》を広げると、その上に小指の先ぐらいの黒い固形物を転がし、それを下からライターの火であぶり出した。 黒砂糖を焦がすような臭い[#「黒砂糖を焦がすような臭い」はゴシック体]  二人の仕草を見て、中国系が話し始めた。 「マリファナとハッシシのタバコをつくっているんだ。こいつは臭いが強いから、ワタシは嫌いだ。女の子の話では、アナタは麻薬に興味があるらしいが、アンフェタミンを売る気はないか? 日本の覚醒剤のことだ。日本のヤクザには、一回分を六千円から八千円で売ってる人がいる。一回分は〇・二グラムぐらいだ。そんな高い値段で売ったら、一グラム三万円から四万円にもなるから、これは儲け過ぎだ。ワタシは量が多ければ、一グラム五千円、もっと下げて四千円で売ることもできる。  台湾人は、これから日本のヤクザには覚醒剤を売らなくなるよ。こっちが売らなければ、ヤクザは商売ができなくなるね。これからは、台湾人が自分の手で新しいマーケットを日本につくるよ。  覚醒剤の原料(塩酸エフェドリン)が、中国からいくらでも台湾に入ってくる。もちろん、密輸よ。だから台湾では覚醒剤が安くできる。苦労するのは、それをどうやって日本に運ぶかだ。香港から持ってきた睡眠薬もある。アップジョンという製薬会社が造っているやつだ。金色のパックに入ったのが一錠二千円、銀色は千円だ。日本ヤクザは、それを五倍以上の値段で売ってる。この睡眠薬は、日本の若い人に一番人気がある。歌舞伎町だけじゃなく、渋谷、六本木でたくさん売れるね。お酒と一緒に飲むと、気持ちよくなって天国へ行っちゃうよ。アナタが欲しいなら、LSD(リゼルギン酸ジエチルアミド)だっていくらでも手に入る。LSDは一錠一万五千円。ちょっと高いけど、これを飲むと、アナタの前に綺麗な蝶々《バタフライ》がたくさん飛ぶね」  そこまで話すと、男は私の体を見回し、「アナタはやはりヤクザじゃないね。イレズミがぜんぜんない」と言って表情を緩めた。そして中国語でホステスに何か声を掛けた。するとホステスは、体に巻きつけた毛布から首だけ出した恰好でベッドからすぐ立ち上がり、ドアのほうへ向かった。そして、手慣れた手つきでドアの隙間をバスタオルで念入りに塞いだ。 「臭い、アナタ、わかるでしょう? 変な臭いが外に出たら、他のお客さん、何だ、何だって大騒ぎするよ」  ホステスの声は落ち着きはらっていた。トイレのあと、彼女はまたベッドに身を投げ出した。最初に会った時の印象はすでに消え失せ、私には、彼女がひどく遠い存在に見えて仕方がなかった。  中東系とヒスパニック系の二人が、マリファナ・タバコを吸い始めた。それは、中身を抜いたショートホープに乾燥大麻を詰めただけのものだった。ハッシシは、特別な吸煙器具が必要らしいが、この時は、熱で粉末状にしたものをタバコと揉み合わせて、やはり中身を抜いたタバコに詰めていた。  私はマリファナとハッシシを吸うように勧められたが、部屋に充満した黒砂糖を焦がしたような強烈な臭いに、思わず咳き込んでしまった。  三人はそれから間もなくして、部屋から出て行った。引き揚げる際、中東系が「何か欲しい時は、これに連絡してほしい」と携帯電話の電話番号を並べ始めたら、とっさに中国系が背中を押して制止した。リーダー格はどうやら中国系らしかった。  私は腰にバスタオルを巻いたままその場に大の字に寝転がり、何度も深呼吸をした。それから急いで服を着て、冷蔵庫から取り出した缶ビールを一気に飲み干した。喉がカラカラだった。 FBI元捜査官が自らの体験を解説[#「FBI元捜査官が自らの体験を解説」はゴシック体]  一息入れたあと、私はホステスに聞いてみた。 「麻薬を売り歩いている連中と付き合っていて、怖くないのか? 連中は何者なんだ? 連中とどんな関係なんだ?」  ホステスはしばらく黙りこくっていたが、執拗に聞くと、最後に男たちの正体を明かした。 「三人ともマフィアね。台湾人、イラン人、コロンビア人よ。でも、ワタシは、台湾の人は怖くないね。あの人のお父さんの弟がマレーシアに住んでて、ワタシのお父さんがその人とお友達よ。だから、麻薬が欲しい人いたら、台湾の人に連絡する。麻薬売れたら、ワタシもお金もらえる。  台湾の人は友達いっぱいいるね。香港、マレーシアの中国人マフィアとも付き合ってるよ。ベトナムから来てる中国人の不良とも付き合ってる。  ベトナムの中国人は、マリファナたくさん持ってくるよ。台湾のマフィアがそれをまとめて買うの。売るのは、イラン人たち。大宮、上野、池袋、渋谷、代々木、六本木……イラン人がいろんなところで売ってる。イラン人は、コロンビアのマフィアに頼まれて、コカインも売ってる。お金欲しいから、マフィアはみんな友達ね」  私がもっとも気にかかっていたのは、私と関わりを持ったことによって、ホステスの身に危険が及ぶことだった。  私がそれまでに接触した中国人や台湾人のホステスは、ことマフィアの話になると、一様に顔をこわばらせた。しかし、彼女はそんな素振りは一度も見せなかった。 「アナタには、それは絶対話せないよ」  危ない話になると、彼女はこう言って完全に口を閉ざした。顔に似合わず、タフな女性だった。しかし、そんな彼女の顔色が変わったことが二度あった。  私が二つの質問をぶつけた時である。 「歌舞伎町で台湾マフィアの一番のボスは誰か?」  次に私は、質問の意味が彼女に伝わるまで何度も説明を加えながら、こんなことを聞いた。それは、私が前々から気になっていた疑問だった。 「コロンビアのマフィアが、東京にある中南米の某国大使館を通してコカインを日本に運んでいるという話があるが、知っているか?」 「某国」と触れたところでは当然、具体的な国名も出した。そのちょっと前に、ホステスは、部屋に来た台湾マフィアを通じ、「歌舞伎町で世界中のマフィアと会った」と打ち明けたので、私は彼女の口から何か情報が出るのではないかと期待していた。私の二つの質問に対しては案の定、「絶対に話せない、そんなこと。ワタシ、知らないよ。ワタシ、マフィアじゃないよ」という答えが返ってきた。  それにしても、こちらに何の断わりもなしに、部屋にいきなりマフィアを呼び寄せたり、たかが二十一、二歳のホステスに、どうしてそんなマネができるのか、不思議でならなかった。その後、取材が進むにつれてわかったことは、彼女のようなホステスは歌舞伎町では珍しくないということだった。麻薬組織のアンテナになって、店に来た客の中から買い手を探すのも、ホステスの大きな仕事だった。そもそも私が彼女に近づいたのも、彼女がアンテナらしい、という情報を他のホステスから聞いていたからだ。それにしても、麻薬マフィアとこれほど深く関わりを持っているとは、私にも予想外だった。  ホステスを部屋に残して、私はラブホテルを引き揚げた。すでに真夜中になっていた。  私はそれから一年半以上経った九四年八月に、ロサンジェルス市警に五年、FBI(米連邦捜査局)に十八年間在籍して、覆面捜査官をしていたことがあるウイリアム・E・オライリ氏に会う機会があった。  オライリ氏は、カリフォルニア州立大学で警察科学、警察行政を専攻し、爆弾処理や弾道学の専門家として知られ、歴代大統領のボディガードを務めたこともある。すでにFBIを退職している。オライリ氏は現在、香港、シンガポールに事務所を持ち、犯罪捜査や防犯関連のコンサルタント業でアジア各国を飛び回っている。  歌舞伎町も一緒に歩いてみたが、その際、私は、台湾マフィアが「日本にはアンダーカバーコップがいないからね」とラブホテルで話していたのを思い出し、そのことをオライリ氏に話してみた。同氏は覆面捜査官の仕事について自分の経験をこう振り返った。 「仕事が始まったら、何よりも自分が俳優になり切るのが大事です。自分を周囲の環境や人物に合わせながら、役を演じるんです。それが自分の安全を確保する最善の方法です。  七七年のことですが、私は窃盗団を摘発するために、オレゴン州ポートランドで十五カ月にわたって港湾労働者になり、皆と一緒に不規則な生活をしながら働きましたね。内部にもぐり込んで情報を集めるためです。当時のFBIの給料が約四千ドルで他に残業手当ても危険手当てもない。港湾労働者の収入はそれより高くて月に約五千ドルでした。しかし、これはFBIを通して国庫に入ってしまうんです。覆面捜査は、相手が目の前で何をしようと、ある段階まではごく自然に泳がしておくことが基本ですね」  もちろん、日本の警察は、こういった捜査手法は使っていない。私は、コロンビアの密売人が使い古した千円札を丸めてコカインを吸っていたことも気になっていたので、オライリ氏に聞いてみた。 「その方法でないとコカインを吸えないということはないんですが、それはあなたにコカインを売り込むための儀式《セレモニー》だと思いますね。わざとオーバーにやって、それであなたの注意を引き付けるんです。それともう一つの理由は、少しでも早く中枢神経を刺激するために、鼻の奥に一気にコカインを送り込むためです。アメリカでもそうする人がいますし、不思議でも何でもありません。部屋にあったプラスチックのストローや新しい一万円札を使わなかったのは、鼻の奥の粘膜を傷つけたくなかったからでしょう。  マフィアによる組織犯罪は、どの国でも大きな問題です。私もマフィアの捜査をしたことがありますが、これはとても危険なものです。最近は、イタリア系のマフィアは、FBI捜査官を撃たないという暗黙の約束みたいなものがあるんですが、それに比べてアジア系のマフィアは、警察官も何も関係なく撃ってきますから、油断も隙もありません。銃は非常に危険なものです。相手はマフィアではなかったのですが、パトロール勤務中に私自身、背中を撃たれたことがあります。ちょうど背骨をやられ、弾が一ミリでも深く入っていたら、半身不随になるところでした。自宅に爆弾を仕掛けられたこともありますよ」  オライリ氏はまた、こんなことを言って私にウインクしてきた。 「取材でも同じだと思いますが、覆面捜査で最も注意せねばならないのは、綺麗な女性ですよ。彼女が何らかの形で事件に関係していて、その彼女に誘われてベッド・インしたりすれば、必ず私情が入って捜査の邪魔になるし、情報も片寄ったものになります。たとえ事件をうまく解決しても、後でベッド・インの事実を相手側から暴露されれば、公判維持は不可能になりますよ。ですから、どんな状態になっても、最後は職業的自制心を働かせて、うまく女性をはぐらかすことが大事です」  夜の歌舞伎町二丁目を歩くと、耳に飛び込んで来る通行人の言葉は、英語のほか、中国語、韓国語、タイ語、タガログ語、スペイン語、ペルシャ語などほとんど外国語ばかりである。  歌舞伎町という町名が行政区分として定着したのは、戦後間もなくのことである。  昭和二十年三月の東京大空襲で、新宿駅東口一帯も焼け野原になった。戦後、一帯を文化地域にしようという総合復興計画が立てられ、その目玉として本格的な歌舞伎の劇場を建設することになった。  ところが、その後の金融措置や建築制限に関する法令で先き行きが暗くなり、歌舞伎劇場の建設計画はついに立ち消えになった。結局、計画は幻と化し、歌舞伎《ヽヽヽ》町という名前だけが残された。  戦後間もなくの歌舞伎町も、警察がうかつに手がつけられないほど、外国人が横暴の限りを尽くしていた時期があった。そこで警察が目をつけたのが、日本のヤクザだった。裏からヤクザを後押しして、ヤクザに外国人を抑えさせたのである。  現在の歌舞伎町は、戦後のそれと状況がよく似ている。が、当時と決定的に異なるのは、ヤクザが暴力団対策法で警察からガンジガラメに縛られていることだ。警察がマフィアにいくら手を焼いても、かつてのようにヤクザを利用することはできない。  マフィアは貪欲な生き物である。隙さえあれば、どこからでも入り込む。  ラブホテルで会った例の台湾、イラン、コロンビアのマフィアは、麻薬の密輸・密売に関しては裏でしっかり手を結んでいた。しかも、その密売価格は、日本の密売人のそれとは比べものにならないほど安価である。それができるのも、後ろに強力な組織を控え、麻薬を大量に日本に持ち込めるルートがあるからだ。  ラブホテルでの取材からしばらくして、私は、歌舞伎町の麻薬市場に詳しいある日本人の麻薬密売関係者に会った。その話を聞いているうちに、私は怖気《おじけ》づいてきた。 「オマエをサンタマリアにする」[#「「オマエをサンタマリアにする」」はゴシック体]  私がラブホテルで会った例のコロンビア人は、コロンビア第二の都市メデジン市を本拠にする世界最大のコカイン密売組織メデジン・カルテルの一員で、しかも、組織の指令を受けて日本市場開拓の任を負っている男だった。  この麻薬密売関係者によると、歌舞伎町にはメデジン・カルテルのメンバーあるいは協力者が、三十人から四十人出入りしている。常時いるのは七、八人だが、連中は普段は単独で動くことが多く、イラン人のように一カ所にたむろするようなことはしない。地方にコカイン密売の受け皿をつくるために、単独、あるいは二人組で全国の盛り場に散らばり、表向きは飲食店の従業員として働いている者が多いという。下っ端まで含めたら、全部で百人は越えるだろう、とこの関係者は語った。  また、ある組関係者は、「これ以上日本で連中がのさばるようなことになると、ヤバイことになる」と真剣な顔つきになった。 「歌舞伎町にいるメデジン・カルテルのあるメンバーは、同じ麻薬組織のカリ・カルテルにコロンビアで襲われ、ピストルで体を三カ所撃たれたが、いまでも弾が一発入ったままだと言ってた。自分はなんとか助かったが、女房、子供は撃ち殺されたそうだ。いくら勢力争いでも、家族を殺すなんて、ヤクザには考えられんよ。  コロンビアのそういった連中は何かあるとすぐ、『オマエをサンタマリアにする』と言って相手を脅すんだが、これは殺すぞ、という意味だ。そんな連中を使って、あちこちの店からミカジメ料(用心棒代)を集めているヤクザが歌舞伎町にもいるけど、俺は納得できんな。国も国民性も違う、組織の性質もヤクザとは違う。そんなわけのわかんないマフィアと共存共栄するなんて、俺にはとても考えられん」 「サンタマリアにする」の符丁は、マリアが霊魂と共に肉体も昇天したという聖母被昇天信仰と関係があるようだ。コロンビアは熱心なカトリック信者が多い国である。  メデジン・カルテルは爆弾テロを頻発させていることでも有名だが、組織に不利な人間は容赦なく抹殺する。ロケット砲まで持ち、八〇年代後半から、政府要人、裁判官、警官、新聞記者などがつぎつぎと命を狙われ、巻き添えになった一般市民を含めると、千人以上が犠牲になったといわれる。新聞社が建物ごと爆破されたこともある。  コロンビアの麻薬マフィアが一年間に扱うコカインの量は、一千億ドル以上といわれる。 「歌舞伎町に来てるコロンビアのマフィアは、日本のヤクザを怖がっちゃいないよ。連中は何の警告もなしにナイフですぐ首を狙うような連中だ。コロンビアから売春婦やストリッパーが日本にいっぱい来てるけど、コロンビア・マフィアの怖さを誰よりもよく知ってるのは、彼女たちだよ。彼女たちの中には、末端で麻薬ビジネスに協力している者がけっこう多いんだ。協力しないと怖い目に遭うから、マフィアの言う通りにしなきゃならない。  彼女たちを含めて、コカインの運び屋や密売人はいままで何人か日本で捕まっているが、肝心なことについては、絶対に口は割らない。ペラペラ喋って、それで仲間が捕まったり密輸ルートを潰されたりしたら、自分だけでなく、向こうにいる家族が殺されちゃう。日本にいるカルテルのメンバーも組織が怖いから、警察には何も話さないよ」  これは、かつてコロンビア人女性を従業員として雇っていた、都内のさるパブレストラン経営者の話である。  この店は、二カ月も経たないうちにコロンビア人女性を解雇した。店がまたたく間にコロンビア人の溜り場と化し、女性の知人、友人が、衣類などの身の回りの品が入ったバッグや布袋を気易く店に預けていくようになったからだという。これだけでも店の営業に支障が出たが、それよりも経営者が心配になったのは、預けられた荷物の中にコカインが隠されている確証をつかんだからだった。  コロンビア・マフィアの関係者は、最初は観光ビザで入国して来る。そのまま日本に居座ることになるが、しかし、警察や入国管理局が、不法滞在で捕まえて何度強制送還しても、再び日本に戻って来る。コロンビアでは、不正パスポートが、他の国とは違った特殊なルートですぐ買える。軍隊の中に、共同軍事演習などで他国へ出掛ける際に使う兵士向けのパスポート発給所があり、そこで日本円にして二十万円ぐらいの金を出せば、簡単に不正パスポートが手に入るのだ。この時点でパスポートから本名は消し去られ、マフィア関係者は完全な別人として日本に再び入って来る。  じつは、日系二世のアルベルト・フジモリ大統領が率いるペルーからも、不正な手段を使って、よからぬ連中がここ歌舞伎町に出入りしていた。 整形手術をしたニセ日系人[#「整形手術をしたニセ日系人」はゴシック体] 「日系人でもない人間が整形手術で顔を変えて、ペルーの日系一世から千ドルから千五百ドルで戸籍を借りる。そして自分は日系二世、三世になりすましてパスポートを発行してもらってるんだ。ペルーからプロの窃盗団が日本に何十グループと来てるけど、ほとんどが整形手術した連中だ。白人系のペルー人は髪を黒く染めて整形手術が必要だが、インディオの血が流れている奴は、顔つき、肌の色が日本人に似てるから、ニセ日系人になるのはそう難しいことじゃない。ただ、連中は、盗みはやっても、中国人やイラン人のような殺しはやらない。  本物の日系人にも悪い奴はいる。出稼ぎ斡旋業者と手を組んで、日本に来たがっているペルー人に、日本へ行ったら養子にしてやると持ち掛けて、金を巻き上げてしまう。その気になって、観光ビザで日本に来たのはいいが、養子縁組なんてそんなに簡単にできるわけがない。結局、ビザの切り替えも更新もできないから、三カ月後には本国へ送還される。そして帰ったら、借金取りに厳しく追われることになる。中には送還を嫌がって逃げ回り、自動車組み立て工場で働いたり、ニセ日系人の窃盗団に入る者もいる」  私はある情報提供者からこんな話を聞かされて、唖然としてしまった。  三十八年ぶりに改正され、九〇年六月一日から施行された新入管法によって、南米各国の日系人にビザの優遇措置がとられるようになった。本当の狙いは単純労働力の確保にあるが、これで日系二世、三世には特別な在留資格が与えられ、それまで制限があった日本での長期就労が可能になった。  コロンビア・マフィアや他の南米の犯罪グループがそれに目をつけ、日本へのコカイン密輸にこうしたニセ日系人を利用していることもわかってきた。  別の情報提供者は私にこう打ち明けた。 「百キロ単位で密輸する場合は、ペルーやアルゼンチン、ベネズエラ、エクアドルの貨物船を使うことが多いが、一、二キロのときは、国際郵便小包や航空宅配便を利用する。ニセ日系人の役割は、その受取人。なぜなら日系人だと、成田の税関や東京の国際郵便局で他の外国人より怪しまれずに済むからだ」  私は麻薬密売関係者から、さらにこんな話を聞かされた。 「九二年の夏のことだ。コロンビアから船で家具がいくつも送られてきたが、その中に隠してあった五百キロちかいコカインがまだ受取人に届いていない。これも受取人はニセ日系人だ。表沙汰にはなっていないが、恐らく当局がそのブツを家具と一緒に押えているはずだ。五百キロといえば、日本での卸し値が一グラム五千円前後だから、コロンビアのマフィアにとっては、二十五億円を取りはぐれたことになる。末端価格だと、それが五倍、十倍になるんだ。まあ、いつもうまくいくとは限らんからな。  でも、見つかるのは、ほんの一部だ。大半は、発注元にちゃんと届いている。メデジン・カルテルへの代金決済は、東京銀行の本店から中南米のあちこちへ分散送金しているが、もちろん、�メデジン・カルテル様�なんて書く馬鹿は誰もいないよ」  麻薬汚染は、取り返しのつかないところまで進んでいる。日本にいるメデジン・カルテルのメンバーやエージェントを通せば、コロンビアへ直接発注することも可能だという。  例のマレーシア人ホステスから突然、ポケットベルに連絡が入ったのは、私がこのコカイン密輸ルートを追っている最中だった。  表示された電話番号は、彼女の携帯電話のものだった。 「この前のコロンビア人マフィアが、アナタに会いたいと言ってる。理由? ワタシにもわからないわ。アナタ、会いますか?」  彼女は部屋に男が来ると知っていながら、「女の人が来る」と嘘をついた前科があるので、こちらもうかつには話に乗れなかった。 「台湾やイランのマフィアも一緒なの?」  私がそう聞くと、ホステスは言下に「一緒じゃないわ」と否定した。一晩考えた末、私はやはり会うことに決め、その日のうちに彼女に返事をした。  ホステスを通してコロンビアのマフィアが指定してきた日時は、ポケットベルが鳴ってから十七日後の夜八時、場所は山手線西日暮里駅の近くにあるスナックだった。 [#改ページ]  現役外交官が麻薬取り引きに関与  相手が指定したスナックは、西日暮里駅から歩いて十二、三分のところにあった。  池袋経由で山手線を使えば、歌舞伎町から約四十分、車なら三十分弱かかる。コロンビア人マフィアがなぜ、歌舞伎町から離れたそんな場所をわざわざ選んだのか、私には皆目見当がつかなかった。  私が歌舞伎町のラブホテルで、そのコロンビア人マフィアと初めて顔を合わせたのは、約一カ月前。男はコロンビアのコカイン密売組織メデジン・カルテルに所属していた。  約束の当日まで、二週間以上の期間があったので、その間、私は念のために、スナックの下調べをした。その店は、昼間は中年夫婦が喫茶店を営み、夜になると、夫だけが残ってスナックに変わった。ホステスは一人もいなかったが、だからといって、特に怪しい背景が出てくるわけでもなかった。  ただ、近くの同業者の話では、店は二年ほど前から昼間はイラン人の溜り場になっていて、日本人の客はほとんど入らないということだった。  私はラブホテルでの一件から、コロンビア人マフィアがマフィア化した不良イラン人と裏でつながっていることを知っていたので、その同業者の話がやはり気になった。  当日、私は約束の時間より二時間も早い、夕方六時には店の近くに着いていた。都内に強風が吹き荒れた日で、駅から店へ行く途中、舗道のあちこちで自転車が横倒しになっているのが目についた。  店を目の前にして私は約束を守るべきかどうか、最後の最後まで迷った。というのは、コロンビア人マフィアは、「自分一人でアナタに会う」と伝えてきていたにもかかわらず、実際には仲間を引き連れて私を待っていたからだ。  約束の時間がくるまでの約二時間、近くの路地裏から気付かれないように店の出入りをチェックしていると、約四十分後に、中東系の三人組、四人組と二つのグループが続けて店に入った。それから二十数分が過ぎ、私が会うことになっていたコロンビア人マフィアがヒスパニック系の男二人、中東系の男一人を連れて店内に消えた。その夜はわからなかったが、後日、このヒスパニック系二人がコロンビア人で、中東系がイラン人であることが確認できた。  相手は総勢十一人である。店に日本人マスターがいるのがわかっていても、やはり腰が引けてしまった。そこで私は急遽、取材方針を変更することにした。この日の約束を反故《ほご》にして男を泳がせ、その間に背後関係や人脈を追うことにしたのだ。  約束の時間が過ぎた夜八時半ごろ、私は歌舞伎町のあるクラブに電話を入れ、連絡役のマレーシア人ホステスを電話口に呼んでもらった。 「コロンビア人が約束を破った。あなたの話では一人で来ると言ってたはずなのに、店の近くから見ていたら、仲間を三人も連れて店に入った。だから、今夜は会わない」  私はわざと怒った口ぶりで、非はコロンビア人のほうにあることをホステスに強調した。  ホステスは電話口で「ゴメンネ」という言葉を何度も繰り返した。私は「コロンビア人が私を待ってるはずだから、いますぐ連絡してほしい」と言って電話を切った。  それから一分も経たないうちに、会うことになっていたコロンビア人マフィアが、携帯電話を耳に当てながら、店の前に出てきた。連れのコロンビア人二人が、心配そうな面持ちで男を両側から見守っていた。  私はその一部始終を、すぐ真向かいの飲食店からこっそり見ていた。コロンビア人マフィアは携帯電話をせわしく右耳に当てたり左耳に当てたりしていたが、その体の動かし方を見ると、うまく言葉が通じていないようだった。  コロンビア人マフィアが店から引き揚げたのは、それから間もなくだった。が、同行していたコロンビア人の男二人は店に残り、一緒に店に入ったイラン人を一人だけ連れて西日暮里駅方面に歩いて行った。  一瞬、男を尾行しようと思ったが、ラブホテルですでに私の面が割れていることを考えてやり過ごした。  他のコロンビア人二人が店から出てきたのは、十時ちょっと前。鼻の下に髭をたくわえたイラン人七人も一緒だった。そのうち二人は西日暮里駅のほうに向かったが、コロンビア人二人を含む七人は、逆方向に歩き出した。  十数分後、古ぼけたアパートの前で全員が立ち止まり、イラン人二人がそこで別れた。別れ際に二人が他の仲間と何度も手を握り合い、肩を抱くようにして頬ずりした。  日本人は気色が悪いと思うかもしれないが、それはイスラム教徒にとってはごく日常的な別れの挨拶だった。  他の四人は、それからしばらく歩くと、こんどは小さなホテルのような建物の前で立ち止まり、しばらく立ち話が続いた。私は連中から二十メートルぐらい離れたところで、通りがかりの年配の男性を呼び止めた。 「あのホテルは、どんな人たちが泊まるんですか? 見たところ、ホテルという感じでもないし……」  年配の男性は、吐き捨てるような口調で言った。 「客に日本人は一人もいねえよ。いるわけがねえ。あのホテルは、本当はホテルじゃないんだ。前は普通のビルだったのが、いつの間にかホテルみたいに外国人を泊まらしている。今は、麻薬を売ってる不良イラン人の溜り場だ。ホテルの前で、真っ昼間からマリファナとかいうタバコを堂々と吸ってるんだ。  何が原因かわからねえけど、仲間同士で殴り合いの喧嘩をしてたのを何度も見てるよ。連中の喧嘩は凄い。ナイフ持ってる相手に頭突きを喰らわせるんだから。でも、喧嘩ならまだマシなほうだ。去年の秋口、ここからあまり離れていないところで、あのホテルに出入りしていたイラン人が殺されているんだ」  九二年九月一日のことである。荒川区南千住を通るJR常磐線のガード下近くの空地で、首を鋭い刃物で切り裂かれたミルマジット・ミーラニー(24)というイラン人の惨殺死体が発見された。  警察の調べでは、男は指紋や持っていたブレスレットなどから、その一カ月半前に新宿区内で起きた現金、貴金属強奪グループの一人と判明した。  男の死体が発見される八日前には、渋谷区内でゴーラムホセイン・オースリ(24)というイラン人が、やはり首を切り裂かれて殺されている。この男は変造テレホンカード密売組織の一員だった。事件の背景には、他のイラン人グループとの縄張り争いや金にからむ内輪揉めがあった。 金と交換するタバコの箱[#「金と交換するタバコの箱」はゴシック体]  二人とも金がらみで同じイラン人に殺されたのは明らかだが、共通しているのは、二人が歌舞伎町に出入りしていたことだ。日本中を荒らし回っているイラン人強盗団と親しいミルマジットは、奪った貴金属類を歌舞伎町に持ち込み、他の不良外国人に売り歩いていた。その合い間に、新宿・大久保界隈で一時、コロンビア人街娼のポン引きをしていたこともあった。  道端で年配の男性と話をしながら、ホテル前の男たちに気を配っていると、コロンビア人二人がイラン人から金を受け取り、相手にタバコの箱のようなものを三つ、四つ渡しているのがはっきり見えた。  私がそれまでに得ていた情報では、不良イラン人はコロンビアや台湾のマフィアの手先になって、麻薬の密売を受け持っている者が多い。タバコの箱の中身は、麻薬だろうか。  その後、私が追ったコロンビア人二人は、常磐線三河島駅から下り電車に乗った。細心の注意を払って、私は同じ車輛の別のドアから飛び乗った。  ところが、この時、ちょっとしたトラブルが起きた。飛び乗ったはずみで若い酔っぱらいの足を踏んでしまったのである。男は、「この野郎、謝れ!」とからんできた。  私が素直に謝ると、酔っぱらいは調子づいて、「この野郎! テメエが悪いくせに、俺をどうして睨むんだよ。文句があるなら、つぎの駅で降りろよ!」と啖呵《たんか》を切った。  酔っぱらいにまともに付き合ったがために相手を見失っては、元も子もなくなる。私はつぎの南千住駅で、酔っぱらいの言うがままに一応電車から降りたが、ドアが閉まる寸前、男をいきなり押しのけて、コロンビア人が乗っている隣りの車輛に飛び乗った。車内はけっこう混んでいたが、私は乗客のあいだをくぐり抜け、コロンビア人から二メートルぐらいのところまで近づいた。  二人とも百七十センチ前後で、中肉中背。一人は、太目のジーパンに黒いジャンパー、もう一人は、紺色のデニムの上下を着ていた。  警戒した目つきでときどき車内を見回していたが、私は視線を避けるようにして二人の斜め後ろに立った。  三河島から乗車して約二十分後、二人は柏駅で降りて駅の東側に出た。  二人はそこから十分ほど歩き、公衆電話でどこかへ電話を入れた。すると、その直後、目と鼻の先にあるスナックからヒスパニック系の若い女性が出て来て、二人に向かって手を振った。  二人は店先に足早に歩み寄り、女性がハンドバッグから取り出したタバコの箱を何箱か受け取ると、あたりを気にしながら、それをポケットに詰め込んだ。  あとで調べてみると、その女性はコロンビア人ホステスで、このスナックには、他にもペルー人のホステスが一人働いていた。  その夜、男二人がスナックから二百メートルぐらい離れたアパートの二階に住んでいることを突きとめた。  じつはコロンビア人とペルー人のホステスも同じアパートの一階に住んでいた。  アパートを取材すると、ある住人はこう話した。 「部屋は別々だが、一階の女の子二人は、二階の男の女房か恋人といった関係だよ。だって、時々、男と女が一人ずつ部屋を行き来してるんだから。そんな夜は、両方からうるさい声が聞こえて、他の人から苦情が出てるくらいだ」  男二人は都内の小さな町工場に三年前から勤め始めた。経営者の話では、最初は真面目に働いていたものの、半年ぐらい経ってから仕事を無断で休むようになり、ここ二年間はまったく姿を見せていない。  アパートを突きとめた三日後の日曜日、私は、男のほうを部屋を出るところから徹底して尾行してみた。  二人は昼前、同じアパートに住むホステス二人を連れて、柏駅から上り電車に乗った。車内では男とホステスが互いに腕を組み合い、男が冗談を飛ばすと、ホステスが男の脇腹をくすぐったりして、盛んに笑い声を立てていた。  男は二人ともメデジン・カルテルのメンバーの手先であることを、私はほぼ確認していた。四人の仲睦まじい光景を目の当たりにすると、私はなんとも不思議な気分にとらわれた。組織の末端で働く彼らに、犯罪者の面影はまったく見られなかった。  四人は日暮里駅で山手線に乗り替えたが、その時、男の一人がホームにある公衆電話でどこかへ電話をかけた。スペイン語で一方的に話し、受話器を叩きつけるように置いた。話の内容はわからなかったが、「シンジュク」という言葉が三、四度聞き取れた。 白昼堂々の麻薬取り引きを目撃[#「白昼堂々の麻薬取り引きを目撃」はゴシック体]  案の定、四人は新宿駅で降りると、東口のアルタ前に出た。  ところが、それからの行動は、こちらの予想外だった。当然、歌舞伎町へ向かうだろうと思っていたのだが、しかし、四人はアルタ前の新宿通りを右に曲がっていった。そして伊勢丹のところで明治通りを右に百二、三十メートル進み、甲州街道にぶつかる手前で急に立ち止まった。  男二人はそのまま動かなかったが、ホステス二人は互いに逆方向に歩き出し、男から十数メートル離れたところで二人ともタバコを吸い始めた。それからあたりをキョロキョロ見回し、明らかに誰かを待っている様子だった。  三、四十分して、ホステスの一人が片手を上げ、男に何かサインを送った。私は店を探しているフリをしながら、ホステスの近くへ行った。その直後だった。髪を茶色に染めあげた二人の若い男が、コロンビア人の男たちのところにスーッと近寄り、二言、三言、何事か呟いた。風貌から二人とも日本人であることは間違いなかった。互いにタバコの箱を一箱ずつ交換すると、若い男は跳ねるような足どりで人混みの中へ消えていった。ほんの七、八秒の出来事だった。  時刻は、午後二時ちょっと過ぎだった。周囲の通行人は誰も気付いていないが、それは白昼堂々の麻薬取り引きだった。客がコロンビア人に渡したタバコの箱には、コカインの代金が入っていたはずである。およそ百メートル先の交差点には四谷署追分派出所があり、警官が二人立っているのが見えた。  それから三十分ぐらいの間に、同じようにタバコの箱を交換する光景を、通りに面した安田海上火災・新宿別館一階にある喫茶店の窓際の席から四回目撃した。  まず、男が三人で来て、つぎに男のほうがサングラスをかけたいかにも気取り屋然とした若いアベック、さらに女性が一人で現われた。いまにもはち切れそうなきついジーパンをはいたこの女性は、真っ白いマルチーズを抱いていた。そして最後は、紳士然とした五十代の男だった。パリッとした黒いスーツを着込んでいた。  ホステス二人は、密売の見張り役であると同時に、男たちが売るコカインを運ぶ役割も担っていた。それは、ときおりバッグからタバコの箱を取り出して男に渡しているのを見ても明らかだった。  昼間の雑踏のなかで、これほどおおっぴらに麻薬取り引きが行われている現実を目の前にして、私はただ唖気にとられてしまった。  この場所では、日曜日の午後二時過ぎになると、必ずこうした光景が見られた。麻薬取り引きは売る方も買う方もほぼ同じ顔ぶれだった。コロンビア人はすでに日本人の固定客をつかんでいたのである。  午後三時ちかくになると、四人は明治通りを北に向かって歩き出した。新宿通り、靖国通りを突っ切ると、歌舞伎町の東端にある花園神社の入口で立ち止まった。ホステス二人は前の場所と同じように男から離れた。  時計を見ると、三時二十分だった。私のすぐ近くに、「外」の文字がある四桁の青い外交官ナンバーをつけた白色の中型車が停まった。運転していた白人男性が、十数メートル先の男の方へゆっくりと歩いて行った。助手席には、斜めうしろからなので顔は見えないが、白人女性が座っていた。 浮上した二等書記官の名前[#「浮上した二等書記官の名前」はゴシック体]  白っぽいハーフコートを着た白人男性は、コロンビア人の男と二、三分話し込んでいたが、突然、向きを変えて私のほうに向かって来た。  私は怪しまれてはまずいと思い、たまたま通りかかった若い三人連れの女の子に、「あのぉ、花園神社はどこですか?」とわざとらしいことを言いながら、白人男性に背を向けた。  白人男性はいったん車に戻ったが、ちょっと間をおいてから、再び車を降りてコロンビア人のほうへ向かっていった。  私は女の子に小声で囁いた。 「ちょっと頼みがあるんだけど、私の後ろにある白い車のナンバーを見てくれないか」  女の子が読み上げるナンバーを、私はボールペンの先を押しつけるようにして掌に書き込んだ。女の子は、不思議そうな目差しで私を見つめていた。  それから女の子の左側に回り込み、コロンビア人の男のほうを見ると、白人男性が何かの雑誌を相手に渡し、代わりにタバコの箱を数箱受け取ったのが見えた。その時の様子から、雑誌にコカインの代金が隠されていることは、疑う余地がなかった。  青い外交官ナンバーの車は、それからすぐどこかへ走り去った。  車のナンバー、車種などから持ち主を割り出していくと、東京・港区に大使館を置くEC(欧州共同体=現在のEU)加盟国の現役二等書記官の名前が浮かんだ。ある日の夕刻、その車が大使館から出るところも確認した。運転していたのは、私が花園神社で目撃した白人男性と同一人物だった。だが、この時は、助手席に女性の姿はなかった。  EC諸国は目下、アメリカ合衆国と協力して、麻薬撲滅に力を入れている。ところが、そのEC加盟国の現役外交官自らが、歌舞伎町の片隅で、公然とメデジン・カルテルの手先から麻薬を仕入れていたのだ。  これもEC加盟国だが、二人の外交官が、コロンビア人の働く東京・六本木の店に出入りしていた。この店は、「コカインが簡単に手に入る」ということで、ある特定層にはよく知られた場所である。  四人は二等書記官にコカインを渡すと、明治通りをさらに北へ進み、歌舞伎町一丁目と二丁目の境目にある通りを左に曲がって『風林会館』の方向へと進んだ。さらに区役所通りを横切ると、そのまま直進してコマ劇場の方角へ歩いた。 「オハヨォ! 何追ってんの?」  顔見知りの客引きが、横から急に声をかけてきた。風俗飲食業界の人たちの挨拶は、時刻に関係なくいつも同じである。私が口にチャックを引く仕草をすると、相手は両肩を軽く上げてクルリと背を向けた。  四人はやがて、コマ劇場の近くにあるカウンター式の牛丼屋に入った。私は気付かれないように同じカウンターに座った。  四人とも三百五十円の�並�を注文した。ペルー人のホステスとコロンビア人の男は、意外なことに、一杯五十円のインスタントの味噌汁を頼んだ。  コロンビア人のホステスは箸の使い方がまだ不慣れなために、米粒をボロボロ膝元にこぼして他の三人から笑われていた。  料金は四人で約千五百円。これが、世界最大のコカイン密売組織メデジン・カルテルの手先たちの昼食だった。  コロンビア・マフィアに限らず、犯罪組織は、ボスが末端から金を吸い上げる構図になっている。コロンビアから遠く離れた歌舞伎町にいても、その構図から逃れることはできない。四人が住む千葉県柏市内のアパートひとつとっても、彼らが麻薬で潤《うるお》っているとは、とても思えなかった。  牛丼屋を出ると、四人はコマ劇場の真ん前にあるガラス張りの広い喫茶店に入った。その真裏は歌舞伎町交番だった。誰かと待合わせをしているのか、男の一人がしきりに時計を気にしていた。 コロンビア人・マフィアの影[#「コロンビア人・マフィアの影」はゴシック体]  この店は、店内からコマ劇場前の広場が見通せるので、私はどこに張り込んでいいのか場所探しに迷ってしまった。結局、つぎの開演を待ってコマ劇場の入口に並んでいた団体客に紛れ込み、私は喫茶店に目を凝らした。  四時四十分ごろ、喫茶店にヒスパニック系の男が一人で入っていった。私の目の前でコカインの吸引を実演して見せた、あのコロンビア人マフィアだった。 「おたく、うちのお客さんじゃないよね? 一緒に並ばれると困るんですわ。どいてもらえますかね」  いよいよこれからという時、団体客の責任者らしい男が来て、私は列から追い出されてしまった。仕方なく私は、コマ劇場の角にある売店の陰に移動することにした。  五人が店から出て来たのは、それから約三十分後だった。  喫茶店の前で、かのコロンビア人マフィアが、空を見上げるようにしてタバコの煙を吐き出した。それから広場を行ったり来たりしながら五人で何やら話していたが、マフィアの男は、数分後には仲間と別れ、コマ劇場の裏へ消えていった。  残る四人は、私のほうに向かって来た。男の一人が茶色のバッグを肩から下げていた。それは別れたばかりのマフィアの男が、喫茶店に入る時に持っていたものだった。  私はさらに後を追った。新宿から山手線に乗り、四人は池袋方面へ向かった。私はてっきり日暮里駅で常磐線に乗り替えて、柏市内のアパートへ帰るものだと思ったが、しかし、四人はその二つ手前の田端駅で下りの京浜東北線に乗り替えた。  川口駅で四人は下車した。行き先は、駅から歩いて十分ぐらいのところにある、小さなマンションだった。  マンションの数十メートル手前で、私は意外な場面にぶつかった。何が原因かはわからないが、四人の間で口論が始まったのだ。反対側の歩道にいた私の耳にも言い合う声が聞こえてきたほどである。肩から茶色のバッグを下げていた男が、そのバッグをもう一人の男に押し付けようとすると、相手がそれを押しのけた。  そのうち、口論はどうにか収まり、それまでバッグを持っていた男が一人でマンションに入っていった。他の三人は近くで待っていた。  しばらくすると、男がマンションから出て来た。すぐには気がつかなかったが、男の持ち物をよく見ると、マンションに入ったときに持っていた茶色のバッグが、黒と白の縦縞のものに替わっていた。  後日、そのマンションを調べてみると、その部屋には、コロンビア人の若い女性が三人住んでいた。一人は、コカイン密売の噂が流れている歌舞伎町のスナックでホステスとして働いていたが、他の二人は地方回りのストリッパーだった。ホステスのほうはよくわからなかったが、ストリッパーのほうは二人とも六カ月の興行ビザで入国していた。一人はすでにビザが切れていたが、他の一人は来日してまだ一カ月も経っていなかった。  茶色のバッグが運び込まれたことから見て、ストリッパーもコロンビア人マフィアに何らかの形で関係があるはずだった。私はストリッパーの身辺を調べてみた。  しばらくして、二人のストリッパーが静岡県内のある観光ホテルで踊っていることがわかった。私がそのホテルへ行ってみると、二人はまばゆいレインボー・ミラーボウルの光を全身に浴びて、裸同然の姿でステージに上がっていた。二人のボディは、軽やかなタンゴのリズムには収まり切れないほどグラマラスだった。  しかし、ストリッパーはあくまでも表向きの顔で、裏ではやはり麻薬密売人の手先になっていたのである。  私が確認しただけでも、ストリッパーの周辺には、少なくとも六人のコカイン密売関係者が存在した。そのうちの二人はコロンビア人だが、残る四人は日本人で、いずれも六本木のネオン街で風俗産業に従事する男たちだった。例のコロンビア・マフィアはじつは、このストリッパー二人を通して六本木界隈にもコカインを供給していたのだ。 �プレゼント�とはコカインのこと[#「�プレゼント�とはコカインのこと」はゴシック体]  私はさらに尾行を続けた。四人は川口駅から京浜東北線の上り電車に乗った。こんどこそ柏市内のアパートへ帰るだろうと思ったが、またもや予想が外れた。日暮里の一つ手前の西日暮里駅で降りたのである。  駅の近くにある喫茶店に四人が入った。私も少し遅れて喫茶店に入り、四人の後ろの席に背を向けて座った。男の一人が入口のレジのところにある電話で誰かと話している声が聞こえた。 「いま、西日暮里。ガールフレンドといる。今日は、お店へ行けない。プレゼント持ってる。すぐ来ないとダメよ」  尻上がりの妙なアクセントだったが、それはれっきとした日本語だった。間もなく中東系の男が二人で入ってきた。二人は、私がコロンビア人マフィアとの約束を反故にした夜、西日暮里駅近くのスナックから、私のうしろにいるコロンビア人の男たちと一緒に出てきたイラン人だった。あとで改めて地図で確かめてみると、そのスナックは喫茶店から直線距離で二百メートルも離れていなかった。 「友達がたくさんプレゼント欲しがってるよ。プレゼント、たくさんあるの?」  イラン人がそう言うと、コロンビア人が答えた。 「バッグに三十個ある」 �プレゼント�とはコカインのことで、彼らがいう�一個�とは、コカイン二グラムが入ったタバコの箱を指していた。一グラムの値段は、日本に密輸された時点で約五千円。これが日本人の密売人を通すと、末端価格が三、四万円、時にはその二倍になることもある。  会話の内容から、私のすぐうしろでタバコ三十箱、つまり六十グラムのコカインがバッグごとイラン人密売グループに手渡されたことがわかった。ほどなくコロンビア人が、イラン人に渡したコカインの代金について話す声が耳に入った。 「プレゼントのお金、アナタがいつ払うか、カウディリョと話してほしい。お金のことは、ワタシは知らないよ」  イラン人が、コカイン一グラムをいくらでコロンビア・マフィアから買い取っているのかはわからなかった。それよりも、カウディリョという名前を聞いて私は緊張した。カウディリョとは一体、誰のことなのか? 私は忘れないようにタバコの蓋《ふた》にその名前を書き込んだ。 [#改ページ]  コロンビア・マフィアとの対決  カウディリョという名前を頼りに、私は早速、歌舞伎町で情報収集を開始した。ところが、接触した誰もが「そんな名前のコロンビア人は聞いたことがない」と首を振った。どうにも不思議なので、私はコロンビア人の街娼にそれとなく訊いてみた。すると、彼女は声を出して笑いだした。 「それ、人の名前じゃないよ。�ボス�という意味ね」  カウディリョ(Caudillo)は、日本語に訳すと、�頭領�という意味だった。  取材を進めた結果、意外な事実に突き当たった。カウディリョとは、私がラブホテルで会ったコロンビア・マフィアが、イラン人の密売グループ向けに使っていた通称であることが判明したのだ。通称とはいえ、世界最大のコカイン密売組織メデジン・カルテルのメンバーの呼び名がやっと割れたのである。私は内心、小躍りした。  ──私が尾行していた相手は、西日暮里駅近くの喫茶店をコカインの受け渡し場所として利用していた。  その夜、イラン人と別れたコロンビア人ら四人は、下車した山手線日暮里駅ではなく、その真下にある地下鉄へ向かった。そして、すぐ入ってきた下りの千代田線に互いに手を引っ張るようにして飛び乗った。私も閉まりかけたドアに半身を挟《はさ》み込むようにして、どうにか隣りの車輛に滑り込んだ。  尾行は離れ過ぎれば、相手を見失う恐れがある。逆に近づき過ぎると、顔や衣類の特徴を覚えられてしまう。しかも、刑事の尾行と違って、その時、私は一人だった。アパートを突きとめてからは、気分的に少しは楽になったが、それでも最後まで気が抜けなかった。  車内のコロンビア人ら四人はかなり疲れている様子だった。コロンビア人とペルー人のホステスは、柏駅に着くまで、目を閉じたまま隣りの男にもたれかかっていた。  四人は柏駅で降りると、アパートへ帰る道筋にあるラーメン屋に入った。  その後、四人がアパートへ帰ったのを見届けてから、私はそのラーメン屋に立ち寄った。店主の話では、醤油、味噌、バター・ラーメンをそれぞれ一個ずつ注文し、それを四人で分け合って食べたという。 「代金は二千二百円。皆でビールを一本飲んだね。つましい生活してるよ。女の子は二人とも地元でホステスやってると聞いてるけど、男のほうは何の仕事してんのかわかんないね」  私はコロンビア人たちの普段の生活が気になっていた。日曜日の行動パターンはほぼつかめたので、こんどは月曜日から土曜日まで六日間続けて尾行してみた。  そこでわかったことは、男二人は月曜日から金曜日までは、常磐線沿線にあるファミリーレストランで、簡単な調理や皿洗いなどをしてまともに働いていた。その間は、夜の八時に仕事を終えると、まっすぐアパートに帰り、不審な人物と接触するようなことはただの一度もなかった。  二人の生活がガラリと変わるのは、土、日曜日の二日間だった。昼頃アパートを出て、きまって歌舞伎町周辺に出掛けた。日曜日は、同じアパートに住むホステス二人を連れて行くが、土曜日だけは男二人だけで動いた。  二人はまず最初に新宿へ行き、カウディリョの通称を持つコロンビア・マフィアと会った。会う場所は、喫茶店が多かった。しかし、たった一回だけ、この三人が同じヒスパニック系の女の子をそれぞれ伴い、大久保のラブホテルに入ったのを目撃したことがある。そこは、台湾マフィアやイラン人、それに日本の暴力団関係者が麻薬取り引きに使っているという噂が流れているラブホテルだった。  ある土曜日の午後三時過ぎだった。六人がまるで小屋に戻るアヒルの行列の如く、つぎつぎにラブホテルへ入っていった。他の客が辺りの通行人を気にしながら入っていくのに比べると、それはじつに奇妙な光景だった。  ホテルの入口には、〈この辺で客引行為をしている外国人女性と入店することはお断わり申し上げます〉という注意書きが掲示されていたが、私はこの際は仕方がないと自分に言い聞かせて、近くの路地から東南アジア系の街娼を誘い、そのラブホテルへ潜入した。  私が通されたのは、三階の部屋だった。フロントに小声で彼らと同じフロアをそれとなく頼んだのである。窓を開けると、山手線の電車が通っているのが見えた。窓を閉めて、入口のドアを軽く開けて耳を澄ますと、かすかにスペイン語らしい言葉が耳に入ってきた。さらに廊下に一歩出てみると、右奥の部屋からはっきりと話し声が聞こえてきた。 「アナタ、何してるの? そんなことしちゃダメよ。アナタ、悪い日本人ね」  街娼が軽蔑するような目つきで私を睨んだ。三組のカップルが入ったはずなのに、会話が聞こえてくるのは、その一部屋からだけだった。 「アナタ、セックスしたいから、来たでしょう? 時間は一時間ね。もう三十分過ぎたよ」  街娼の話を聞き流しているうちに、奥でドアの閉まる音がした。かすかに開けていたドアの隙間から、連中がまとまって出ていくのが見えた。 「チップをはずむから、私が出てから十分後に部屋を出てほしいんだ」  私は街娼にそう頼んで、連中のあとを追った。街娼は、歌舞伎町の外国人マフィアと何らかの形でつながりがあった。私は、自分が尾行している相手の顔を街娼に見られたくなかった。  ラブホテルを出ると、カウディリョの姿はすでに消えていたが、他の五人は山手線の新大久保駅方面へ向かってゆっくり歩いていた。男二人はそれぞれ白っぽい小さめの紙袋を持っていた。ホテルに入る時は、カウディリョが抱えていたバッグ以外に、そのような紙袋は見ていないので、ホテルの中でカウディリョから渡されたことは確かである。  ヒスパニック系の女三人は、新大久保駅で切符を買ってホームに消えたが、この時、彼女たちの顔を間近から見て驚いた。三人のうち二人は、私が静岡県内の観光ホテルで見たコロンビア人ストリッパーだった。  その後、コロンビア人の男二人は、大久保通りから何本か路地をくぐり抜け、ある大通りに出てから喫茶店に入った。そこには私が初めて顔を見る七、八人のイラン人のグループが待っていた。コロンビア人の男二人がテーブルの下で、ラブホテルから持って出た紙袋をイラン人に渡しているのが見えた。このコロンビア人は、コカインの配達人の役割も担っていた。紙袋を渡すと、二人はコーヒーカップに唇《くちびる》を二、三度触れただけで席を立った。  コロンビア人二人はさらに、歌舞伎町方面へ向かった。そのまま二人を追うと、職安通りから区役所通りに入り、靖国通りに出る手前の新宿区役所前で立ち止まった。二人で何か話しながら区役所前の歩道を行ったり来たりしていたが、夕方六時過ぎにまた、カウディリョが区役所横の路地裏から現われて三人は合流した。  カウディリョは、ラブホテルへ入ったときと同じ茶色のバッグを肩から下げていた。そのバッグをさり気なく足元に置くと、三人は区役所の近くで立ち話を始めた。数分後、カウディリョは、自分が持ってきたバッグをそのままにして一人で歩き出した。バッグは、私が追っていた二人組の男が拾い上げて新宿駅の方へ消え去った。  私は二人の尾行をここで打ち切り、今度はカウディリョの尾行に全力をあげた。麻薬が入った紙袋やバッグがどこから来るのか。それさえわかれば、歌舞伎町のコカイン密売ルートの一端が解明できると思ったからである。  カウディリョは、区役所前からゆっくり靖国通りへ動き、左側の横断歩道を渡ると、そのまま区役所の真向かいにある新宿遊歩道公園へ入った。新宿ゴールデン街の横を抜けて新宿文化センターへ向かうこの遊歩道は、「四季の路」と名づけられ、昼間は子供の姿もよく見掛ける。  ところが、夜ともなれば、中国人や他の外国人不良グループがどこからともなく現われ、酔客が金品を奪われるのもこの遊歩道だった。実際、遊歩道の入口には、〈路上強盗に注意! 一人歩きを数人で囲んで殴り金をうばう〉という所轄の四谷警察署が出した看板が立てかけてあった。  カウディリョは、新宿ゴールデン街の手前で、遊歩道の右側にある公衆トイレへ入った。それから数分後、私はその顔を見て我が目を疑った。メガネをかけ、付け髭を鼻の下と顎にたくわえて見事に変装していたのだ。  黒っぽいズボンに、細い白色のストライプが斜めに入った、濃いブルーのジャンパーはそのままだったが、一瞬、私は誤魔化されてしまった。その後、すぐに変装だと気付いて男を追いかけたが、私は距離を開けられ、カウディリョを見失ってしまった。しかし、区役所の真裏の東通りに右折する寸前、再び私はカウディリョを発見した。十数分前、区役所前に姿を現わしたときもこの路地から出てきた。  カウディリョは日本人の客引きが声を掛ける中、ややうつむきかげんに早足で歩いた。それから、歌舞伎町の一角にある雑居ビルに吸い込まれるように消えた。偶数階でエレベーターから降りたことは、一階にある階数表示板で確認できた。  あとで調べてみると、その階は、ある台湾人が経営する飲食店の事務所兼食材置き場として使われていることがわかった。しかも、その台湾人経営者は、台湾からときどき歌舞伎町にやって来る台湾マフィアの大物と縁戚関係にあった。  土曜日の夜とあって、ビルの前には、人の波が絶え間なく続いていた。時計を見ると、夜の八時前だった。手ぶらだったカウディリョが、派手な黄赤色のビニールバッグを抱えてエレベーターから降りて来た。黒いズボンに濃いグリーンのセーターを着た中年男と一緒だった。男は、私にも見覚えのある顔だった。さる台湾クラブで何度か飲んでいる姿を見掛けたことがあったからだ。男はいつもカウンターに一人で座り、携帯電話が鳴ると、注文したばかりのビールをそのままにして、店を引き揚げることもあった。  中年の男は、カウディリョを見送ると、すぐにエレベーターの中に消えた。セーターの上から太い金色のネックレスをぶら下げ、頭はパンチパーマ。一見、日本のヤクザに見紛うが、じつは、この男こそ台湾マフィアの大物だったのである。二人とも麻薬マフィアにしては目立つ色の服装をしていた。  台湾マフィアの大物と別れたカウディリョは、それから靖国通りに向かった。そして、通りに止まっていた黒っぽい車の後部座席に乗り込むと、運転席にいた男としばらく話し込んでいた。 台湾マフィアの大物と接触[#「台湾マフィアの大物と接触」はゴシック体]  助手席に若い女性が乗っていたが、二人の話にあまり興味がないのか、ドアにもたれかかったままほとんど動かなかった。私は人混みにまぎれて車のすぐ後ろに近づき、あとで車の所有者を割り出すために、ナンバーを書きとめた。それから間もなくして車が動き出したので、三人の行き先を確かめるため、通りかかったタクシーにあわてて飛び乗った。  ところが、百メートルほど走った区役所通りの入口で、連中の車が急に止まったのである。タクシーの中から見ていると、カウディリョだけが降りた。  変装に使っていたメガネ、付け髭は車内で外していた。何のための変装だったのか、私にはその理由がどうにも理解できなかった。台湾マフィアの大物から受け取った黄赤色のビニールバッグは、すでに車を運転していた男に引き渡され、手には何も持っていなかった。  カウディリョは、それから歌舞伎町のあるスナックへ入ったが、夜中の一時過ぎになってやっと店から出てきた。初めて見る顔のヒスパニック系の女性二人を連れ、酔いが回っているのか、足元がふらついていた。そのまま尾行を続けると、カウディリョは、歌舞伎町から歩いて十五分ほどの場所にあるマンションへ女性たちと一緒に入っていった。  住人の東南アジア系ホステスの一人によれば、カウディリョがこのマンションに住むようになったのは、九二年夏ごろからだった。  私はつぎに靖国通りに止まっていた車について調べた。ナンバーを頼りに関東運輸局東京陸運事務所に車の「現在登録証明」を申請すると、所有者は東京・豊島区在住の日本人女性であることがわかった。そして、やがて思いがけない事実が判明した。  カウディリョの手先のコロンビア人たちが住んでいる千葉県柏市の古アパートや埼玉県川口市のマンションの賃貸契約者も、車の所有者と同一人物だったのである。家主と契約を結ぶ際、女性の勤務先として都内の喫茶店の住所が書類に書き込まれていたが、じつはこの喫茶店は、カウディリョが私に「会いたい」といって指定してきた西日暮里駅近くの例のスナックだった。  一体、これはどういうことなのか?  私は、豊島区南池袋二丁目のあるマンションを訪ねた。ここは東京陸運事務所に登録されている車の所有者及び使用者の住所になっているところだ。  部屋は三階にあった。女性本人への取材は避け、住人から話を聞いてみた。 「歳は三十ちょっと前かしら。一緒に住んでる男の人が怖い感じの人で、夜になると、二人でどっかへ出掛けるのよ」  あれこれ手を尽くして男のほうを調べてみると、九州のあるネオン街に勢力を張る暴力団の現役組員であることがわかった。コロンビア・マフィアのカウディリョと九州の暴力団がどこでどうつながるのか、話はますますわからなくなった。  その日も、私はカウディリョを尾行していた。カウディリョは、歌舞伎町から徒歩で十五分ほどのところにあるマンションから出たあと、山手線で代々木公園、上野公園を回り、公園の近くでいくつかのイラン人グループと接触した。  いよいよカウディリョ本人を直撃しなければならない。その日は、声をかけるチャンスをずっとうかがっていたが、しかし、トラブルは最小限にとどめなければならなかった。  夕方になって、カウディリョはやっと新宿に戻った。新宿駅東口の改札口を出たところで、私は思い切って声をかけた。 「私のことを覚えている? 歌舞伎町のラブホテルでマレーシア人の女の子が、あなたを私に紹介してくれた。あなたは台湾やイランの仲間と一緒だった……」  突然、人混みの中で声をかけられたせいか、カウディリョは顔がこわばっていた。  ラブホテルで顔を合わせてからすでに二カ月以上経っていた。  相手は私の顔をまじまじ見詰めていた。そのうち右手を軽く上下に振りながら、「知ってる、知ってる」と何度も頷いた。 「あなたは西日暮里のスナックで私に会いたいと言っていたが、こちらから約束を破って申し訳なかった。ところで、あの時の用件というのは、何だったの?」  カウディリョは、周囲を気にしながら小声で答えた。 「ワタシのビジネス、アナタと一緒にしたいね。西日暮里で会いたかったのは、ワタシの仲間をアナタにたくさん紹介したいと思ったからだよ」  ラッシュアワーと重なって構内がごった返してきたので、私はカウディリョを東口のアルタ前広場に誘い出した。すぐ近くに東口交番があり、若い警官がこっちを向いて立っているのが見えた。 「コカインをたくさん売る」[#「「コカインをたくさん売る」」はゴシック体]  相手は背後に巨大な犯罪組織を持ったマフィアである。恐怖心がつのるが、もう後戻りはできない。声をかけた以上、心理的に巧妙に押え込んでおかないと、あとで取材になった時に切り込めなくなる。 「ホテルで会った時、あなたは腰にナイフを差していたけど、いまも持ってるの? あそこにもポリスがいるけど、日本ではナイフが見つかったら、あなたはすぐ逮捕されるよ」  交番の警察官を指差して、私はカウディリョに言い含めた。私のこの一言は、相当な効き目があった。  カウディリョは「今日は持ってない」と蚊の鳴くような声で言うと、顔色が変わった。口元がピクピク痙攣《けいれん》しているのがわかった。  カウディリョがタバコを吸おうとした。私はとっさにライターを差し出し、自分で火をつけさせた。 「このライターには、あなたの指紋が残っている。これをポリスに渡せば、あなたはすべて終わりだ」  指紋という言葉が理解できないようなので、私はジェスチャーも混じえてその意味を説明した。すると、カウディリョの顔から見る見る血の気が引いていくのがわかった。 「アナタはなぜ、そんなことを言うんだ? ワタシが嫌いか。ポリス、ポリスと言うけど、ワタシは、ポリスの話は聞きたくない」  眼は血走っている。私はカウディリョを落ちつかせるため歌舞伎町のスナックへ誘い、ここで初めて自分の職業と名前を明かした。  開店直後の店には、客はまだ一人もいなかった。冷静さが戻ったカウディリョが、私に訊いてきた。 「アナタとラブホテルで初めて会った時、ワタシと一緒にいた台湾とイランの男が言ってた。『あの日本人には気をつけろ』と。でも、ワタシはアナタに悪い気持ちはない。それで何が知りたいの?」  私は約一カ月半にわたる尾行の結果、知り得た一部始終を話した。その上で台湾マフィアやイラン人グループ、そして九州の暴力団との関係について訊いた。  カウディリョははっきりと通る声で答えた。 「みんなビジネスの仲間ね。コロンビア人だけでは、ビジネスはできない。ビジネス? それはアナタがよく知ってる。麻薬のビジネスね。  コロンビア人が一番仲良く付き合っているのは、イラン人ね。あの人たちは、コカインをたくさん売る。大久保にいるコロンビア人のストリートガール、彼女たちのボディガードはほとんどイラン人よ。台湾のマフィアは好きじゃない。部屋にコカインを一日隠すだけで、お金をたくさん欲しがる」  カウディリョはこの席で、自分はメデジン・カルテルの一員だとはっきり認めた。通算二年以上日本に住んでいて、大阪にも四カ月間住んだことがあるとも言った。 「話したら家族が殺される」[#「「話したら家族が殺される」」はゴシック体]  私は尾行を通して、カウディリョの周辺にボゴタ、サパタと呼ばれるコロンビア人がいることをつかんでいた。前者はコロンビアの首都サンタフェデボゴタと何か縁がありそうな名前である。後者は、メキシコ革命の小作農上がりの指導者で、一九一九年に軍に虐殺されたエミリアーノ・サパタの名前を思い起こさせた。  私は、カウディリョにボゴタとサパタの二人についても訊いてみた。 「ボゴタもサパタもワタシの仲間だ。でも、それは本当の名前じゃない。メデジン・カルテルの人間ではない。二人は日本に働きに来た。いい仕事がないから、ワタシの仕事を手伝っている。ワタシの名前? たくさんあるけど、いまはファビア・レストレポという名前を使っている。でも、この名前は、明日からは使わないよ。  パスポートの名前は話せない。カウディリョ? 仲間のコロンビア人とイラン人がそう呼んでいるだけだ。ワタシは、その名前が嫌いだ。カウディリョはボスのことをいうけど、ワタシはボスではない。ずっと下だ。本当のボスは、アナタも知っているだろう、パブロ・エスコバルだ。でも、ワタシはボスに会ったことはない」  メデジン・カルテルを率いるパブロ・エスコバルは、世界の麻薬王と呼ばれていた。コカインの密輸・密売で世界中から掻き集めた莫大な資金を武器に、本拠地のメデジン市内にサッカースタジアムまでつくって市民に開放していた。コロンビアでは、麻薬撲滅を叫ぶ人間は地位や職業を問わずことごとく暗殺されてきた。八九年八月に射殺された当時の大統領選候補者ルイス・ガラン上院議員もその一人だった。裏でその命令を下していたのが、エスコバルだった。しかし、九一年六月に自ら司法当局に出頭し、他の犯罪人とは隔離された特別な収容施設に収監された。ところが、翌九二年七月に脱獄すると、コロンビア政府から五十億ペソ、日本円に換算して八億円を越える懸賞金がかけられた。  尾行の末、私が歌舞伎町でカウディリョと接触したのは、九三年三月下旬のことである。それから九カ月後の同年十二月二日に、ボスのパブロ・エスコバルは、メデジン市内の隠れ家で軍の治安部隊に銃撃戦の末に射殺された。エスコバル射殺は、コカイン対策に手を焼いていた米国政府を大いに歓喜させた。クリントン大統領が、コロンビアのガビリア大統領に射殺を祝する外交電報を打ったほどである。  カウディリョは、そのメデジン・カルテルから、日本のコカイン市場を開拓するために密かに派遣された先兵役の一人だった。私は無理を承知でコカインの密輸方法や日本に潜っているメデジン・カルテルのメンバーの数についても訊ねたが、 「それを話したら、コロンビアにいる家族が殺される」  とカウディリョは口を固く閉ざした。意外だった。こちらはある程度の暴力沙汰は覚悟していたが、眼の前の男は逆にオドオドしていた。  私は質問を変えた。 「あなたは、車の中で九州から来てる暴力団の組員にコカインを渡した。私は渡したところを見てるし、組員の名前も住所も調べた。どこで知り合ったの?」  すると、カウディリョは電話番号が書いてある店のマッチを持って外へ出て行った。最近は使い捨てライターに押され、歌舞伎町でもマッチを置いている店は少なくなった。後を追おうとすると、店先に立ち止まって、携帯電話でどこかへ連絡を取り始めた。  しばらくすると、困った顔で店に戻ってきた。 「アナタがいま話してた男がここに来るよ。すごく怒ってた。アナタ、殴られるよ」  この時、カウディリョの言葉を聞いた店のマスターが、私に文句をつけてきた。 「騒ぎが起きると困るから、何か難しい話があるんだったら、場所を変えてほしいな。そろそろ他のお客さんが来るころだしね。去年はすぐ近くのスナックで、ヤクザの発砲事件があって、こっちはビクビクしてるんだから」  三、四十分後、店のドアが開き、当の組員が一人でのっそりと姿を現わした。背丈が私と同じく百八十センチぐらいある太った男で、その眼光は鋭かった。  私は組員に軽く挨拶してから、二人と共にすぐ店を出た。相手は口をへの字に結んで、肩を怒らせながら歩いている。相当苛立っているのが一見してわかった。  カウディリョも気まずそうな顔をしていた。コロンビアのマフィアは日本のヤクザなど怖がっていないと歌舞伎町で聞いていたが、この時は、まったく逆の印象を受けた。こういう時は、中途半端にものを言うと、逆効果になる。私はただ黙って歩いた。  相手も少しはまわりに気兼ねするだろうから、話をつける場所は逆に若い女の子がいる店がいいだろう、そう自分に言い聞かせ、私は二人には何の説明もせずに、あるランジェリー・パブにいきなり入った。  入口のボックス席に座り、私は向かい合った組員におおよその取材経過を説明した。それが終わってから、こんどは組員にカウディリョとの関係について訊いた。  カウディリョが隣りの組員に、「ワタシは、アナタとどうして知り合ったか、何も話してないよ」と言い訳がましいことを口に出した。  組員は、おもむろに口を開いた。押し殺したような声だった。 「ワシが、なんでアンタにそんなことを話す必要がある? コロンビアのマフィアだろうが、ワシが付き合っとる人間のことで、アンタにガタガタ言われる筋合いは何もない。  ワシからはっきり言うたるが、ワシはこのコロンビア人からコカインを買って、関係筋へ流しとるんや。これがワシのシノギよ。それで何か文句があるんか?」  店のホステスは、男の唸り声に恐れをなして席を立ってしまった。私がこの店を選んだ思惑はものの見事にはずれてしまった。  組員は、所属する組織の代紋を形どった金色のバッジをスーツの左襟元に付けていた。 バッジを裏返しにした組員[#「バッジを裏返しにした組員」はゴシック体]  以前、歌舞伎町に勢力を持つ何人もの組関係者が私に、 「よそから来た組員がバッジをしていたら、外させる。相手の出方次第では大事《おおごと》にもなる」  と口を揃えて言っていたのを思い出した。  歌舞伎町周辺には、以前から計十二代紋が組事務所を構えている。この中に山口組は含まれていないが、実際は、歌舞伎町にも山口組の組員はかなり出入りしている。しかし、山口組は、在京ヤクザ組織の懇親会である関東二十日会との間に暗黙の取り決めがあって、不動産業や金融業の看板で関係事務所を置くことはあっても、そこに組の代紋を掲げたり襟元にバッジを付けて出歩いたりすることは出来ないことになっている。  企業名が入っただけの名刺なら問題はないが、そこに所属組織の名称や代紋などを刷り込んだ名刺をまわりに配れば、それは�シマ荒らし�と見なされ、地元ヤクザが黙っていない。あくまでも関連企業の名のもとに経済活動に従事している形をとっている。  在京組織の組員が関西や他の地域へ行けば、これとまったく同じことをすることになる。それを考えると、九州を本拠地にしているヤクザが、歌舞伎町でバッジをひけらかすことなど普通は考えられないことである。  私はつとめて落ちつき払った口調で組員に言い返した。 「歌舞伎町には、地元のヤクザが何百、何千人といるんですよ。九州のヤクザが、ここでバッジを付けているのが相手側に知れたら、えらいことになるんじゃないですか」  組員は、私を威嚇する目的でバッジをつけてきたに違いない。しかし、私のこの一言で渋々バッジを裏返しにした。  ボリュームを一杯に上げたカラオケが店内に響き渡った。何ともいえない重苦しい雰囲気に包まれ、息が詰まりそうだった。間を持たせるため、互いに水割りを三、四杯ずつ飲んだ。その後、組員の希望で近くの喫茶店に場所を変えた。組員は、ここでは大声を出すことは一度もなかった。それどころか、私に対して弁解めいたことを並べ出した。 「ワシがこのコロンビア人と付き合っとるのは、あくまでワシ個人の問題だ。九州の組事務所とは何の関係もない。東京で麻薬を扱っているのが親分にバレたらワシは破門される。  九州に興行で来たコロンビア人のストリッパーを通して、この男と知り合った。ワシの彼女が部屋の名義人になったのも、この男に頼まれたからだ」  豊島区のマンションで女性と同居していたヤクザ風の男とは、やはりこの組員だったのだ。  部屋の賃貸契約を結ぶ際、西日暮里の例のスナックを女性の勤務先にした理由についても、「店の経営者夫婦とワシが親戚関係にあるからだ」と説明した。  組員とカウディリョの二人は互いに「調べられたことは仕方がない」と諦めたような口ぶりで私に言った。それから再び場所を変え、二時間ちかくグラスを交わしたが、私のほうから取材に関する話は一切持ち出さなかった。相手もあまり混み入った話には触れたがらなかった。組員はシノギの辛さをこぼし、カウディリョは日本の物価高を嘆いて、最後は互いに肩を並べるようにしてネオン街の奥へ消えていった。  後日談になるが、九三年七月に、このカウディリョの追跡記事が「週刊文春」に掲載されると、「コロンビア・マフィアの代理人」と称する男が編集部に連絡をとってきた。男は日本人で、「俺が代わりに詳しい話をするから、これ以上コロンビア人を追い掛け回すのは止めてほしい」と強い口調で言ってきた。私は男と新宿駅の近くで会う約束をし、待ち合わせの時刻だけが未調整だったので、その確認の連絡を待った。しかし、男からの連絡はついになかった。  九一年二月五日のことである。コカイン問題を取り上げたことがある在京の報道機関やコロンビアと縁のある企業など計十四法人に、コカイン実物約四グラムと「宣戦布告」と書かれた文書が郵送されてきた。封筒の消印は赤坂郵便局のもので、そこには、〈我が組織による麻薬戦争の開始をここに宣言する。交戦地域は、日本国及びアメリカ合衆国カリフォルニア州とする〉と書かれてあった。差出人は〈コケインコネクション LA RED BALL 代表 Shine Katsu〉となっていた。  その約九カ月前には、警視総監など一部警察関係者に、「処刑する」と暗殺をほのめかす内容の脅迫文も送られてきている。  この差出人と、私に連絡をとってきた「コロンビア・マフィアの代理人」との間には、何らかの関係があるのだろうか。  暴力団対策法が施行されたのは、九二年春のことである。施行前、各地の暴力団は、警察の取り締まりから組織を守るため、麻薬に関係している組員を破門という形で組織から切り離す手段に出た。「麻薬密売人Kが消えた」の章で触れた、台湾マフィアから覚醒剤を仕入れていた密売人Kも、そういった破門ヤクザの一人だった。  歌舞伎町から姿を消す前、Kは私に、 「組でシャブに手を出していたのは、俺だけじゃない。他にも何人もいたのに、追い出されたのは、俺を含めて二人だけだ。こんな馬鹿な話はねえよな」  といかにも悔しそうな顔で愚痴をこぼしていた。裏には組織内部の複雑な派閥、力関係がからんでいるようだったが、私はそこまではKに聞かなかった。いずれにせよ、Kの例でもわかるように、麻薬で一度甘い汁を吸った者は、たとえ組織から破門されても、そう簡単に麻薬から足を洗えるものでもない。  麻薬マフィアのカウディリョからコカインを仕入れていた眼の前の男は、Kとは違って現役のヤクザだった。暴力団対策法の施行後、地方都市で資金源を絶たれた組員が、新たなシノギを求めて都内に大勢入り込んで来ているが、中には、九州から流れて来たこのヤクザのように麻薬に手を染めている者もかなり多い。顧客さえ掴んでいれば、麻薬は確実に金になるからである。  皮肉なことに、資金源が枯渇して、こうしたヤクザが増えれば増えるほど、麻薬供給源としての外国人マフィアの日本への浸透力は増大するばかりだ。カウディリョも、台湾マフィアやイラン人、そして日本のヤクザを巻き込みながら、日本に着実に麻薬ネットワークを築きつつあった。  二人と別れたあとも私は歌舞伎町を徘徊した。中国人ホステスが男女関係のもつれから、ある日本人男性を襲撃するように中国系の不良に依頼したという情報を耳にしたからだった。 [#改ページ]  闇に潜む�殺し屋�の群れ  新宿区役所の近くで日本人の男が、刃物で喉元を切られる事件が起きた。男女関係のもつれから中国人ホステスが流氓を雇った犯行らしい──九三年の春先、歌舞伎町の客引きの間でこんな物騒な噂が流れた。しかし、客引きからはそれ以上の具体的な情報は何も得られず、その時点ではよくある噂話の一つに過ぎなかった。  日本人は普通、腹や背中を刺しても、いきなり喉元に切りつけるようなことはしない。だから私はこの噂が気になって頭から離れなかった。新宿区役所周辺で早速、聞き込みを始めたが、事件に結びつくような手がかりがつかめないまま、時間だけが過ぎた。  新宿消防署の大久保出張所には、歌舞伎町界隈から年に千数百回救急車の出動要請がある。だが、その時期に、喉元を切られたという事件で、救急車が出動した形跡はなかった。所轄の新宿署にも、それらしい通報は入っていない。歌舞伎町には、当事者間で隠密に処理されたり、被害者の事情により、警察沙汰になっていない事件がいくらでもころがっている。私は手当たり次第聞き込みに回った。  噂を耳にしてから五日目の夕方だった。ウイスキーの水割りなどに使う業務用アイスの卸し業者に話をぶつけると、有力な情報を耳うちされた。 「まだ明るかったから気がついたんだけど、一週間ぐらい前、あるスナックに氷の配達に行ったら、入口のドアの近くに点々と醤油をこぼしたような跡があった。ありゃ、おそらく血の跡だよ」  私はスナックの店名と場所を教えてもらい、現場へ向かった。その店は、新宿区役所からほど近いある中層ビルの一階にあり、入口が路地に面していた。すでに薄暗くなっていたので、私はライターの炎で路面を照らしてみた。すると、醤油をこぼしたような跡が確かに残っていた。その場所をライターの火で炙《あぶ》ると、かすかに異臭が漂ってくるような気がした。  これまでの殺人事件の取材経験から、私にはそれが人間の血痕であることが容易に想像できた。特に舗装面に飛散した血痕は、大雨で洗われない限り、何カ月も消えることがない。腰をかがめてライターで照らしてよく見ると、血痕はスナックのドアの真下まで点々と続いていた。  その時である。背後からドスのきいた低い声が聞こえてきた。 「さっきから見てたんだけど、あんた、ここで何してるんだ、まさか、うちの店に放火する気じゃねぇだろうな」  振り向くと、怖い形相をした男が立っていた。 「いやぁ、人間の血を探しているんです」  相手の気勢を削《そ》ぐため、わざと大袈裟な言い方をすると、男は一瞬、首を傾《かし》げた。ちょっと間を置いてから、「ああ、あの事件の……」と言ったきり、言葉を呑み込んでしまった。 喉を切られた日本人の素性[#「喉を切られた日本人の素性」はゴシック体]  男はスナックの経営者兼マスターだった。私は率直にマスターに事情を説明して、取材協力を求めた。マスターはしばらく考えた末、「客のことはあまり話したくないんだが」と言いながら、私を店内に入れてくれた。開店までの一時間ちかく、あれこれ質問をぶつけながら、私はマスターの話に耳を傾けていた。 「夜の十時過ぎだったかな、日本人の客が、いつも一緒に来る中国人の女の子を連れて現われた。二人は三カ月ぐらい前からうちの店に十回ちかく来てるが、その日は最初から様子が変だった。二人とも険しい顔をしてたからね。  二、三十分後には、ボックス席で言い争いが始まった。女のほうがだんだん興奮してきて声が大きくなり、『アナタ、汚ない男ネ。ウソツキ!』とかなり怒ってる様子だった。そのうち男が『帰れ!』と怒鳴ると、女の子は駆け出すようにして店から出て行ってしまった」  日本人の男は、三十代後半のサラリーマン風。中国人の女性はショートカットのスラリとした美人で、年の頃は二十七、八歳だったという。マスターの目には、よくある痴話喧嘩と映った。しかし、三十分後には、女性からの恐ろしい反撃が待ち構えていた。 「中国人の女の子がいなくなったあと、男は一人で水割りを二、三杯飲んで帰った。ところが、いま店を出たばかりの男が、首を両手で押えながら、ドアに体当たりするようにして店に戻って来た。喉元から血を流し、スーツ、ワイシャツは胸のあたりが真っ赤だった。『どうしたんだ?』と訊《き》くと、『店を出て、コートをひっかけようとしたら、前から来た男が何も言わずにいきなり切りつけてきた。あの女の仕業だ』と言った。声が震えていたよ。  出血がひどいんで、救急車を呼ぼうとしたら、『大丈夫だ』と言う。警察を呼ぼうとしても、『勤め先や家庭のことまで、根掘り葉掘り事情を聴取されるから嫌だ』と断わってきた。  うちのママとホステス、カウンターにいた三、四人の客が全員、ハンカチを出した。どれも血だらけになって、最後はオシボリを喉元に当てたぐらいだ。傷の大きさは、横に六、七センチ、深さはそれほどでもなかった。でも、体がちょっとでも前に動いていたら、喉笛を切断されていたかもしれないな」  喉を切られたその男は、オシボリを当てがった喉元をコートの襟で隠し、タクシーで帰っていった。以来、男はこのスナックに一度も現われていない。  それまでのマスターと男の会話内容にヒントを得て、素性を調べてみると、男は都内の中堅不動産会社に勤める三十八歳の課長代理だった。東京近郊に建売住宅を購入して妻子もいた。 ホステスの恥ずかしい写真[#「ホステスの恥ずかしい写真」はゴシック体]  この男と電話で連絡をとると、「なんでも話すけど、歌舞伎町で会うのだけは嫌だ」と言うので、結局、秋葉原の喫茶店で会うことになった。  男はガッシリした長身のスポーツマンタイプだったが、心なしかオドオドしているように見えた。喉元には刃物傷がまだ生々しく残っていた。 「殺されずに済んで、ホッとしてる。あの時は、夜が明けても血が止まらないので、病院へ行って五針縫った。こんなことになったのも俺の女好きが原因でね。冗談半分に、まだ独身だから結婚しようと言ったら、彼女が真に受けた。そのうち、別の店の台湾人ホステスと付き合うようになって、それが彼女にバレた。すべて俺が悪いんだ。  でも、彼女がまさか殺し屋を送ってくるとは……。彼女は夜中の一時まで台湾クラブで働き、週に二回は、別のクラブで働いている。俺を襲った男は、おおよその見当はついているんだ」  そこまで話すと、男はポケットから、ハンカチにくるまれたナイフを取り出した。それはどこの金物屋にもある切り出しナイフだが、刃先は鋭く光っていた。 「喉を切られた瞬間、とっさに腕をはらったら、相手がナイフを落とした。これは、その時のナイフなんだ。相手がナイフを落とさなかったら、こっちの身はどうなっていたかわからない。当分、歌舞伎町には行かない。もうこりごりだよ」  数日後、今度は中国人の女性を勤め先の台湾クラブに訪ねた。真っ白いチャイナドレスに身を包んだ彼女は、店で一番の美人だった。小声で男のことについて訊ねると、一瞬、顔がゆがんだ。そして開口一番、「汚ない男」という言葉が口を衝《つ》いて出た。 「あの人がワタシに言ったことは、何もかもウソ。結婚の話もウソ。きれいなマンションを借りてやると言ったのもウソ。ワタシが文句を言うと、汚ない方法を使う。店の女の子にワタシのことを、『あの子はエイズだ。セックスが食事よりも好きだ』とウソを言う。ワタシたち中国人はプライドが高いから、こういった悪口は一番の侮辱です。ものすごく心が傷つきます」  閉店を待って私は彼女を食事に誘い、話の続きを聞いた。すると、彼女の口から予想もしなかった話が飛び出してきた。 「あの人は、ワタシの恥ずかしい写真を持ってるんです。むりやり写真に撮られた。ワタシが知ってる台湾クラブへ行って、それをマネージャーに見せたりするんです。あの人は、殺されてもいい日本人です」  ここまで話すと、頬に涙が伝ってきた。根は素直そうな女性だった。  彼女は九〇年一月、就学ビザで上海から来日した。日本語学校に二年通い、いったん帰国したが、間もなく留学ビザを取得して再び来日。現在は都内にある服飾関係の専門学校に通っている。  彼女のような中国人就学・留学生が急増した背景には、じつは、中曽根康弘元首相の�鶴の一声�があった。日中国交正常化十周年を記念して、八三年十一月に胡耀邦総書記が来日、翌八四年三月には中曽根首相が訪中した。この二度にわたる首脳会談の中で、元首相は「世界の模範となる国家間協力」を提唱し、「中国から十万人の留学生を受け入れる」と発表したのである。  彼女は、日本に来た最初の一年間は、時給七百円で喫茶店で働いたが、その後はずっとホステスで生活費と授業料を稼いできた。 「あなたがスナックを出たあと、彼が何者かにナイフで首を切られて大ケガをした。そうさせたのは、あなたではないか?」  私がズバリそう切り込むと、ホステスは「知りません」の一点張りだった。顔の筋肉がピクピク震え、しばらく押し黙っていた。やがて自分から口を開いた。 「一週間、考えさせてください。同じ中国人で相談したい人がいます。相談がうまくいったら、ワタシは何でもアナタに話します。アナタが興味を持ってる流氓を紹介できるかもしれない」  ホステスと別れたのは、夜中の二時過ぎだった。一緒に住んでいる上海出身の友達がまだ他のクラブで働いていた。「これから店を訪ねる」と言って、彼女は別の路地へ向っていった。 タイ人が売る�商品�の威力[#「タイ人が売る�商品�の威力」はゴシック体]  それから歌舞伎町二丁目をブラブラと歩いていると、怪し気な光景にぶつかった。若い東南アジア系の男が、街娼が並ぶ路地を自転車で走り回り、何かを売り歩いていた。しばらく観察していると、客はなぜか、街娼ばかりだった。顔見知りの街娼を見つけて、そっと話を聞いてみた。男はタイ人で、�商品�はなんと睡眠薬だった。 「ワタシの仕事、とても疲れるよ。だからよく眠るためにクスリがないとダメね。値段? いくつも種類あるから、値段はみんな違う。ひとつ二百円、五百円、千円、二千円、いろいろあるね。強いクスリもあるよ。コンドーム使わない人、セックスしつこい人、嫌いなお客さんとホテルに泊まる時は、そのクスリで眠らせる。わからないように、ビールと一緒に飲ませる。昼まで眠ったままね。オチンチンをダメにするクスリもあるね」  昏睡強盗に使われる強力睡眠薬も、ここ歌舞伎町では簡単に手に入る。ホテルでシャワーを浴びている隙にビールにクスリが混入され、ベッド・インの直前にバタンキューとなる代物である。気がついた時には、女性の姿は消えて身ぐるみ剥がされている。大体は、室内電話に応答がないことを不審に思ったホテル側が、マスターキーで部屋を開けて被害者を発見する。しかし、被害者は、世間体と売春防止法違反に問われることを気にして、警察に届けるようなことはめったにしない。  実物を見ると、黄色の大と小の錠剤二個ずつ、大き目の白いのが二個、小さいのが四個、他に小さなピンク色が二個。これらを粉末状にして一度に飲まされるのだから、たまったものではない。ある人物にクスリの効き目を聞くと、怖い体験談を披露してくれた。 「一度飲んだら、丸一日ぐっすり眠ったままだ。蹴飛ばされようが何されようが、まったく気がつかない。中型犬に飲ませると、二日以上ピクリともしない。俺が実験してみたんだから、間違いない。心臓の弱い人が飲んだら、ショックで死ぬこともある」  昏睡強盗に使われるクスリは、一種類だけではない。クスリを扱う組織によって、錠剤の組み合わせ方が異なり、歌舞伎町周辺には数種類が出回っている。この中には、日本の製薬会社や医療機関から流出したと思われる向精神薬なども含まれている。気になるクスリの成分だが、すべてに共通して含まれているのが、『ハルシオン』の商品名で知られる向精神薬トリアゾラムである。これは本来は不眠症の治療薬で、健康人なら一錠で寝込んでしまう。医師の処方に従って服用する分には問題はないが、酒と併用すると、妄想や幻覚症状に襲われることもある。  さらに他の成分を調べると、逆に妄想や幻覚を抑える働きのあるハロペリドール、それに加えて、催眠・鎮静剤の効力を増強する作用もあるクロルプロマジンなどの抗精神病薬も含まれていた。この二つには眠気や体のだるさを起こす副作用がある。他に劇薬指定のフェノバルビタールを含む催眠・鎮静剤も含まれ、薬物専門家によると、これは先のハロペリドールやクロルプロマジンの薬効をさらに増大させる働きもするという。  聞くだけでも脳天が痛くなりそうなクスリだが、こんな薬の相互作用を利用した調薬などマフィアが独自でできるわけはないから、裏に必ず医師や薬剤師など医薬品に詳しい人物がついていることだけは確かだろう。実はこのクスリは、昏睡強盗だけではなく、別の目的でも密かに使われている。次は、三十代のあるシャブ中(覚醒剤中毒者)男性の話である。 「シャブ中なら誰でも使ってるわけじゃねえけど、このクスリには俺は非常に世話になってるね。俺がシャブをやるときは、一グラムを一回で打っちゃう。これは普通なら四、五回分の量だよ。一緒に住んでる子もシャブ中なんで、特にセックスの前は、どうしてもシャブが欲しくなる。すると、ドッキングした状態が三日も四日も続き、時間の感覚がまったく無くなるんだ。疲れた感じもしねえし、眠気も起きない。逆に目がさえてきて、体じゅうが敏感になってくる。  カレンダーを見て後でわかったが、六日間も彼女と重なったままでいたことがあった。自分でも狂っているのがわかるよ。だが、今はそんなことはない。シャブをやっても、二日か三日目にこのクスリを飲むと、ぐっすり眠れるんだ。こいつはシャブまで負かす凄いクスリなんだ」  歌舞伎町では、通りを歩いている金のありそうな客をキャッチガールを使って物色し、店でこれと同種のクスリを飲ませて、「マグロ」にしてしまうケースがよくある。「マグロ」とは、完全に意識を失った人間のことで、客は金やカード類をすべて奪われた挙げ句、近くの路上に冷凍マグロのごとく放置されるのだ。クスリの副作用で記憶障害を起こすこともあるので、後で被害を受けた店を突き止めることは容易なことではない。  じつを言うと、私も歌舞伎町で一度だけ危うく「マグロ」にされそうになったことがある。取材を始めてまだ一カ月と経っていなかった。区役所通りを歩いていると、客引きの男にしつこく言い寄られ、私は近くのビルの一階にあるスナックへ誘われた。そのしつこさは、こちらも感心するほどだった。客引きの誘いに乗って得体の知れない店へ入るのも、私にとっては、情報収集の一環だ。店には若い男子従業員が二人とホステスが四、五人いたが、言葉遣いや会話の内容からして、いずれも日本人であることは間違いなかった。  ウイスキーの水割りを飲みながら小一時間経った頃、ホステスの一人が「サービスよ」と言って、冷や酒の入ったグラスを私に運んで来た。私はその前に、自分が日本酒好きであることを口にしていたので、店側のサービスに特に不審も抱かなかった。グラスに口をつけてわかったが、縁には丁寧に塩が塗られていた。枡酒に塩はごく当たり前のことである。また、グラスの縁に塩を塗って日本酒を飲む人がいないわけではない。しかし、この時は、店内の雰囲気からして、それは何とも過剰サービスに思えた。  グラスを静かに傾けると、こんどは舌先に微妙な苦味を感じた。私はとっさに店側の魂胆を察知して、グラスを口から離した。 「誰でもいい、こいつを全部飲んだら、ここで十万円出したっていいよ」  腹立ちまぎれに私がそう言うと、まわりはただ顔を見合わせるばかりで、こちらが差し出したグラスに手を伸ばす者は一人もいなかった。私は先の長い取材に入っていることを考え、歌舞伎町では揉め事は極力避けようと心に決めていたので、それからも水割りを二、三杯飲み、店内の険悪な空気を解《ほぐ》してから店を引き揚げた。悪質なボッタクリの店にしては、請求された代金は二万円ちょうどで、これには私のほうが拍子抜けしてしまった。  暫く経ってから、その店で働いていたホステスの一人と別の店で顔を合わせる機会があったので話を聞くと、グラスの縁の塩は、客の舌を騙してクスリの苦味を消すための小細工だった、と白状した。日本酒以外の酒を出す場合は、塩の代わりにレモン汁などをやはりグラスの縁に塗るという。これで大半の酔っぱらいは引っ掛かるが、最も確実な方法は、客がトイレに立った隙に、飲みかけのグラスを別のクスリを混入させたグラスと交換してしまうことだ。客の中には一瞬、怪訝な顔をする者もいるが、酒の種類がそれまでと同じなので、飲み干すまでにそう時間はかからないという。  この話を聞いてから私は、歌舞伎町で初めての店へ自分一人で入るときは、眼の前で注がれた酒しか飲まないことに決めた。また、ボトルにクスリを混入される恐れもあるので、店ではいつも周囲に同じ酒を勧めながら相手の顔色を窺った。  この危険きわまりないクスリを海外から大量に持ち込んでくるのは、マフィアに連なる香港人や台湾人、タイ人などである。日本の暴力団関係者もからんでいる。自転車で売り歩いているタイ人はあくまでも連中の手先に過ぎない。タイ人の立場は、台湾マフィアやコロンビア・マフィアの下で麻薬を売り歩いているイラン人と似ている。  タイ人の裏社会に精通しているある人物に聞くと、意外な実態を教えてくれた。 「歌舞伎町には、台湾マフィアの秘密の賭場がいくつかあるけど、そこで見張り役をやってるのはまずタイ人です。それも、むこうでは大して名前は売れてないが、現役のボクサーが多い。理由は、興行ビザで簡単に日本に来られるからだ。台湾のマフィアは、麻雀賭博の他に、歌舞伎町でトランプ博打の賭場も開いている。トランプ博打は、ブラックジャックとポーカーを組み合わせたようなやつで、客はタイ人のホステスや売春婦が多い。賭場の入口には監視カメラがあって、馴染みの客と一緒か、見張り役のタイ人の偽名をきちんと言わなければ、ドアはまず開かないよ。偽名は暗号というわけです。  タイ人が台湾マフィアに接近したのは、日本のヤクザから自分たちを守ってもらうためです。タイ人ホステスの斡旋で、タイ人ブローカーとヤクザとの間に金銭上のトラブルが起きた場合、すべての処理を台湾マフィアにまかせるんだ。  一方でタイ人は、人をすぐ殺してしまうと言って、台湾マフィアをものすごく恐れている。タイ人が、台湾マフィアの次に怖がっているのは、中国系ベトナム人。連中は、陸路でタイに密入国して、タイ国籍の偽造パスポートを手に入れてから、日本に来る。タイ人と同じように連中も、台湾マフィアの手先になってるよ」  歌舞伎町に出入りしている不良ベトナム人の中には、ごく少数ではあるが、ボートピープルとして日本に来た定住難民も含まれている。ベトナムに一時帰国した際、アヘンやマリファナを持ち帰ってくる者もいる。  歌舞伎町から街娼が引き揚げるのは、朝五時ごろである。職安通りに立ってその様子を見ていると、ほとんどが大久保方面へ消えていく。中には最後のカモを捕まえようと、職安通りに面した鬼王通派出所の真ん前で、空が白むころまで堂々と通行人に声をかけている者もいる。さすがにこの時間帯になると、街娼も売春代を半額まで下げてくる。彼女たちが通りに立つまでの経緯を思うと、そうした切羽つまった気持ちが理解できないわけではなかった。  それにしても、警官は、不良外国人や街娼にとって恐るるに足りぬ存在なのかもしれない。  私はある日、制服警官二人が、歌舞伎町二丁目にある鬼王神社の近くで、数人のイラン人に取り囲まれ、小突き回された挙げ句、通りがかったヤクザたちに助けを求めた場面に出食わしたことがある。  あとで警官を助けたヤクザに接触すると、中の一人は苦笑いを浮かべながらこう語った。 「オマワリを助けるために不良イラン人を叩きのめすと、警察は暴力行為を見逃すわけにはいかないと言うんだな。頼まれて助けたのに、そんなことで逮捕されたらかなわんよ。  じゃ、どうすればいいんだと訊くと、こっちが知らんぷりしてる間に、うまく逃げろと言う。シャブの密売人を捕まえてヤキを入れても、こっちは逮捕される。たとえ密売人でも、暴力行為はダメだとなる。だからこっちも密売人を見つけても、もう何もしないよ。密売人を捕まえるのは警察の仕事なんだが、実際には密売人は増える一方だ」  歌舞伎町周辺は、マフィアや不良外国人の暗躍によって治安が極度に悪化している。拳銃や麻薬は野放しも同然で、新宿署の警官も防弾チョッキを着用しないと、パトロールに出掛けられないほどだ。  警視庁が、刑事、防犯、公安部などを動員して、歌舞伎町の環境浄化に乗り出したのは、九四年九月二日からである。その二日前の八月三十一日深夜のことだが、大久保一丁目の路上で、イラン人に職務質問しようとした警官三人のうち一人が、逆に相手に拳銃を奪われて発砲される事件が起きた。幸い弾は逸《そ》れて民家の塀や花壇などに当たったが、大事になる一歩手前だった。逮捕されたイラン人は、約四十グラムの大麻樹脂を所持していたが、こんなことは歌舞伎町周辺ではごくありふれたことだ。  この事件が起きる一年数カ月も前のことである。試しに私は、歌舞伎町にたむろしていたイラン人の一人に、「マリファナある?」と声をかけたことがある。イラン人はビルの陰に私を誘い、ズボンの裾をたくし上げた。すると、靴下の内側にビニール袋に入った麻薬がぎっしり詰まっていた。拳銃やナイフを足首に隠し持っている者さえいた。 「テレホンカードある?」  別のイラン人に声をかけると、やはり靴下の内側にゴム輪で束ねたテレホンカードを二百何十枚もはさみ込んでいた。  裏を見ると、細長い金色の特殊磁気テープが使用済みカードのパンチ穴を完全に塞ぐ形で貼り付けてあった。いずれも変造された105度のテレホンカードだった。これらのカードは不良イラン人が一部の暴力団と組んで日本国内で変造し、一枚百円で売っていた。  NTTはそういった偽造テレカの使用を不能にするための対抗策として、九三年から全国にある七十万台以上の公衆電話を新機種に交換する作業を始めた。しかし、これもイタチごっこで、作業開始から二カ月も経たないうちに、新機種にも使用可能な新変造カードが出回り、こちらは一枚二百円で密売されている。変造するイラン人側は逆に使用済みカードの調達に困るほどで、そこに目をつけたのが都内のさる暴力団組員だ。組員は、新宿駅周辺に寝泊まりしている浮浪者が集めた使用済みカードを一枚十五円で買い取り、それをイラン人に三十五円ないし四十円で転売していた。  業を煮やしたNTTは、また新たな対抗措置を考え出し、九四年七月から、いったん差し込まれた変造カードは返却できないように公衆電話の改造を始めた。しかし、それも都内の主だった場所だけだから、イラン人の変造密売組織にとっては、大した打撃にならないのではないか。公衆電話の改造費用を含めて、これまでNTTが被った損害は莫大なものだろう。  東京ドームの約七・五倍の広さしかない歌舞伎町には毎日、二十数万人もの人間がまるで磁石にでも吸い寄せられるように集まってくる。飲食店の数も、新宿区役所やコマ劇場がある一丁目が約千五百軒。職安通りに面し、ラブホテルが密集している二丁目が約二千五百軒。だが、これはあくまで新宿保健所から営業許可を受けている店に限られている。  実は、営業許可をとっていないモグリの店がこの他におよそ六百軒もある。深夜一時に閉店した店を第三者が借りて朝まで違法に営業しているケースも多い。  ひとつの店を二人の経営者で最大限に利用するこのやり方には、当然、双方の間に細かい決め事がある。店の本来のオーナーは、家賃の六割と店全体の水道・光熱費の半分を負担するが、これで営業外の空き時間を使って家賃を四割も軽減できる。一方、夜中一時から店を始める別の経営者にとっては、権利金や保証金のことで頭を悩ます必要もなく、家賃の四割を受け持つだけで簡単に自分の店を開けるのだ。店の後片付けと掃除は義務づけられているが、厨房や食器類はそのまま使えるし、それはそれなりに合理性を備えている。家賃の負担比率に若干の違いがあっても、どの店もほぼ似たようなものである。店を借りる際は、日本人の名前を借りているが、実際の経営者は中国人や台湾人、韓国人が多い。歌舞伎町二丁目に限っていえば、経営者もホステスも日本人の店は二割程度に過ぎない。  日本人の男に裸の写真を撮られた先の中国人ホステスも、台湾クラブの勤めを終えたあと、週に二回はこうしたモグリの店で働いていた。 「三十万円出せば人を殺す」[#「「三十万円出せば人を殺す」」はゴシック体]  私は約束した通り、一週間後にホステスに連絡をとった。 「アナタにだいたいのことは話します。でも、一つだけ条件があります。あの人から、ワタシの裸を撮った写真を取り返してほしい。フィルムも取り返してほしい」  最初は口ごもっていたが、そのうちホステスは電話の向こうから懇願するように訴えてきた。取材の条件とはいえ、そんな立ち入ったことまで引き受けてもいいものかどうか、私は迷った。しかし、襲撃事件の真相はどうしても知っておきたかった。  私は�写真は取り戻してやりたいが、そのために会社員に無理強いするのはやめよう�と心に決め、早速、喉を切られた男に電話を入れた。男とは秋葉原の喫茶店で一度会ったことがあった。こちらが事情を話すと、男は「わかりました」と私の要求をあっさり受け入れた。  問題の写真はその日の夜十時過ぎに、私の手元に入った。私がそのことをホステスに電話で伝えると、彼女は、「アリガトウ」という言葉を何度も繰り返して、素直に喜んだ。  ホステスとは三時間後の深夜一時過ぎに、歌舞伎町のとあるクラブで会うことになった。彼女が指定したその店は、彼女が週に二回働いているモグリの店だった。  約束の時間に店に行くと、客の姿はなく、ホステスは彼女を含めて三人だけだった。彼女以外の二人も上海出身の就学、留学生ホステスだ。私は問題の写真を入れた封筒をさりげなく彼女に渡した。他のホステス二人は中身を現金と勘違いしたのか、「ワタシも欲しいわァ」と両手を差し出してきた。 「ちょっと、アナタ。こっちに来て」  隅っこのボックスに呼ばれ、私はホステスと一対一で向かい合った。ホステスは問わず語りに話を始めた。 「あの人は、ワタシにひどいことをした。だからワタシはある中国人に十万円出して、あの人を切るように頼んだ。でも、殺してほしいと頼んだことはありません。中国人にとって、十万円は大金。中国では一年働いても、そんな金は手に入りません。歌舞伎町で働いている子で、中国へたくさんお金送っている人もいます。郵便局からは一度に五万円しか送れない。でも、東京駅の近くにある中国銀行(本店・北京市)からは百万円まで送れます。ワタシには夢みたいな話ですけど。  あの人をナイフで切った人は、ワタシの知り合いね。同じ上海出身で、四年前に就学生ビザで日本に来ました。いまは黒戸口《ヘイフーコウ》。ビザの切れた不法滞在者を中国語でそう呼んでます。でも、今は別の名前を持ってます。台湾人から、百十万円で偽造パスポートを買い、シンガポール人になってる」  ホステスはアルコール類は一切口にせず、ジュースばかり飲んでいた。そうこうしているうちに、二人の男が店に入って来た。客かと思ったが、ホステスの説明では、二人とも中国人の従業員だった。 「二人は、いろんな仕事やってる。店の掃除、皿洗い、悪い酔っぱらいが入って来たら、追い出す仕事もやります。今日のように台湾人のマネージャーが休みの時は、何があるかわからないから、店を離れません。同じ中国の人が、強盗に来ることもありますから」  ホステスが、入口近くの補助椅子に座っていた二人の男をこちらのボックスに呼んだ。  服装を見る限りでは、日本の若者と何ら変わりはない。年齢二十五、六歳。一人はポッチャリした童顔、もう一人は逆に頬がこけて年齢よりも老けて見えた。視線がキョロキョロ動き、二人ともまったく落ち着きがない。ビールを勧めると、その度に一気飲みした。ホステスはまず、童顔のほうを私に紹介した。 「ワタシが頼んであの人を襲ったのは、この人です。十万円で人は殺しません。でも、アナタが三十万円出せば、この人は本当に人を殺しますよ。殺したあとで、いつでもシンガポールに逃げられますから」  ホステスの顔は笑っていたが、話は冗談ではなかった。 「日本で人を襲ったのは、彼女に頼まれた一回だけなの?」  私が訊ねると、男は「もっとある」と答えた。あまりにも率直な答え方だったので、逆に私は気味悪さを感じた。 「去年、池袋で喧嘩して、同じ上海から来た不良を刺したことがあるよ。胸を刺した。でも、死ななかった。ワタシも腕を切られた。左腕の傷がそうだよ。病院に行けないから、つらいね。警察に捕まったら、強制送還。中国は仕事もない、おカネも入らない。だから、帰りたくないね。殺し屋? ワタシ、殺し屋じゃないよ。でも、おカネ出すなら、本当に殺《や》る。彼はワタシの半分のカネで人を殺すよ」  童顔の方はそう言うと、不気味な薄笑いを浮かべた。隣りの頬がこけた男は、福建省の省都福州市の出身だった。話を聞くと、男は就学生や留学生ではなく、なんと密航者だった。 闇の中で牙を隠すはぐれ者[#「闇の中で牙を隠すはぐれ者」はゴシック体]  男は、中国人の密航ブローカーに日本円にして約二百二十万円の手数料を渡し、九〇年秋に東シナ海に面した福建省の馬尾《マーウエイ》港から中国の漁船で密出国したと語った。男の話では、若い女性二人を含めて約二十人の密航仲間がいたが、皆初めて見る顔だった。日本へ向かう海上で台湾の漁船に乗り移り、その後暗闇にまぎれて石垣島に上陸した。  石垣島ルートでの密航者が初めて当局によって確認されたのは、九三年五月だった。だが、この男はその三年も前に、同じ石垣島ルートで日本に密入国していた。  島で待ち構えていた台湾人と称する男から、石垣空港へ向かう途中で航空券を渡された。航空券には自分とはまったく違う名前が記入されていた。北京語でこう注意された。 「皆、台湾から来た観光客ということにする。飛行場でも飛行機の中でも余計なことは何も喋《しやべ》るな。日本人と顔を合わせたら、頭を少し下げてニコニコしていろ」  密航者一行は、自称台湾人と一緒に石垣空港から那覇、大阪経由で成田に到着。空港から小型バスで埼玉県の川口市内に向かった。男はそこで雇用主の日本人に引き合わされた。そして他の中国人とは別れ、雇用主の運転する車でその日のうちに栃木県宇都宮市へたどり着いた。 「朝から夜遅くまで、食べ物と油で汚れた機械を磨いていたね。汚ない仕事で嫌だったけど、真面目に働いたよ。アパートの金は社長が払って、給料は十三万円だった。日本に着いてから一カ月ぐらいして、台湾人からシンガポールのパスポートを渡された」  会社名は教えてくれなかったが、話の内容から小さな食品加工場らしい。が、半年働いても給料は一円も上がらず、社長の約束違反に腹を立てて東京に逃げて来たと、男は説明した。  その後、どんなツテを頼って男が歌舞伎町に流れて来たのか。その点については、男は「わかりませんね」ととぼけて連れの男と顔を見合わせた。どうにかここまで話すと、男は日本人の私に恨みでもあるかのような怖い顔をして呟いた。 「……昼も夜も働いているけど、二十二万円しか稼げない。おカネたくさん欲しいから、強盗でも人を殺すことでも、何でもするかもしれない」  私はもっと話を続けたかったが、紹介してくれたホステスから「別の日にしましょう」と横槍が入ったので、仕方なく引き下がった。私が歌舞伎町で取材を始めて以来、自ら密航者であることを認めた中国人と会ったのは、この時が初めてだった。一週間後、私はさらに詳しい話を聞きたいと思い、店を訪ねたが、男たちには二度と会えなかった。店側もホステスも、「歌舞伎町の別の店に移った」というだけで、それ以上は何も教えてくれなかった。  未だにその実態が解明されていない密航組織の手によって、まんまと密入国を果たす者は現在も跡を絶たない。しかも、密入国者は旅券不携帯で運悪く現行犯逮捕されない限り、足跡を追うことは不可能に近い。  密入国者は、日本では幽霊のような存在である。犯罪に手を染める者にすれば、これほど好都合なことはない。彼らの多くは特定のマフィア組織に属していないはぐれ者だが、その分タチが悪い。  私は歌舞伎町のあちこちで、 「十万円なら軽傷、二十万円から三十万円なら重傷。五十万円出したら、何の証拠も残さずに人を殺す」  という聞き捨てならない話も幾度となく耳にした。  金のためなら殺人も厭わない──実際に、そういった話を裏付けるような事件も起きている。九四年三月、滋賀県警は、同県八日市市で起きた金融業者殺しの容疑者として、元暴力団組員を含む計四人の強盗殺人グループを逮捕した。ところが、逮捕者の一部が、東京、群馬、静岡の三都県で起きた強盗殺人事件などへの関与も認めたため、警察庁は広域121号事件に指定して、同年七月までにさらに現役の暴力団組長二人を共犯容疑で逮捕した。拳銃、刃物を使う手口はいずれも同じで、金や貴金属を奪うためにつぎつぎ殺人を犯していたのである。  じつは、このグループの中に、黄奕善《ホアンイーシヤン》という金で雇われた二十五歳の殺し屋が含まれていたのだ。黄は、マレーシア国籍を持つ中国人で、先の密航中国人のように都内の飲食店で働いていた時期もあった。当然、歌舞伎町にも出入りしていて、中国、台湾人の間では、「すぐナイフを振り回す男」として恐れられた存在だった。誰が命名したのか、「佐藤一郎」の日本名を使い、歌舞伎町の一部の組関係者からは、「殺しの一郎」とも呼ばれていた。私は、取材を始めた当初から、食い詰めた不法残留者が犯罪のために金で雇われることを危惧してきたが、それはついに現実のものとなってしまった。  歌舞伎町のネオン街の闇の中には、一攫千金を夢見ながら身を隠している殺し屋予備軍が、いくらでも潜んでいる。 [#改ページ]  日本で拳銃を密売する謎の中国人  歌舞伎町で潜入取材を始めて間もなく、私はある組関係者から、にわかには信じ難い話を聞かされた。日本で出回っている中国製トカレフ拳銃の密輸や密売に「現役の中国人外交官がからんでいる」という内容だった。  トカレフは、もともと旧ソ連軍の制式拳銃である。それが一九五一年の採用廃止に伴って大量の在庫を中国に売却、五四年からはライセンス生産が中国で始まった。それが五四年式、すなわち中国製トカレフだ。  弾は標的に当たっても弾頭がつぶれない完全被甲弾《フルメタル・ジヤケツト》。銃口初速は秒速四百三十メートルと他の拳銃と比べものにならないほど高速である。そのため貫通能力が高く、一メートルの距離から分厚い電話帳を軽く二冊はぶち抜く威力がある。日本の闇市場に流れている拳銃で、警察の防弾チョッキでも貫通してしまうのは、このトカレフだけだ。  私が「信じられない話だ」と言うと、それに反発するかのように組関係者は話を続けた。 「トカレフは、日本の税関が口出しできない外交|行嚢《こうのう》と一緒に中国民航機(現在は中国国際航空に名称変更)で運ばれ、一つの木箱に六十丁入ってる。それが何人かの手を経て、歌舞伎町に流れてくるんだ。俺の舎弟が持っとるトカレフも、同じようなルートで入ってきたものだ。だがな、トカレフの�外交官ルート�を追ったら、あんたは殺されるよ。日本人、中国人を問わず、本当に得体の知れない連中が関係してるようだからな」  外交特権を持つ中国の外交官が、外交行嚢を利用した拳銃密輸に加担しているのが事実とすれば、外交問題にも発展しかねない由々しき事態である。  この組関係者によれば、中国製トカレフが暴力団の間に出回り始めたのは、八八年後半からだった。それを裏付けるデータもある。八八年には、日本国内で計八百八十八丁の外国製拳銃が押収されたが、中国製は一丁も含まれていない。ところが、翌年の三十丁を皮切りに中国製の押収数は確実に増加し、九二年は二百三十三丁を数えた。その九割がトカレフだった。九三年にはトカレフだけで、二百七十七丁が押収されている。それに加えて最近は、中国が従来のトカレフを軽量小型化した、公安部専用の七七年式自動拳銃まで日本に出回り始めている。 李大容と名乗る謎の中国人[#「李大容と名乗る謎の中国人」はゴシック体]  別の組関係者は、私にこう語った。 「日によって数はまちまちだが、中国製トカレフは毎日のように日本に入ってきてる。東シナ海では、中国、台湾、香港、韓国、そして日本の漁船も操業してる。大陸から漁船で運び出された拳銃が、魚の腹に詰められて他の漁船に積み替えられたら、警察も防ぎようがあるまい。  はっきり言えることは、トカレフの積み出しには、人民解放軍の幹部の許可が必要だということだ。九〇年には約二千丁のトカレフが三、四回に分けて中国大陸から日本に入ってきている。全部合わせたら、これまでに五、六万丁は入ってきているはずだ。軍の関与なくして、そんなことができるわけがない」  はたして組関係者のいう�外交官ルート�は実在するのか? 中国人民解放軍は関与しているのか? 私は用心深く�外交官ルート�の追跡を始めた。歌舞伎町界隈で何人もの組関係者に接触してまず、この話の信憑性《しんぴようせい》を探ることにした。しかし、核心に触れるような情報は何も得られず、結局、そういった噂が実際にあることを再確認することで精一杯だった。  とても手に負えないと、私が半ば諦めかけていた矢先だった。「カギを握る中国人を知っている」という人物が私の前に現われた。株式会社『愛和通商』の代表取締役である津田哲也氏(35)がその人だった。  早速、紹介者を介して会ってみた。津田氏はかつて拳銃不法所持で逮捕されたとは思えない、物静かな男だった。 「こんな話を公《おおやけ》にすれば当然、身に危険が及びますよ」  私は津田氏にわざと値踏みするような質問を浴びせたが、「それも覚悟の上のことです」と表情を引き締めた。 「銃刀法で逮捕された後、私の会社に正体不明の怪し気な男が何度も来ている。電話で『いらんことを喋るなよ』と脅されたこともある。自分の体験の一部始終を話せば、きっと中国の関係当局も黙っていないでしょう。……油断をすれば、殺されるかも知れない。  そういう危険があっても私は、自分が関わった銃刀法違反事件にどうしても決着をつけたいんです。そのためにはまず、ありのままの私の体験を公表するしかない。そして、私に拳銃を売った人間や組織がなんなのかを解明したい。私は逮捕されてもう罪をつぐなったが、売った人間は未だに逃亡中、組織についても謎だらけなんです」  その後、何度も会って話をしているうちに、津田氏が信用できる人物だと確信した。手元にことの経過についてのメモ類や中国で撮影した証拠写真を多数保管し、記憶も極めて鮮明だった。  私はそれでも念のため津田氏の身辺を調べた。気がかりな点は津田氏の経歴と人脈、特に暴力団の影だった。組関係者や警察関係者を取材した結果、少年時代の補導歴はあるものの、それ以外にこれといって津田氏に疑わしいところはなかった。  津田氏は二十歳そこそこで『愛和通商』を設立し、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地裏手の新宿区市谷薬王寺町でモデルガンショップ『TAG』を経営している銃器の専門家である。  店を訪ねると、ショーケースや壁には、ガンマニアが小躍りしそうな世界中のモデルガンが所狭しと飾られていた。 「これが中国製トカレフの原寸大模型です」  津田氏は、ショーケースからプラスチック製モデルガンを一丁取り出して私に渡した。これが本物のトカレフなら、約八百五十グラムの重量がある。津田氏は本物の感触を誰よりもよく知っていた。じつは津田氏は、本物の中国製トカレフを日本国内で二年ちかく隠し持っていたことがあったからだ。  津田氏にトカレフを密売したのは、李大容《リーダーロン》(43)と名乗る謎の中国人である。李は京都市山科区内に住居兼用の賃貸マンションの一室を借り、表向きは『旭通商』という会社を経営する貿易商だった。  津田氏が大阪府警保安一課に銃刀法違反容疑で捕まったのは、九一年四月。購入した拳銃の隠し場所を自ら明かし、購入経緯についても素直に供述した。  一方、李は津田氏の逮捕後、同じ銃刀法違反容疑で指名手配されたが、保安一課の動きを察知してその一カ月前に北京へ逃亡してしまった。  当時、大阪府警保安一課はよくある単純な銃刀法違反事件として容疑事実だけを発表。李についても「住所不定の中国人貿易商」という以外は、背後関係の全てを極秘扱いにした。なぜそうしたのか? 事件のウラには、外交問題にも発展しかねない驚くべき秘密が隠されていたからだった。  以下は李との出会いから始まる津田氏の証言である。 〈私が李大容と初めて会ったのは、八七年十一月下旬のことで、李から本物のトカレフを買う二年半ほど前でした。当時は本社ビルが大阪・淀川区内にあり、そこを店舗兼事務所にしていました。ある日、二階の事務所に突然、李がセールスに現われ、こう言ってきたのです。 「AK47(中国人民解放軍の制式自動小銃=装弾数三十発)のダミー・カートを買わへんか?」  ダミー・カートは、無装薬の模擬弾のことですが、その売買は、日本の法律には触れない。「百発で一万八千円や」というので、私は試しに二百発注文しました。その時、李は私に「軍事用の合法製品を中国から持ってくる。社長にも買ってほしいんや」と頼み込んできました。  李の身長は百七十センチぐらい。ありふれたスーツ、ネクタイにベージュのトレンチコートをはおっていました。無精髭を生やしてやつれた感じに見えましたが、髪は七《シチ》・三《サン》にキチンと分けていました。中国語訛りの関西弁を流暢《りゆうちよう》に話しました。  その後、私と李との間に共同事業の話が持ち上がりました。AK47の発射機能を完全に破壊して、装飾品として中国から合法輸入することになったのです。李が中国人民解放軍から商品を出荷させる。それを私が日本国内で一手に販売するという計画でした。  足踏みしながらも、商談はなんとか進展し、李と知り合ってちょうど三年後の九〇年十一月に無可動のAK47が六百五十丁、大阪港に陸揚げされました。その五カ月前にサンプルとして三十丁が通関を済ませているので、私は計六百八十丁を輸入したことになります〉 「いま中国領事館に来てる」[#「「いま中国領事館に来てる」」はゴシック体] 〈代金の決済は銀行振り込みでした。振り込み先は、「株式会社旭通商」。口座は第一勧業銀行四条支店にあり、口座番号は「普通 1017435」でした。ここへ代金を振り込むと、その金はすぐ中国へ送金されました。  私は無可動のAK47を一丁十四万八千円で国内で販売しました。  合法的なダミー・カート売買で実績を作った後、李は本物の拳銃の密売話を持ち出してきました。八九年五月のことで、先の無可動AK47の商談を進めている最中でした。 「社長、銃は好きか?」  李が私にいきなりこう訊いてきたんです。初めは李が何を言わんとしているのか、よく理解できませんでした。 「ええ、まぁ、こんな商売をしているからには興味はありますよ」  私が軽い気持ちで答えると、李は、 「本当に好きか? どのくらい好きか? 本物の銃は欲しいか? 本物の銃があったら買うか?」  とたて続けに質問を浴びせてきました。 「確かに本物の銃を欲しいとは思いますけど、ヤバくないですか?」  私が訊くと、李はこう言葉を返してきたのです。 「中国からの留学生が、銃を手放したがっている。留学生というても領事館に関係する身分の高い留学生よ。日本にいる間、護身用に持ってた物やけど、もうすぐ中国へ帰ってしまうさかいに要らんようになる。それで売って、少しでも小遣いにしたいのと違うか」  それから私は、李とこんなやりとりをしました。 「護身用といっても、治安のいい日本じゃ必要ないでしょう」 「いや、彼らは資本主義の国はどこも物騒やと思うてる」 「それにしても、いくら領事館といっても、拳銃が持てるんですか?」 「問題あらへん。彼らは銃なんか自由に日本に持ち込めるし、領事館の人間は皆持ってるよ」 「なるほど、領事館は治外法権ですもんね」 「そうよ、彼らは外交官パスポートを持ってるし、日本は口出しできん。もし日本が文句言うたら、中国政府が抗議してくるよ」  拳銃を売り込む李の口ぶりは、自信たっぷりでした。李はその日はいったん引き揚げ、そして翌日の昼頃、私に電話をかけてきました。 「いま、中国領事館に来てるんやけど、きのうの話、先方はOKと言うとる。これから持ってってもええか?」  李のいう中国領事館とは、大阪・西区|靱本町《うつぼほんまち》にある大阪総領事館のことでした。李は「領事館の人間から拳銃を受け取った」と言って電話を切り、一時間後に私の会社に来ました。その時、李から手渡されたトカレフには、銃に必ずあるはずの製造|兵廠《へいしよう》名や製造番号の刻印が見当たりませんでした。私は不思議に思って、そのことを李に問い質《ただ》したところ、李はこう言ったのです。 「製造国がわからんように、わざと刻印を打たんと造らせた特注品だからよ」  日本には刻印を後で削り取った拳銃も入ってきていますが、私が李から買ったトカレフは、最初から密輸を前提にして製造されたものでした。  李はトカレフと一緒に実弾も七十発持ってきて、「弾は中国領事館の武官が好意でくれた」と得意気に話していました。しかし、考えてみれば、東京の中国大使館には武官はいるが、大阪の総領事館には武官はいないはずです。この時、李は大阪の総領事館だけでなく、東京の大使館にも顔が利くのかな、と私は思いました。  トカレフの売り値は百八十万円。中国では一万円もしない代物ですから、私は内心、ずいぶん高いなと思いました。でも、値切りはしませんでした。李と商談を進めていた無可動AK47の輸入を実現し、日本での独占販売権を獲得したかったからです。十万円、二十万円のカネで李の機嫌を損ねるようなことはしたくなかったのです。  それにしても、現地ではタダ同然の拳銃を百八十万円という法外な価格で売り捌《さば》いたのですから、代価のほとんどが利益として残ったはずです。しかも李は、その後も私に拳銃を売り、約半年間ほどの間に合計六丁、総額で約一千万円を私から受け取っています。さらに私以外にも顧客がいたようですから、李が拳銃の密売によって稼いだカネは、かなりの金額になるはずです。ところが、彼の手元にそれほどの金が残っていたようには思えません。  それは、もしかすると李自身が日頃から言っていたように、武器の密売で外貨を稼ぐのが彼の任務だったのかもしれません。  李が銃刀法違反容疑で中国へ逃亡した直後に、大阪の中国総領事館から、二名の外交官が中国へ帰国させられたと捜査関係者から聞いたことがあります。私はその外交官の名前も知っていますが、拳銃密売に関わっていたかどうかまではわかりません。しかし、私が買った拳銃は、すべて領事館員が日本へ持ち込んだ物だと李は断言していました。もし、その話が本当だったとしたら、本国に帰された外交官は、拳銃密売の責任をとらされたのだとも考えられます。  日本駐在の中国外交官の給料は、月額にして約五万円だと聞いています。それでは物価高の日本で生活できるはずはありません。だから生活費を稼ぐために、領事館員が個人的に行った不正行為だったのかもしれません。  李の話では、木箱に詰められた数十丁の銃が、外交行嚢を利用して、ごく日常的に持ち込まれているとのことでした。それから考えれば、一部館員の不正行為であったにしても、総領事館が黙認して、公然とそれを許していたとしか思えません〉 「数十丁の銃が木箱に詰められて外交行嚢と一緒に来る」という話は、先の組関係者の証言ともぴったり符合する。果たして、そんなことが可能なのだろうか? 李が総領事館へしょっちゅう出入りしていたという非常に確度の高い情報を、私は入手した。  李からトカレフを買って約一カ月後の八九年六月のことだが、京都市内の李のマンションに津田氏が電話を入れると、家人に「李は北京に行っている」と言われたという。いつもは二週間ぐらいの滞在なのにその時に限って、李はなかなか日本に戻って来なかった。 「軍事会議《ヽヽヽヽ》に出席していた」[#「「軍事会議《ヽヽヽヽ》に出席していた」」はゴシック体] 〈その頃、北京ではちょうど天安門事件が起きていました。李が北京から戻ったのは、民主化運動の鎮圧が一段落してからです。すぐに私の会社に顔を見せたので、私は「中国のほうは相当に騒がしかったんでしょう?」と訊きました。すると、李は興奮気味にこう言ったのです。 「天安門の件で政府に呼ばれて行ってたんや。ほんま忙しいのに、まあ呼ばれたら行かなしゃあないしな。軍服《ヽヽ》は着用してたけど、主に軍事会議《ヽヽヽヽ》に出席してた。対策を練らなあかんしね。あんなもん、マスコミが勝手に騒いでいるだけのこっちゃ。大変なことと違うわ。学生めっ! あいつら無茶苦茶よ。暴動が起きたら、鎮圧するのはどこの国も同じよ。そうやろ!」  中国政府が一番心配しているのは、「騒ぎにまぎれてAK47が七丁行方不明になっていることや」と李は言っていました。もし、それらの銃を使って学生らが外国人を殺したりすれば、中国にとっても致命的なイメージダウンになるからです。  李の正体について、私なりに調べてみました。  中国には現在、共産党中央委員会(江沢民総書記)の下部組織の中央調査部、国務院(李鵬首相)の下に公安部(省)、そして国家安全部と計三つの諜報機関があります。国家安全部は、旧ソ連のKGBをモデルにして一九八三年に創設され、海外における中国人外交官の監視も重要な任務になっています。  日本、香港、シンガポールが国家安全部の海外三大拠点と言われています。李は日本語はもちろん、英語、フランス語が不自由なく話せ、香港やシンガポールにもよく出入りしていました。私は李に「国家安全部とは関係ないですか?」とストレートに訊いたことがあります。李は笑いながらこう答えました。 「僕はスパイやないで。安全部の連中も日本に来てるけど、僕は関係ない。彼らみたいな細かい仕事は性に合わんし、僕は第一、安全部のような低い身分やない」〉  李の拳銃売り込みは、それからも執拗に続いた。津田氏は李に誘われて訪中し、特別待遇で人民解放軍の軍事関連施設を案内された。 〈初めて中国へ行ったのは、トカレフを買った後の八九年九月でした。この時はビザも取らずに出掛けたのに、北京空港で李が係官とちょっと立ち話をしただけで、ものの数分でビザをもらえました。大阪の領事館でビザを取った時も同じようなことがありました。それは三回目の訪中のときでしたが、普通なら一週間かかるところを、李はたった一日で取ってきました。それも領事館が閉館になってから申請して、その日のうちにビザが発給されたのです。彼は領事館に対して何か特別な力を持ってましたね。  北京滞在中、私と李が乗る車の運転手は、公安部直轄の人民武装警察部隊《レンミンウージヨアンジンチヤブドイ》の隊員が務めました。その隊員は、公安部直営の武器製造販売会社『中国京安器材進出口公司』(以下『京安』と略す)から派遣されていたのです。  李が日本で使っている『旭通商』の名刺も中国で印刷され、『京安』から支給されていました。私は目の前でそれを支給されているところを見ているから、間違いありません。  北京に到着した翌日の九月十日、運転手役の武装警察隊員が私と李が泊まっていたホテル『麗都《リードウ》』に迎えに来ました。その時、小柄なスーツ姿の男も一緒に車に乗って来て、私は李から「この人が参謀長や」と紹介されたのです。  年齢は六十歳ぐらいで、反っ歯で前頭部がちょっと禿げ上がった、一見風采の上がらない感じの男でした。しかし、この�参謀長�の権限は想像していた以上に絶大でした。  私は�参謀長�や李と一緒にまず、北京市郊外にある人民解放軍の基地に向かいました。入口のゲートに衛兵がいましたが、全くフリーパスで基地内に入ることができたのです。  そこで兵士にSKSシモノフカービン銃の中国改良型一丁とAK47、さらにトカレフを一丁ずつ持ってこさせ、武装警察隊員の運転する車は、軍用トラックの先導で別の場所にある射撃演習場へ向かいました。その射撃演習場では、ちょうど二十人前後の武装警察部隊の隊員が銃剣付きの中国製SKS銃を使って演習中でした。ところが、武装警察部隊の演習は、�参謀長�の鶴の一声で一斉に中止させてしまったのです。私はただ実弾射撃を楽しむために演習場へ来ていたので、悪い気がして、李にそっと訊いてみました。 「演習を中止してもらって、いいんですか」  すると、李は平然と言ってのけたのです。 「そんなもん、全然問題ない。ここは元々は軍の施設、それを武装警察部隊に貸してやっているだけや。優先権は軍にある。�参謀長�の一言で彼らはどかなあかんのや」〉 �参謀長�がAK47を運ぶ[#「�参謀長�がAK47を運ぶ」はゴシック体] 〈私は軍の実弾を千発ほどタダ撃ちさせてもらいました。  射撃演習場からホテルに帰ったあと、�参謀長�や李とホテル内の中華レストランで夕食を共にしました。�参謀長�と李は、日本の自衛隊を話題にしていました。李は以前、私に「ナイトビジョン(暗視装置)をサンプルとして一台、自衛隊に納入したことがある」と言っていました。話の途中、李が日本語で私に話しかけてきて、こんなことを言い出したのです。 「近いうちに自衛隊関係者の招待で�参謀長�が日本へ行くかも知れん」  私は「日本へ行くのはいつ頃になりますか」と李を介して�参謀長�に訊ねました。「今年の十月末ごろになるらしいわ。まだどうなるかわからんけどね」という返事でした。  食事が終わって�参謀長�と別れ、部屋に戻ってひと息ついている時でした。李から電話が入り、ホテルのロビーに誘われました。そこで李から思わぬ話を持ちかけられたのです。 「どや、AKはいらんか」  李のいうAKとは、AK47のことでした。 「加工してへん、そのまま撃てるやつやで。欲しいんやったら、�参謀長�が今度日本に行く時についでに運んで貰うさかいに。日本へ行く時は、�参謀長�も外交官パスポートやし、荷物の中にAKを一緒に入れといてもらうよ。  僕は銃器工場に言うて、特別仕様のやつを作らせるわ。ボルト・キャリアーもクローム鍍金《めつき》にして、表面の金属光度も七度ぐらいにしたピカピカのやつよ。AKは、百メートル先の標的でも百発百中や。一丁あったら、日本のヤクザなんか百人かかってきたって、一人で勝てる。弾は一箱(七百発)、僕がなんとかさせるわ」  李のしつこい売り込みに困惑しましたが、最後は「AK47のような長尺銃には興味がないから」と言って断わりました〉  それにしても、�参謀長�とは一体、誰のことなのか。北京軍区には、北京軍区司令部と北京軍区空軍司令部に各一人ずつ参謀長が置かれ、いずれも少将クラスである。さらに、北京軍区の下には北京|衛戍《えいじゆ》区、天津警備区司令部、河北省軍区司令部、山西省軍区司令部、内蒙古軍区司令部と五単位の指揮系統があり、最初の北京衛戍区以外はいずれも参謀長が置かれている。つまり参謀長の地位にある軍幹部は北京軍区に少なくとも六人は存在することになる。津田氏が李から紹介された人物は、そのうちの一人なのだろうか。�参謀長�は名前は名乗らなかったが、津田氏は射撃演習場でたまたまその人物のスナップ写真を撮影していた。私はその写真を頼りに身元の特定を試みたが、しかし、それも途中で諦めざるを得なかった。津田氏が訪中した時期に参謀長をしていた計六人の顔写真を入手することが出来なかったからである。  さらに頭を抱えたのは、この六人に加えて、北京軍区の各司令部がそれぞれ直轄する師団、旅団クラスにも参謀長の肩書きを持つ者が合わせて十名以上いたことだ。ただ、写真と同一の人物あるいは参謀長の地位を持つ軍人が、九〇年十月から十一月にかけて、自衛隊関係者の招きで来日したという形跡は出てこなかった。その間に軍人で来日したのは、周忠陸軍武官と徐京明国防副武官の二人だけだが、これは中国大使館への着任だった。念のために確かめると、この二人は写真の人物とはまったくの別人だった。津田氏の前で絶大な力を見せつけた�参謀長�の正体は最後まで謎に包まれたままだった。  津田氏は話を続けた。 〈AK47の売り込みを断わったその翌日も、李はまた別な武器を私に売り込もうとしました。朝、李に連れられてタクシーで北京の王府井北大街にある『京安』の出口一部(第一輸出部)の社屋へ向かったのです。社屋は古い瓦葺きの建物で、正門の両側には唐獅子が据えられ、周囲は古めかしい土塀に囲まれていました。私はそこでピストル型や警棒型のスタンガン各種、そして大小様々な催涙スプレー、防弾チョッキなどの見本を見せてもらいました。  見本の中に非常に珍しいナイフ型の擬装銃がありました。外見はただの飛び出しナイフに見えますが、実際は銃の機能を持ち、22口径の実弾を三発、連発できる構造になっています。  中国語では「匕首槍《ビシヨウチアン》」と書き、公安部の御用達《ごようたし》です。「第一一六兵廠で製造されとるんや」と李から聞かされました。公安部のデータでは、銃口初速が秒速百四十メートル、刃を畳んだ状態で長さが十四、五センチ、重さは三百十グラム。至近距離なら殺傷能力が十分あります。  擬装銃は周囲が銃と気付かないので、その分余計に危険です。ところが、李はこの銃を私に売り込んできました。「欲しいなら、日本で実物を渡すわ」とはっきり言いました。  李は私に「手榴弾をプレゼントするよ」と話し、さらに消音器付きピストルまで売り込んできました。中国には六四年式と六七年式のサイレンサー・ピストル(微声手槍《ウエイシヨンシヨウチアン》)がありますが、李はその性能についてこう説明しました。 「発射音は手のひらを強くパチンと合わせたぐらいよ。深夜の静かな時やったら気がつくやろうけど、それでも銃を撃った音やと思う人はおらんやろうね。昼間か、賑やかな場所やったら、騒音に消されて銃声は聞こえんわ。人混みで人を殺しても、誰も気がつかへんで。暗殺にはもってこいやろな」  銃に興味はあっても、私にそんな暗殺兵器は必要ない。それで私は、李の売り込みをすべて断わったのです〉 木箱に詰まった世界中の拳銃[#「木箱に詰まった世界中の拳銃」はゴシック体] 〈私はホテルに迎えに来た『京安』の車で北京市街から二時間ほど離れた人民解放軍の軍事施設へ案内されました。李も一緒でした。  軍施設の敷地は広大で、高い塀に囲まれていました。正門で衛兵の身元チェックを受け、そこから二百メートルほど入った高台に大きな三階建ての建物がありました。  その建物からさらに車で奥へ進み、窓も入口もドアも極端に少ない異様な建物に入りました。建物には小さい出入口が一つしかなく、ドアを抜けると、三畳ほどのスペースの部屋がありました。右側の小さなドアを開けると、そのさらに奥が中古武器の格納庫になっていました。  格納庫の内部は、モルタルの打ちっぱなしで広さは五、六十坪。大量の木箱が積み上げられ、中身はすべて拳銃でした。推定で五、六万丁あり、発射機能が損なわれていない、世界各国の中古軍用拳銃がごっそり眠っていたのです。  ドイツ製モーゼルの中国製コピー拳銃が最も多かったが、これは主に一九五一年以前に中国軍に支給された拳銃でした。ほかに米国製のM1911やM1911A1、ベルギー製ブローニング・ハイパワー、ドイツ製ワルサーP38やルガーP08、そして日本製の南部十四年式拳銃までありました。  中古銃器に混じって、場違いのような真新しい水色のアタッシェ・ケースがありました。李の許可をとって蓋を開けてみると、中には新品のイスラエル製ウージ・サブ・マシンガンが収納されていました。李は「サンプルに使うんとちゃうんか」と言っていましたが、アメリカの大統領警護隊やイスラエルの諜報機関モサドも使用している高性能銃の新品がなぜこんなところにあるのか、と私は不思議でなりませんでした。  私は九四年に入ってから、サンフランシスコで銃砲店を経営する日本人のTさんと業務提携を結びました。じつは、Tさんは、私よりももっと早い時期に、中国で銃器取り引きを持ちかけられていたんです。十年ほど前に、私と同じように、『京安』の案内で中古銃器格納庫へ入りましたが、もちろんその目的は、中古の銃器を買わないか、という商談だったそうです。つまり格納庫に収められた膨大な数の中古武器が、中国政府にとっては対外輸出向けの商品だったのは明らかです。  しかし、Tさんのように、居住国がアメリカになっている場合は、対米輸出になりますから合法商品として当然でしょうが、非公式としか思えないような商談もあったようです。  それは、ある台湾人ブローカーが、私やTさんのように武器庫に案内されて、銃器を仕入れないかと持ちかけられたという話です。中国とは政治的に対立する台湾へは、公式に武器の輸出が認められているはずはなく、正規の商談だったとは考えられません。  それに台湾は、アメリカのように銃を自由に販売できる国ではなく、銃器規制の厳しい国です。その銃器売買の商談は、あくまで台湾のブラック・マーケットを対象とした非公式なものだったとしか考えられません〉  台湾シンジケートによって大量の中国製トカレフが日本に持ち込まれているが、私は津田氏の話を聞いていて、その調達ルートの謎が解けたような気がした。李はさらに津田氏を軍の最高機密に属する兵器工場へ案内し、拳銃の購入を迫った。その狙いは一体、なんなのか? やがて李が「中国人民解放軍陸軍大佐」であるという濃厚な疑いが出て来た。 [#改ページ]  謎の拳銃密売貿易商「李大容」の正体  中国人民解放軍の銃器格納庫で、津田哲也氏が偶然見つけたイスラエル製ウージ・サブ・マシンガンは、小型のわりには一分間に六百発も大量発射ができる恐ろしい武器である。  実は歌舞伎町に出入りしている暴力団関係者の中に、これと同じ機関銃を売りに出している者がいるのだ。私が聞いた売り値は、九三年八月の時点では二百八十万円から三百五十万円と売り手によって開きがあったが、一年後に改めて聞いてみると、二百二、三十万円まで値下がりしていた。ある組関係者はそのあたりの事情を私にこう説明した。 「バブル経済で浮かれている頃は、一丁五百万円でも簡単に売れたが、いまのようにヤクザがラーメン代にも困っているような状況じゃ、ぜんぜん買い手がつかんわ。第一、あんなものを持っていたところで使い道がない。ウージはこれまで何丁か警察に押収されているが、たとえ抗争でも、あれで相手を撃ちまくって一般市民を巻き込んだりしたら、こっちは間違いなく死刑になっちゃうよ。だが、それでもウージを欲しがる奴がけっこういるんだ」  注目すべきは、組関係者の次の発言だった。 「ウージの値下がりは、ヤクザの金欠だけが理由じゃない。ウージの密輸ルートはいくつかあって、以前は、ハワイ、タイ、パキスタンの連中が、貨物船の船員を抱き込んで日本に持ち込んでいた。それをヤクザが百八十万円から二百万円ぐらいの値段で買い上げていたが、九〇年頃から、それよりも三、四十万円安く手に入る別のルートが出てきたんだ。これじゃ値崩れするのも当然だな。このルートには何人かの台湾人のブローカーが関係していて、ウージの入手先は中国と聞いている。しかし、ブローカーがどんな方法で中国からウージを手に入れるのかは、俺は知らん。  ウージよりも数がまとまって入ってくるのは、中国製のAK47だよ。もちろん、本物だ。これも台湾経由で入ってくるが、日本ではごく少数の人間が何十丁単位でまとめて持ってる」  トカレフだけではなくウージ・サブ・マシンガンやAK47まで中国から流出しているという話には、私も最初は驚いたが、しかし、津田氏の証言を聞くと、それも納得せざるを得なかった。中国人民解放軍のあまりにもルーズな武器管理の実態を知らされたからである。  津田氏の証言を続ける。 〈私が格納庫で銃の写真撮影をしていると、李があちこちの箱から拳銃を取り出し、一つの箱に移し替えていました。よく見ると、その箱の側面には白墨で「李大容」と書かれている。李は自分の気に入った銃を取り置きしていました。 「勝手にやっても問題はないんですか」  私が訊《き》くと、李はこう答えました。 「そんなもん、どうってことない。僕にはそのくらいの権限がある。ぜんぜん問題ないよ。何か気に入った銃があったら言うてや。この箱の中に取っといて、また僕がいつもの方法で日本に運ばせ、日本で社長(津田氏)に渡す。そのくらいのこと、僕には簡単なこっちゃ」  私は気に入った銃については触れず、曖昧な返事で李の売り込みをかわしました。その場で断わると、順調に進みつつある無可動AK47の輸入販売話に影響が出ると思ったからです。  李には格納庫から拳銃を自由に取り出す権限が与えられていました。この時も私の目の前でソ連製トカレフTT33など二丁を持ち出しました。格納庫を出る際も李に対するボディチェックは一切ありませんでした。  格納庫を出た後、施設内の弾薬庫に立ち寄り、その一角に保管されていた外国製中古拳銃の中から、李は数丁の拳銃を選び、同行した『京安』の職員に拳銃の保管まで頼んでいました。  軍事施設を出ると、北京郊外にある自動車教習所にいきなり車を乗り込ませました。突き当たりの土手で格納庫から持ち出した拳銃を発射し、防弾チョッキの性能チェックをしました。教習所の教官や教習生は驚きの視線でこちらを見ていましたが、李はそんなことお構いなしに、銃をバンバン撃っていました。  中国に滞在中、李は私に「銃殺を見たくないか」と言ったことがありました。さらに李は自分が銃殺現場に居合わせた時の様子まで私に克明に語りました。 「トカレフで頭を撃ち抜かれた人間は、頭の半分が吹っ飛んだわ。その日は冬やったんやけど、北京の冬は寒いさかい、あたり一面に雪が積もってた。その真っ白い雪の上にぶちまけられた脳味噌がホカホカ湯気を立ててたな。麻婆豆腐にそっくりや。それから麻婆豆腐が食べられんようになってしもうたよ。社長が見たいと思うんなら、公安部に連絡しといて、いつでもお見せできますわ。受刑者を銃殺させてもいいんやから」  もちろん私は李の誘いを断わりました。  銃殺刑の一斉射撃に使用される実弾は、口径七・六二ミリ×三九ミリの完全被甲弾《フルメタル・ジヤケツト》。これは貫通能力が高く、急所に命中しない限りは、即死に至らない。そこで至近距離から受刑者の頭部に五四年式拳銃の口径七・六二ミリ×二五ミリ・トカレフ弾を止《とど》めに撃ち込む、と李は言っていました〉  李や『京安』の職員に案内され、津田氏は八九年九月十四日、山東省の山岳地帯にある「九四三九|兵廠《へいしよう》」へ向かった。そこは、五四年式トカレフ拳銃を製造する兵器工場だった。 〈私が「九四三九兵廠」へ行ったのは、トカレフの買い付けではありません。李と提携して、日本への輸入を計画していた拳銃の加工をその工場で行う予定だったのです。合法輸入できるようにいかに拳銃の発射機能を壊すか、工場関係者と打ち合せするのが目的でした。  北京駅から約十時間半かけて、山東省の沂水駅に着くと、工場の関係者二人が、白いワゴン車で駅まで迎えに来てくれました。山道を四時間ほど登ると、「九四三九兵廠」に到着しました。兵廠は五メートルくらいの高い塀に囲まれ、まるで要塞でした。門は鋼鉄の扉で閉ざされていました。中国の最高機密に属する施設というだけあって、厳重な警戒が敷かれていました。  そこには兵器工場とわかるような看板の類は何もなく、表向きは、自動車部品を製造する「国営山東機械修理廠」ということになっていました。  工場内部へ入ると、山が何個もあろうかという敷地がどこまでも続き、工場職員の住宅街がありました。やがて自動車部品の製造工場らしき広さ二、三百坪はある体育館のような建物が現われました。この建物こそが、兵器工場へ通じる唯一の入口だったのです。この建物を通り抜けて裏庭に出ると、また同じような建物があり、ここが目指す「国営九四三九兵廠」でした。  中へ入ると、木箱に入った五四年式トカレフの部品が工場内に山積みされていました。その日は重機械類は動いておらず、職員がトカレフの部品に一つずつ兵廠番号、製造番号などの刻印を手作業で打ち込んでいました。  工場内を見学したあと、私は兵廠のさらに奥にある試射場へと案内され、そこで私は、五四年式トカレフによる射撃を堪能しました。  その夜は、兵器工場の敷地内にある宿舎施設に泊めてもらい、兵廠の廠長や経営生産部科長に夕食をご馳走になりました。実に豪勢なものでしたが、精力剤だというサソリの唐揚げが百匹ほど皿に盛られて出てきたのには度胆を抜かれました。一匹を口に押し込んでみましたが、味も臭いもなく、美味しくはありませんでした〉  中国から帰った後も、李は二カ月ごとにさまざまな拳銃を津田氏に持ち込んできた。津田氏は結局、トカレフの他に計五丁の拳銃を購入した。  レミントン・ランド社製の米軍旧制式自動拳銃M1911A1(百八十万円)、この銃のグリップには、中国公安部を示す「公安《ゴンアン》」の文字が刻まれていた。さらに中国製マカロフ拳銃(百六十万円)、カナダ製のブローニング・ハイパワー自動拳銃(百八十万円)、中国製空気拳銃(三十万円)、最後がドイツ軍旧制式拳銃のワルサーP38(百八十万円)だった。 〈千葉県に住む日本人の金持ちに李は、何かの展示用に三千万円で戦車を買わないかと持ちかけています。中国には旧日本軍の零戦が六機保存されていて、それを一機三億円で売るとも言っていました。とにかく李は中国から特別な身分を与えられたじつに不思議な男でした。  私が李から買ったマカロフ拳銃ひとつとっても、それがわかります。マカロフはトカレフと違い、その生産数がはるかに少ないのです。現在は護身用として政府高官や高級将校しか携帯を許されていません。それを李が簡単に入手して日本で密売できる。李自身は「武官から借りてきたものだ」と言って、実弾が装填《そうてん》されたマカロフを日本で持ち歩いていました〉 「領事館には重機関銃もある」と李は語っていた[#「「領事館には重機関銃もある」と李は語っていた」はゴシック体] 〈李は私にいつも自慢気にこう言っていました。 「社長、僕はどんな拳銃でも日本に持ち込めるよ。外交|行嚢《こうのう》を使うんやから、不可能はない。社長が欲しいなら、ロケット・ランチャーだって簡単に入手出来る。日本のブラック・マーケットで一基二千万円くらいや。日本人は知らんと思うけど、大阪の中国総領事館には重機関銃も置いてあるんよ。それに世界中の拳銃がゴロゴロしとるわ。社長がお望みなら、いつでも見に連れてってあげるよ」  拳銃の売買が合法化されている米国ジョージア州アトランタに、『ポリーテクノロジー』という会社の営業所があります。この会社は中国人民解放軍が経営する銃器販売会社で、米国政府の許可を受けて活動しています。  このほかに中国公安部直営の武器製造販売会社『京安器材進出口公司』もジョージア州に進出しています。カリフォルニア州には、人民解放軍が出資している武器製造販売会社『北方工業公司』が、『ノリンコ』という名の現地法人を設立して、銃器を米国へ輸出しています。このため米国では、専門家が「このまま中国製拳銃の販売を放置していると、近い将来、米国市民が所持する拳銃は中国製に取って代わられる」と警告を発しているほどです。  李の話によると、『ポリーテクノロジー』のアトランタ営業所長が外交官パスポートを持っていて、中国へ帰国する際、日本まで拳銃の実弾を運んでくる役目を務めているそうです。  大使館や領事館の内部に射撃場があるわけでもないのに、米国からなぜ銃弾を運んでこなければならないのか、私にはどうにも不思議でなりませんでした。李は、社会的地位が高い日本人で拳銃を密かに所持している人を何人も知っているとも言っていました。しかし、自分が誰に拳銃を売ったかについては絶対に口にしなかった〉  津田氏によると、李は総領事館の中は治外法権だと放言したが、日本国内ではたとえ外交官だろうと、大使館、領事館の中だろうと拳銃を所持することは許されない。もし、拳銃を所持して日本に入国する場合には、銃刀法第二十五条により「仮領置」といって税関に申告し、帰国までの間、日本側に預けなければならないのである。  私は�外交官ルート�のカギを握る大阪の中国総領事館へ足を運んだ。その日は土曜日で、総領事館はあいにく休館日だった。屋上に巨大なパラボラアンテナが取り付けられていた。建物のあちこちに監視カメラが設置され、私は思わず両手で顔を隠してしまったほどである。 「おたく、なんの用事? 身分を証明するもの持ってる?」  建物の写真を撮っていると、総領事館の斜め向かいにある大阪府警西署靱本町警備詰所から、若い制服警官が飛び出して、そう詰問した。聞けば、三人交替で二十四時間、総領事館を警備しているという。警官は「建物の内部がどうなってるか、私らには何もわからない」と言った。  重機関銃の類が一体、この建物のどの部屋にあるのか、そんなものが領事館でなぜ必要なのか。そんなことを考えながら、しばらく建物を見上げていると、上階の窓に人影が映り、中年の男が私の動きを追っているのに気付いた。  大阪総領事館の館員構成は、総領事以下十人前後。中国が領事館を置いているのは、北は札幌、南は福岡と長崎である。  李の話が事実ならば、中国の外交官が拳銃の密輸や密売に関わっているばかりではない。総領事館ぐるみで日本の主権を侵し、法律を踏みにじっていることにもなる。  それにしても、李大容とは一体、何者なのか? どのようにして日本での拳銃密売に関わったのか? 私は手掛かりを求めて京都へ足を運んだ。 故吉村孫三郎氏とも関係?[#「故吉村孫三郎氏とも関係?」はゴシック体]  私はそこでとんでもない情報を入手した。李の来日を手助けした大物がいるというのだ。その大物とは、日本国際貿易促進協会(会長・桜内義雄元衆議院議長)の副会長、京都総局名誉会長を歴任した吉村孫三郎氏(元吉村紡績会長)だった。  同協会は日本と中国の貿易の促進を図る目的で一九五四年に設立された。吉村氏は戦前戦後を通じて中国との貿易を営み、一九七二年の国交正常化以前から訪中を重ねている。周恩来元首相と最も親しい日本人の一人だった。  中国政府は同氏を中日友好貿易の最大の功労者と見ていたと関係者は証言した。また吉村氏は、京都日ソ協会名誉会長も務め、勲四等瑞宝章に叙せられた京都の名士でもある。まだ二十歳だった李を吉村氏に引き合わせたのは、中国政府高官だったと言われている。  私は吉村氏が名誉会長を務めていた日本国際貿易促進協会の京都総局を訪ねた。すると、吉村氏は八九年、つまり李が拳銃密売を開始した直後に、百五歳で亡くなった、と事務局員から知らされた。 「吉村さんと李大容さんが関係あるという話は初めて聞きました。李さんの『旭通商』は、十数年前に会員になっています。うちは日本の会社が中国の情報が必要だから会員になるのですが、李さんは中国人。どうしてうちの会員になりたいのか変だなと思いました。 『旭通商』は、一万円の月会費未払いのため、一年ほどで退会扱いになりました。一度、中国の国営紡績会社から、『李さんは信用できるのか』と問い合わせがありました。いろいろとトラブルが多く、李さんの評判もよくありませんでしたね」  李は本当に吉村氏の紹介で日本に来たのか、それとも吉村氏の名前を利用していただけなのか。七九年に京都市内で貿易業を始めた李は、二年後の八一年四月に資本金五百万円で『旭通商』を法人登記して代表取締役に就任した。私はこの会社の登記簿を入念に分析した。すると、意外な人物との接点が次々と浮かび上がった。  会社設立時、Uという人物も李と一緒に代表取締役に名を連ねていた。登記簿に記載されていたU氏の住所を訪ねると、近くを鴨川が流れる住宅密集地の一角に、こぢんまりした木造二階建ての家があった。  ある商店主は、「ちょっと見た感じでは怖そうな人やったけど」と前置きしてこう語った。 「Uさん一家があの家に住んでいたのは、ほんの一年くらいやった。売るために家を建てたが、買い手がつかないんで自分が住むんや、と本人が近所の誰かに言ってたそうや。そやさかい、不動産屋か建築関係の人と違うか? 白いボルボに乗ってはったな。家族は奥さんと小さな子供が二人で、本人は当時まだ三十歳前後やった」  U氏が住んでいた土地と家屋の登記簿を当時に遡って閲覧すると、土地はずっと別人名義だったが、家屋だけは一時期U氏個人の名義になり、その登記簿には、U氏と李が代表取締役を務める『旭通商』とはまったく別の会社名が記載されていた。  この会社名とその法人登記簿に載っていた役員名を頼りにU氏を追跡すると、U氏は不動産や飲食業関連の会社を十社以上も経営する実業家であることがわかった。U氏は、李大容と同じ四十二歳だった。  九二年五月、琵琶湖の湖畔に未完成のまま放置され、地元住民から�幽霊ビル�と呼ばれていた建物が、ダイナマイトで瞬間爆破された。日本では初の試みということで、その爆破の模様はマスコミでも大きく報道されたが、じつはU氏は、この�幽霊ビル�のオーナーであり、爆破劇の仕掛け人でもあったのだ。  このU氏と李はどこで結びついたのか? 仕事で全国を飛び回っている多忙なU氏に代わり、夫人がこう話した。 「李さんと京都で初めて会ったのは、かれこれ二十年近く前のことです。李さんはとても頭のよい方と聞いています。日本と中国が国交を回復してから、中国政府は勉強のために優秀な人間を何人か日本に派遣したそうで、李さんはその中の一人ということでした」  U氏は、李一家とは祖母の代から縁戚関係にあると複数の関係者から聞かされていた。U夫人はじつは、八一年に『旭通商』が設立されてからしばらくの間、事務所手伝いをしていた。 「主人は日本と中国の国交が回復したので、中国と何か貿易の仕事でも出来るんじゃないかと、李さんと一緒に仕事を始めたんです。李さんは中国から羽毛を輸入して日本で販売するとか言ってたんですが、セールスをするでもなく、お金がかかるばかりで、主人も間もなく手を引いてしまいました。それ以来、主人は李さんとは会っていないはずです。その後、彼は日本人の女性と結婚しましたが、私たちは結婚式にも招待されませんでした」  法人登記簿を見ると、U氏は、会社を設立して四カ月後の八一年八月に代表取締役を辞任しているので、『旭通商』はこの時点から李のオーナー会社になった。李の正体を知る有力な手掛かりと期待をかけていたU氏のルートは、ここでぷっつりと切れてしまった。  ある日、京都から東京へ帰る新幹線の中で、私はじつに薄気味悪い経験をした。食堂車に座って間もなく、前のテーブルに三十歳前後の男がこちらを向いて座り、チラリチラリと視線を向けてきた。注文したビーフシチューには一口も口をつけず、男は十数分で席を立った。  そのあと入れ替わるように別の男が同じ席に座り、サンドイッチを注文した。ところが、この男も一切れもサンドイッチを口にせず、席を立った。三人目の男はコーヒーを頼んだが、これも口をつけずじまいだった。三人ともウエートレスには日本語で注文していたが、顔つきや服装から明らかに日本人に見えたのは、最初の一人だけだった。  いずれも私の顔を確認して立ち去ったが、私にはとても偶然の出来事とは思えなかった。  同じような出来事が、東京に着いてからも続いた。私は打ち合わせを兼ねて、二人連れである居酒屋に入り、一時間ほどで店を引き揚げた。近くからタクシーに乗ろうとすると、ビルとビルの間に女性が隠れていて、私の方を見ながら雑誌のようなものに何かを書き留めた。目つきがただ者ではなかった。しばらく走って、私は途中でタクシーを乗り替えた。  私はその後も何度も京都へ通い、李の足跡を追った。すると、会社設立前の一時期、李がスポーツ用品輸入販売会社で見習い社員として働いていたことがわかった。  当時の従業員が語る。 「李が初めて会社に来たのは、昭和五十二年(七七年)春、彼が二十五、六歳の頃やった。新聞の募集広告に応募してきた。正直いって、変な男やったね。人の顔色をよく見る男で、うちの社長に向かっていきなり、『社長、きのうの夜、セックスしたか? 顔を見れば僕にはすぐわかる』と言うんです。  日本語は会話はもちろん、読み書きもこなせるんで、会社ではゆくゆくセールスの仕事をやらせるつもりやったが、半年ぐらいで辞めてもらいました。  中国と取り引きをしているある会社から、李を通訳に貸してくれと頼まれ、一週間の条件で中国へ行かせたんです。せやのに、何の連絡もなしに二週間も会社やすんで、何食わぬ顔で会社に出て来よった。それで社長から、『バカモン、出ていけ!』と怒鳴られたんです。銀行に使いにやっても、なかなか帰って来まへん。  李が軍人? そんな話は一度も聞かんかったな。ただ目つきが鋭くて、身のこなしがちょっと普通じゃないところがありました。そういえば、飲みに行った帰りに高い柵をポーンと身軽に飛び越えたことがあったな」  李はこの会社に入る前の二年半の間に、京都市内の貿易会社など二つの職場で働いている。  じつは入社にあたって、李はその中の一社に、自分で書いた顔写真付きの履歴書(昭和五十二年三月二十三日付)と外国人登録(登録番号11第389955号)を証す登録済証明書(同五十二年六月二日付)を提出していた。私はその二通とも入手した。 中国人民解放軍の陸軍大佐[#「中国人民解放軍の陸軍大佐」はゴシック体]  履歴書は、丁寧な文字で書かれていた。生年月日は一九五一年(昭和二十六年)二月十七日。李は津田氏に対し「自分は中国の浙江省杭州市で生まれた」と言っていたが、履歴書には〈京都市左京区生まれ〉とあった。  そこに記された李の学歴は、以下の通りである。 ・昭三十八年九月 中国杭州市長生路小学卒業 ・昭四十一年九月 中国杭州市立第十中学卒業 ・昭四十四年九月 中国杭州市立第十高校卒業 ・昭四十八年九月 上海外国語大学卒業  日中の国交が正常化して二年後の七四年八月に、李は〈日本に戻ってきた〉と記されている。  また、�特技・好きな学科�の欄には、〈現在家庭教師をやっています。英語・中国語を教えています〉〈水泳、射撃が好きです〉と書かれていた。  この履歴書の内容が事実とすれば、李は満二十三歳のときに来日したことになる。当時の中国の国内事情から考えると、若輩の李が趣味で射撃を楽しんでいたのはいかにも不自然だ。  中国でプロレタリア文化大革命が始まったのは、六六年五月のことで、李が十五歳を迎えて間もなくである。文化大革命は、中国全土を巻き込んで、それから十年にわたって続くが、その間、李の年代は、紅衛兵として文革に動員されたか、あるいは�知識青年��知識分子�として逆に紅衛兵に迫害されたかのいずれかである。しかし、李の履歴書によれば、その間に中学、高校、そして大学まで卒業し、しかも日本にまで来ている。一体、これは何を物語るのか?  津田氏が李から聞いた話では、李は「僕は軍の高等教育を受けたことがある」と言っていた。趣味の射撃は、李が「軍人」であるとすれば合点がいく。  実際、軍の射撃演習場で津田氏がみた李の射撃の腕前は相当なものだったという。 「それは凄い命中率だった。拳銃は普通、二十五メートルの距離から標的を狙うんですが、李の弾は五十メートルからでも大半が的に命中してしまった。  警察と違い、軍人は片手撃ちをやる。ところが、軍人の李が両手撃ちをやっていた。李にその理由を聞くと、『自分が軍人であることを隠すためだ』と答えました」  津田氏は李から、「僕はまだ軍籍がある」と打ち明けられていたので、自分が経営する『TAG』でパンフレットを作製する際、小道具として李から中国人民解放軍の制服、制帽を借りていた。それは、李自身が「海外に長期滞在する時は、軍規によって軍服の携帯を義務づけられている」と言っていたものだ。本物の制服には本物の階級章が縫い付けてあった。  私がその筋の専門家に鑑定してもらうと、その帽章中央の「81」という数字は、人民解放軍の建軍記念日(一九二七年八月一日)を意味した。そして、黄色の地に四本の赤線と銀色の星印が三つ付いた階級章は、なんと人民解放軍の「陸軍大佐」であることを示すものであった。もし、この制服が李の言う通り彼自身のものであるとすれば、拳銃の密売には人民解放軍そのものが関与していたということになる。  さらに、外国人登録済証明書を見ると、�国籍の属する国における住所�欄には、〈中国浙江省杭州市|軍民巷《ジユンミンシアン》19〉と書かれてあった。「巷」の文字だけがなぜか不鮮明だったので、複数の中国人の助けを借りて判読すると、つまりこれは軍人、軍属の居住区を示し、そこには一般の人の家屋も混じっているということだった。  では、李はなぜ軍人として表街道を歩かず、日本に戻って「貿易商」に扮しなければならなかったのか。李の履歴書には、同居家族として、日本人名の母親(当時47)、中国人名の父親(同51)、同じく中国人名の兄(同27)の名が明記されていた。意外なことに、李は日本人と中国人の混血だった。また、中国の少数民族である朝鮮族の血も流れているようだった。  津田氏によると、李はしばしば声を荒らげてこんな不満を漏らしていた。 「僕が中国政府にもたらした利益は数百万ドルよ! それやのに、僕には全然入って来んわ。中国政府もそれなりの給料はくれてるけど、僕の稼いでやった金からしたら、そんなもん微々たるもんやで。ほんまに! 小平なんか、海外に隠し資産が六百万ドルや。ふざけとるわ!」  李の話では、中国政府が『旭通商』の陰の経営者ということだった。 「繊維製品の輸出入」を主な業務内容にしていたが、実態は中国政府が、この会社を通して中国物資を各国に売り込み、外貨を獲得するのが目的で、実際に繊維製品も扱っていたが、本当の取扱品目は「原油と武器、弾薬や」と津田氏は聞かされていた。  李は津田氏に対し、取り引き先としてアメリカやフランス、タイ、アラブ諸国をあげていた。  しかし、李に連なる人脈を追えば追うほど謎はふくらんでいく。O氏もその一人である。  O氏のことで、李は津田氏にこんなグチをこぼしたことがあったという。 「Oとは腐れ縁があってな。彼には貸しがあるんや。それも大金よ。Oはもう少し待ってくれと言うけど、僕はもう諦めてるよ。彼はいつも金になる話を探してるよ。週に二、三回は京都の自宅に電話してきて、拳銃が欲しいと言うてな。しつこい男やわ」  O氏とは一体、何者なのか? 〈李は銃器の取り引きでOとトラブルが起きたことがあると言ってました。OはAK47を何百丁か手配するように頼み、日本円で約一千四百万円相当の手付け金を払った。李は、中国公安部の武器取り扱い会社である『京安器材進出口公司』を動かし、Oから引き渡し場所として指定されたタイ国境まで大量のAK47を運んだ。  ところが、指定期日に受取人が現われず、手付け金は違約金として『京安』に没収されてしまった。Oは手付け金の返還を迫ったが、『京安』側も特注品の製造費、輸送費用などで損害を被っています。それで金銭上のことで揉めていると李が言っていました。  Oとは、北京空港で一度だけ会ったことがあります。背丈が百六十センチぐらいで頭髪が短く刈り込まれ、織り柄の入った黒いスーツを着てましたね。目つきの鋭い中国人の二人組と一緒でしたが、その二人について李は、「僕は会ったことないが、国家安全部の人と違うか」と言ってました。李からは、Oは呉服会社の二代目だと聞かされていましたが、本人は貿易業を営んでいると話していました。そんな話の矛盾もあり、また外見がどう見てもヤクザ風なので、不審な人物に思えてなりませんでした。  後にいろんな人から、Oは右翼の大物として有名な人物だとか、京都の大物ヤクザと親しい間柄だといった噂を耳にしました。Oの住居は京都府にあるそうですが、活動拠点は主に東京のようです。とにかく正体がよくわからない人物で、背後関係もかなり複雑なようです。そのOと李は来日直後からの付き合いだということです〉  私は、津田氏の証言を頼りに関西の組関係者や、右翼団体の代表者に接触して、O氏の周辺を洗った。しかし、いずれも「Oという名前の右翼やヤクザは関西で聞いたことがない」という返事だった。そして偽名や通称名で活動している可能性も指摘された。その後、しばらくして京都府内にあるO氏の現住所と貿易会社の名称を割り出したが、地元の電話帳には名前も社名も掲載されていなかった。また、全国の有限および株式会社を網羅している信用調査機関に問い合わせても、法人リストにそれらしい会社は記録されていなかった。そのうち、私の耳に妙な話が伝わってきた。その内容は、「Oは共産圏担当の公安警察関係者が中国情報収集のために泳がしていた|S《エス》ではないか」というものだった。|S《エス》は、警察や暴力団のあいだではスパイを意味する隠語だが、これでO氏の人物像はますます謎めいたものになってしまった。  私はさらに李のルーツを探った。京都市左京区の太秦《うずまさ》映画村にほど近い、来日当時の李の住所を訪ねた。  そこには十世帯の木造アパートがあった。家族の姿はすでになかった。一家の暮らしぶりを知る住人も一人もいなかった。部屋は六畳と四畳半の二間に風呂、トイレ付き。家賃は当時二万八千円ほどだった。  両親は七九年四月、息子二人を京都に残して、このアパートから千葉県松戸市の高層マンションへ引っ越していた。私はこのマンションにも足を運んだ。同じフロアに住んでいた主婦の一人は、「あのご夫婦は近所付き合いを避けていたように思います」と語った。 「ずいぶん前に引っ越されましたが、ご主人がどんな仕事をしていたのかまったくわかりません。奥さんと一緒に家にいることが多かったみたい。お二人ともいつもきちんとした身なりで、いかにもインテリといった感じの人でしたね。当時の家賃は七、八万円だったと思いますが、お金に不自由している様子はありませんでした。息子さんなのか、たまに男の人が出入りしていました」 李大容の母親が語る一家のドラマ[#「李大容の母親が語る一家のドラマ」はゴシック体]  両親はここに九年ほど住み、八八年三月には、横浜市金沢区の高級賃貸マンションに引っ越していた。私は早速、そのマンションを訪ね、オートロックの玄関ドアのインターホンを押した。応対に出たのは、李の母親だった。 「どうしても聞きたいというのなら、入って下さって結構ですよ」  とあっさり取材を受け入れた。  じつは、両親と兄が住むこのマンションは、李が中国へ逃げた三カ月後に大阪府警の家宅捜索を受けた。李と同様、兄も拳銃を隠し持っているのではないかと睨まれていたのだ。  母親は李の逃亡直前、津田氏と電話で「兄はおとなしいけど、弟(李)は鉄砲玉でね」と話していた。  部屋に招かれると、私は李が大阪府警から銃刀法違反(拳銃密売)容疑で指名手配され、中国へ帰国してしまった経緯について訊ねた。  母親は強い口調でこう言い返してきた。 「帰ったんじゃないですよ。仕事で行ってるんであってやね。何もそんなことで帰国してるわけじゃないですよ。もしも、おたくが言うようなことがあったとしたら、日本の警察だって政府を通じて何とかするでしょ」  母親は最初、李の拳銃密売の事実、そして指名手配されていることさえ認めようとしなかった。うろたえた様子はほとんど感じられず、毅然とした態度で質問に答えた。  李より二歳年上の長男は、「中国南方射撃場日本総代理」の肩書きを持ち、日本人客を対象にした中国への射撃ツアーを主催していた。ツアー客の何人かが、長男が現地で人民解放軍の制服を着用しているのを目撃していた。  私は李兄弟が揃って軍籍を持っているのではないかと訊ねた。 「まさかあ。私の息子ですけど、そんなことは知りませんわ。うちは軍に関係ないもん。うちは文人ですから。うちはみんな勉強するほうですから。軍の制服くらいなんぼでも買えますよ、そんなもん。解放軍の制服はね、普通の民兵とあんまり区別はないですけどね。そんなもん、あんた、借りて着るくらい、別におかしくも話のタネにもならないじゃないですか」  彼女は驚くどころか、躍起になって自分の息子と軍との関係を否定しようとした。母親は、息子の李大容が経営する『旭通商』の監査役にも名を連ねていた。これについても、 「息子が勝手に私の名前を使ったんでしょう。私は知りません。それに会社はとっくに潰れたでしょう」  と言い切った。 『旭通商』は母親の言う通り、確かに八九年十二月に職権解散させられている。それは京都地方法務局に役員変更の通知を二年間怠ったためだ。その一年後に、李兄弟は二人で『アクセス』という有限会社を京都市内で設立している。  母親は口では知らないと言うものの、ことの経緯は意外に正確に把握しているように見受けられた。しかし、津田氏と電話で話したことに触れると、名前も声も聞いたことがないと強く否定した。母親とは縁戚関係だという前述したU氏の名前を出しても、即座に「知りません」という返事が返ってきた。  李について、母親はこんな話もした。 「親から見れば、バカな息子だなあと思うこともありますし、優秀だなあと思うこともありますしねえ。でも、決して悪い男ではありません。彼はお正月のときくらいしか帰らないし、何をしているのかわからないんです。  嫁だって向こうから電話がかかってこない限り、自分からは連絡できない。この問題は結局、自分で片づけるしかないですよ。親がどうこうしても、どうにもできない。でも、私は彼は帰ってくると思いますよ。密航なんかじゃなくて、堂々と成田とか大阪の空港から入ってきますよ。彼はそういう人間です」  嫁というのは、李が会社設立後に結婚した日本人(39)である。彼女は京都市内の某私大の外国語学部言語学科を卒業し、中国語が堪能だった。  母親によると、李の父親は戦争中に来日して旧制一高から京都大学へ進み、建築学を学んだ。そして戦後の昭和三十年前後、李兄弟が幼稚園児の頃に父親の出身地である中国浙江省へ一家で引き揚げた。父親の実家は裕福だったという。  父親は浙江大学で建築学を教えていた。�高級知識分子�として弾圧される立場にありながらも、どうにか文化大革命の嵐をくぐり抜け、日中国交正常化後の七三年から七九年にかけて、一家は再び日本に戻って来た。父親は七九年頃から数年にわたって、筑波大学で比較文化論を講義するようになり、その後、宝飾関係の会社を設立して現在に至っている。 「私たちも戦後の激動のドラマを経験しました。中国へ行ってからも、そりゃあ、いろいろありました。こんなことは私たちの世代で終わりにしたいですね。でも、中国の人は心が大きいですよ。日本人は自分で産んだ子供を置き去りにしてしまったのに、中国人はそんな他人の子供まで育ててくれたんですから」  李一家は、日中の不幸な歴史の狭間《はざま》で翻弄されたようだった。文化大革命にも大きく揺さぶられたようだ。一家はそこで何か目に見えない大きな運命を背負わされ、そして混血として生まれた李大容は、結局、拳銃密売に利用されたような気がしてならなかった。  中国は一九八五年以来、人民解放軍の兵員削減を進めてきた。総兵員は、九四年までの九年間で約四百万人から二百三十万人まで削減しつつある。しかし、ここで問題なのは、兵員削減による膨大な余剰兵器と中古武器の行方である。単純に計算しても、百七十万丁の銃火器が宙に浮くことになる。それらの一部がすでに日本に密輸されているのは、津田氏の証言や増加する一方の中国製トカレフの押収数からも明らかだろう。 中国大使館から届いた「抗議書」[#「中国大使館から届いた「抗議書」」はゴシック体]  日本の警察当局がその流入経路をつかんだのは、過去にたった一件しかない。  八八年から九一年にかけて、広東省広州市にある「北方工業公司」の出先機関から約二千三百丁のトカレフが流出した。それが福建省などの港から漁船で和歌山県那智勝浦沖合まで運ばれ、関東周辺の暴力団関係者に売却された。  この一件では、約九十丁のトカレフが押収された。主犯の暴力団幹部が逮捕され、ことの経緯を供述した。にもかかわらず、中国側は日本当局に「確かに中国製の拳銃だが、日本には送っていない。第三国向けに送るはずのものが、何かの手違いで日本に行ってしまったのだろう」と説明したため、結局、証拠不十分で不起訴処分になっている。  こんな馬鹿なことがあっていいのか。  押収を免れた二千二百丁ちかいトカレフの一部が、歌舞伎町にも流れ込んでいる。私は関係者の証言から、そうしたトカレフが日本で暗躍する中国人や台湾人などの犯罪グループに拡散し、ついにはイラン人によって実弾三十発付きで一丁三十万円で銃マニアなどに売却されていることを確認していた。  ある組関係者もそのトカレフを十七丁隠し持っていたが、それは旧五一年式と現五四年式の部品を組み合わせた再生拳銃で、「威力は凄いが、暴発の恐れもある」という危険極まりない代物だった。こんなものは外国ではまず売り物にならず、最大のマーケットが日本だった。最近、中国製トカレフを使った殺人や企業幹部襲撃事件が相次いで起きているが、日本への拳銃流出は、そういった犯罪の輸出も意味していた。  警察庁の統計によると、九三年の一年間に押収された拳銃は一千六百七十二丁で、前年に比べて二百六十丁ちかく増加している。拳銃の押収先は、かつては非暴力団員、つまり一般人の比率が一〇パーセントに過ぎなかったのに、今ではそれが三〇パーセントを越えようとしている。  拳銃が麻薬とともに治安の根幹を脅かす元凶であることは、米国の例を見ても明らかである。  私は考え込んでしまった。李大容のような拳銃密売の秘密エージェントが一体、中国から日本に何人送り込まれているのか。そして、日本の外務省はなぜ中国政府に抗議しないのだろうか……。  そんなことを考えている矢先だった。中国政府に抗議するどころか、逆にこちらのほうが中国側から抗議を受ける立場に立たされてしまった。李大容関連の記事が「週刊文春」に二度にわたって掲載されたのは、九三年八月下旬だった。東京・港区元麻布三丁目の中国大使館から書留郵便で送付された「抗議書」(九三年九月九日付)には、ワープロで次のように打ち込まれていた。 〈「週刊文春」が今年八月二十六日号及び九月二日号に載せたいわゆる在日中国大使館外交官と領事館領事が日本での拳銃密輸や密売にからんでいるというでたらめな記事は、まったく事実無根の捏造と中傷である。周知のように、中国政府は一貫として武器の密輸と密売に反対する立場を取っている。「週刊文春」社の上述の報道は、「報道の客観性と真実性」という原則に完全に背いたものであり、在日中国大使館と領事館及び外交官の名誉をひどく傷つけたものである。これに対し、在日中国大使館は深く遺憾の意を表わし、かつ又抗議する。そして、本件によって持たされた悪影響を無くすために、「週刊文春」社が公に謝罪し、又今後、類似の記事を再び載せないことを約束するよう求める。日本国駐在中華人民共和国大使館〉(原文のママ)  宛て先を〈「週刊文春」雑誌社〉とした横長の封筒の左上には、大使館の名称と所在地が刷り込まれていた。私は、抗議書の中の〈でたらめな記事〉というくだりに気分を害していたが、しかし、それも封筒の右上に貼られた二枚の切手の絵柄を見ていたら、どうにか気持ちが治まった。左側の一枚を見ると、切れ長で伏し目がちの観音菩薩像が、半眼のおだやかな表情を浮かべていた。右側のもう一枚は、渋く美しい色彩のキジバトだった。この二枚の組み合わせは偶然だろうが、そのキジバトが、観音菩薩像を前にして、首をすくめるような恰好で左を向いていた。そこには、殺伐さとはまったく無縁な世界が静かに流れていた。  私は、趣味で何度か仏像を彫ったことがあるが、歌舞伎町で取材を始めてからは、庭に積んだ太い丸太を眺めるだけで、鑿《のみ》は一度も握っていない。中途半端な仏心《ほとけごころ》は、この種の取材では逆に邪魔になり、判断を鈍らせる恐れがある。じつは、この李大容の正体を追っている最中にも、自宅周辺に不審な動きがあった。深夜、タクシーで帰宅して十分ほど経つと、それまで人気《ひとけ》がなかった自室の斜向かいにある共同駐車場に必ず、黒い大型乗用車が現われた。車はライトを消しているので、運転者の顔も車内に何人いるのかもまったく見えない。こちらが部屋を真っ暗にして、カーテンの隙間から目を凝らしていると、車はいつも三十分ほどして、無灯火で駐車場から出て行った。  中国大使館から届いた先の抗議書には、直径が約四センチの大使館専用の丸印が押されていたが、しかし、本来は併記すべき担当責任者の名前は見当たらなかった。それに、こちらが連載記事の中で正体の一端を明かした李大容に関しては、一行も触れられていなかった。  何があったのかはわからないが、その後、中国公安部は、外国人観光客に人気があった実弾射撃場で、人民解放軍の銃を使うことを禁止する通告を出し、さらに銃器、弾薬の密輸、密売などを厳しく取り締まる通達も出している。中国でもそれだけ銃器犯罪が増加していることの表われでもある。一方では、国家行政機関や党の高級幹部に対する反腐敗闘争も続いている。一部の外交官が関与しているといわれる日本への拳銃密輸は、彼らが強力な外交特権に守られている以上、その真相は、中国政府だけが自ら解明できるのである。 [#この行1字下げ]註:李大容は、記事掲載から約二年後の九五年秋、中国から空路舞い戻ったところを大阪府警に銃刀法違反容疑で逮捕された。その後、密売銃器の入手径路や背後関係は未解明のまま、大阪地裁から懲役三年執行猶予五年の有罪判決が下った。 [#改ページ]  蛇頭《スネーク・ヘツド》が腕時計に突き立てたナイフ  私は、前述したように日本に持ち込まれるコカインの供給源となっているコロンビア・マフィアの動きも追っていた。  コカイン密売では、歌舞伎町の台湾マフィアがブツの保管場所を提供したり、不良イラン人が密売役を引き受けたりしてコロンビア・マフィアと裏で結託していた。  そして、九三年七月ごろからそれに新しいグループが加わったと、ある日本人から聞かされた。新しいグループとは、七、八人の中国人のことで、それも歌舞伎町にちょくちょく顔を見せる密入国者だという。  不良イラン人のように街頭で売り歩くなど、直接密売に手を出すところまではいっていない。その代わり台湾やコロンビアのマフィアの指令に従って、東京や名古屋、関西方面を往復しながら覚醒剤やコカインなどを運んでいるというのだ。 「台湾やコロンビアのマフィアの子分みたいなもんだ。だが、日本で麻薬の運び屋をやったところで、大した金にはならん。連中は別のことで稼いでいるんだ。あちこち麻薬を運んだついでに、スリや引ったくり、強盗もやっている。交通費はマフィア持ちだから、元手は何もかかっちゃいない」  中国人密航者がコロンビア・マフィアとつながっているという話は、初耳だった。  彼らがどのような素性を持つ人間で、中国からどのようにして日本に密航して来たのか。その男に訊いても、「わからない」と首をかしげるばかりだった。  中国人密航者は、「蛇頭」(スネーク・ヘッド)と呼ばれる密航斡旋組織への手数料として本国での年収の十年、二十年分に相当する大金を注ぎ込んでいる。だから警察に捕まって強制送還されることを何よりも恐れる。手数料は、ほとんどが周囲からの借金で賄っている。日本で元を取る前に送還されたりすれば、借金に追われるばかりか、命を狙われる危険性だってある。  その結果、中国人密航者は、同じ中国人に対しても、密告を警戒して身の上話は決して明かそうとしない。ましてや日本人の私に、自分が密航者であることなど認めるわけがない。  中国系マフィアの実態を探っているうちに私は偶然、中国人密航者と歌舞伎町で会ったことがあった。密航者は、歌舞伎町のさる台湾人が関係するクラブで用心棒をしながら、店の掃除、皿洗いなどをしていた。しかし、この男は「お金たくさん欲しいから、強盗でも人を殺すことでも、何でもするかもしれない」と言い残して私の前から姿を隠してしまった。 改革から取り残されて密航[#「改革から取り残されて密航」はゴシック体]  これまでの統計によると、九一年に検挙された密入国者は三百九十六人。九二年が三百三十五人。そして九四年は、五月末の時点で四百六十人を越えている。密入国者は確実に増え、そのほとんどは中国人だ。  中国政府は現在、�一人っ子政策�を進めている。そのため、生まれても出生届を出さない「黒孩子《ヘイハイヅ》」と呼ばれる無戸籍人間が一千数百万人もいると言われている。  中国人であって中国人でない無国籍者がすでに日本へ密入国していることも十分考えられる。強制送還しようにも、中国政府から「自国民でない」と言われたらどうするのか。  それでなくても中国は改革、開放政策によって貧富の差が拡大した。取り残された農民などの低所得者層が、九〇年頃から一攫千金を夢見て日本へ密航を図るケースが目立って増加した。  九三年六月にも、北海道の厚岸《あつけし》港から中国人百一人が密入国に成功している。密航者は広東省|汕頭《シヤントウ》港から漁船で出航し、東シナ海でイカ釣り漁船『第28宝昌丸』に乗り替え、そのまま厚岸港へ向かった。  この密航事件で暴力団組長ら日本人計六人の他に、中国人、台湾人が密入国|幇助《ほうじよ》の疑いで北海道警に逮捕された。しかし、香港人と見られる送り出し側の主犯格は逃亡したままだ。  逮捕された台湾人のバッグの中から、密航中国人の働き場所として関東を中心に五十カ所以上の連絡先が記載されたリストが見つかった。密航者は警察が踏み込む前にすでに姿をくらましていた。 『第28宝昌丸』にしても、九三年四月に密航者百四十五人が鹿児島で摘発された『第38長門丸』事件にしても、共通しているのは、事件の背後に大がかりな密航斡旋組織が介在していることだ。いずれの場合も日本の暴力団関係者が介在し、『第38長門丸』事件では、広域四団体の組員らが逮捕されている。  日本側の役割は、漁船を調達して東シナ海で中国船から密航者を引き取り、日本まで運搬することだった。送り出す中国側には、蛇頭が関わった。これが密航希望者の募集から日本国内での働き口の世話まで、密航計画全体を統轄している。  蛇頭は警戒が厳しくなりつつある西日本の港は避け、これからは東北の目立ちにくい小さな漁港を上陸地として狙っている、という話も耳にした。 スネークの中の上手《うわて》が蛇頭[#「スネークの中の上手《うわて》が蛇頭」はゴシック体]  密航に関わる人脈は、華僑系ネットワークを中心に香港、台湾、米国、日本など世界各地に広がり、必要に応じて役割が分担される。『第38長門丸』事件では、暴力団関係者に密航者運搬の仕事を持ちかけたのは、日本在住の元台湾人留学生だった。  密航手数料の全額を出発前に払えず、一割から二割の頭金だけ払って密航した者は、目的国で残金を徴収される。その取り立て役も配置されているというから恐れ入る。  二年ほど前に密入国して都内のスナックで働いている中国人女性は、 「払わなければ私が殺される。私が逃げれば中国にいるお父さんお母さんが殺される」  と首をすくめた。  蛇頭に代表される密航組織全般を台湾では、「人蛇集団《レンシヨージートアン》」と呼んでいる。台湾には、求職目的だけではなく、大陸で当局から追われている政治犯や犯罪者も密航組織によって入ってきている。同じルートで武器、麻薬なども密輸されている。しかし、台湾の警備艇は、最高速度が時速三十八ノットまでしか出ないので、四十ノットで逃げる相手の高速艇を追尾することはできない。密航ブローカーが蛇頭と呼ばれるようになったのは一九七〇年代の半ばからだった。  文化大革命の末期、紅衛兵や解放軍兵士、民兵などが�赤い中国�に嫌気がさして、こぞって香港に脱出した。山を越え、海を渡って越境に成功した彼らは、危険地帯をまるで蛇のように脱出してきたことから、「スネーク」と呼ばれた。  スネークの中には上手《うわて》がいて、報酬目当てに、後続のスネークに越境の手引きや職の世話をして仲間に引き入れ、賃金のピンハネをする者が出てきた。そうした者たちがいつの間にか、「スネーク・ヘッド」と呼ばれるようになったのだ。  密航ルートを探るためにはまず、密航者と接触しなければならない。情報提供してくれたさる日本人から、密航者が出入りしているらしい喫茶店を教えてもらい、早速、そこへ出掛けた。  その店は歌舞伎町ではなく、池袋駅から徒歩数分のところにあった。奥行きのある、客席の多い店で、数人の女子従業員が忙しそうに客席を回っていた。客が途絶えると、彼女たちはすぐ一カ所に集まってお喋りを始める。言葉や表情などから、アルバイトの中国人らしいとわかった。  店は確認できたものの、肝心の中国人の人相は情報提供者の話が曖昧だった。「どいつも地味な服装だから、すぐわかる」と言ったが、これだけではとても相手を特定することはできない。情報提供者は連中の顔を一度しか見ていなかった。  密航者と会える確率が高い場所は、私もここしか知らなかった。情報提供者は、「俺が顔を見れば、一発でわかる」と言うので、私はこの店でできるだけ会ってくれるようその情報提供者に頼み込んだ。  情報提供者はしかし、せいぜい週に一、二回しか時間が取れなかった。密航者が顔を見せる日とたまたまずれているのか、一カ月経っても成果はなかった。そのうち情報提供者が「こんなことをやっても、コーヒー代ばかりかかって、ムダ骨を折るだけだ」と喫茶店に行くことを嫌がり始めた。  あまりの効率の悪さに私も嫌気がさし始めた九三年九月中旬のある日だった。情報提供者とその店へ行くと、店に入って一番手前の席に目指す相手が座っていた。七、八人のグループと聞いていたが、店にいたのは五人だけだった。私が探していた、「闇に潜む�殺し屋�の群れ」の章で触れた�石垣島ルート�の男はいなかった。ポケットの時計を覗くと、夜七時を回っていた。  五つ、六つ奥の席から顔を見ると、三人は二十歳代だが、他の二人は三十歳を越えている。若い一人は、ボッチャン刈りのような髪型で、私が抱いていた密航者というイメージにはほど遠かった。身なりも白い半袖のワイシャツやTシャツと普通の服装だった。  テーブル越しに顔を近づけるようにして、情報提供者が小声で話した。 「歌舞伎町には上海マフィアの連中が多いけど、この池袋周辺は福建マフィアの勢力が強い。グループによっては裏で協力し合っているが、時々、縄張りや金銭のことでトラブってナイフで刺し合いまですることがあるんだ」  しばらくして男たちが店を出た。私は情報提供者と店先で別れ、一人で五人組を追った。すると、歩いて一、二分先にある中華料理店へまるで我が家にでも入るかのようにスーッと消えた。食事にしては時間がかかり過ぎた。客の出入りはあるが、一時間待っても、二時間待っても、出て来ない。やっと姿を見せたのは、およそ四時間後の夜中十二時ちょっと前だった。  三、四軒隣りのスナック前に立って見ていると、五人で手分けしてポリバケツを外に出したり、看板を店内に引き込んだり、閉店準備を始めた。間もなく男たちは店から離れた。この瞬間を逃せば、接触の機会が遠のく。私は思わず声が出そうになった。  私は男たちから数メートル離れたまま池袋駅で山手線に乗り込んだ。男たちが下車したのは、三つ先の新大久保駅だった。男たちは職安通りを西に向かって進み、小滝橋通りを突っ切って、さらに歩き続けた。五人のアジトは、とあるマンションの一階にあった。深夜なので部屋に明かりが灯るのを確かめてから、私はマンションから立ち去った。  五人が本当に密航者なのか、私はちょっと疑わしい気持ちだった。尾行していても、キョロキョロ周囲を見回すでもない。急に後ろを振り返ることもない。警察にいつ捕まってもおかしくないのに、妙に余裕すら感じられる。  私は翌日、池袋の中華料理店を訪ね、老店主に男たちの素性をそれとなく訊いた。  店主によると、五人は夜九時から十二時までこの店で働いていた。食器洗い、テーブルの後片付け、店の掃除などをして、食事付きで時給が八百円。それも週に二晩だけだった。 「仕事欲しいと頼まれたんで、仕方なく面倒見ている。ワタシと同じ福建省の出身だからね。皆、日本人よりも一生懸命働きますよ。昼間は日本語の学校へ行ったり、別のアルバイトをしたり、勉強とお金のことで大変よ。密入国者だって? 違う、違う。皆、学生だよ」  店主は五人が密航者であることは否定した。本当の素性を知りながら嘘を言っているのか、それとも五人に騙されているのか、判断がつかなかった。私が誰の紹介で店に来たのかと訊くと、店主は言葉を濁した。 「ちゃんとした人だけど、それは言えないね。日本に長く住んでいる中国人とだけ言っておきましょう」  私はその足で男たちのマンションへ向かった。人の気配はするものの、インターホンを何度押しても反応はなかった。 「アナタ、誰ですか? 何の用事ですか?」  数分経ってやっと応答があった。名前と職業を告げると、内鍵が回る音がして、静かにドアが開けられた。部屋にいたのは、三人だけだった。 「私は怪しい人間ではない。日本に来ている中国人について知りたいことがあるんだ。マンションの詳しい場所は絶対に明かさないから、協力してほしい」  三人は顔を見合わせて何やら話し合いを始めた。奥に目をやると、毛布やシーツ、衣類が乱雑に散らばっているのが見えた。写真らしいものは何も見えない。窓のカーテン・レールには、シャツやズボンを吊った衣紋掛《えもんか》けがいくつもぶら下がっていた。玄関はビールやコーラの空き缶で足の踏み場もないほど散らかっていた。  三人の中で一番年長らしいリーダー格の男がこう言った。 「アナタと話すよ。質問に答えます。ワタシ、何も悪いことしてないから、大丈夫。この部屋、汚れているから、どこか外へ出ましょう」  私は三人と一緒に通りかかったタクシーに飛び乗って、中央線大久保駅前で降りた。すぐ近くの居酒屋に入り、座敷席の奥に座った。  三人は名前を名乗ったが、早口なのでほとんど聞き取れなかった。向かって右側が、三十二、三歳。正面がリーダー格で三十四、五歳。携帯電話を持っていた左側は、二十七、八歳といったところだ。  リーダー格の男は、ビールを勧めるたびにグラスを空にした。両側の男は、「お酒、弱いです」と言って、ほとんど飲まなかった。  私は日本に来た時期と出身地について訊いた。すると、同じように三人とも「福建省から二年前に来た」と答えた。来日の方法については、左側の若い男が、「福建省から北京へ行って、飛行機で成田に来た」と答えた。他の二人も「同じです」と続けた。  こちらが質問しなければ、三人とも自分からは何も話さない。私は三十分ほどして、相手の反応を見るため、こう切り出した。 「中国から船で日本に密入国して来る中国人がたくさんいる。蛇頭にたくさん金を払って、船で運んでもらうんだ。蛇頭を知っているか?」  リーダー格の男はほとんど表情を変えず、こう言った。 「福建には、蛇頭が何人もいるよ。でも、ワタシは蛇頭を知らない、関係ないね」  他の二人も、軽く頷くだけで、これといって変わった反応は示さなかった。  コロンビア・マフィアとの関係について、私は知っている限りの情報をぶつけた。三人の眼が一瞬、光ったような気がしたが、やはりマフィアとの関係も全面否定した。 目つきの鋭い男[#「目つきの鋭い男」はゴシック体]  席を立つ間際、私はもう一度会ってほしい、と三人に頼んだ。三人はしばらく話し合っていたが、リーダー格の男が、「明日の夜でもいいです」と言ってきた。同じ居酒屋で約束の時間を夜十時と決めた。  翌日、約束の時間よりも十分ほど前に私は居酒屋へ入った。しかし、約束の時間が過ぎても三人は現われない。一杯食わされたかなと思ってヤキモキしていると、三十分以上遅れて男たちが入って来た。  三人は初めて見る男を四人も連れて来た。四人のうち二人は、まだ二十歳代だが、他の二人は四十歳前後。若い一人は、眉が極端に薄く、切れ長の鋭い目つきをしていた。  テーブルを囲んで私の右側に前日の三人が肩をぶつけるようにして座った。正面に年配の男二人がドッカと腰を下ろした。他の二人は、テーブルの上で腕組みをするような恰好で左側に座った。言葉を聞かなくとも、顔つきから連れの四人が中国系であることは察しがついた。  正面右側の男が、最初に口を開いた。流暢な日本語だった。 「アナタ、蛇頭のことを知りたいらしいね。コロンビア・マフィアとこの三人の関係も知ってるようだね。でも、そんなことを知って、何の意味があるの? アナタが疑っているように、この三人は飛行機で日本に来たんじゃない。お金が欲しいから、日本に来たんだ。お金のない中国人の気持ち、アナタにはわからないね。  今日は忙しい。他に何が知りたいの? 十分だけ、アナタに時間あげるよ。なんでもボクに質問しなさい」  三人が密入国者であることも、コロンビア・マフィアと関係があることも認めた。  私は時間が気になって、いつもポケットに入れている腕時計をテーブルに出した。私は思い切って訊いた。 「あなたは、蛇頭に関係しているんですか?」  男は何も答えず、薄ら笑いを浮かべた。同じ質問をもう一度ぶつけようとした、まさにその瞬間だった。  左側の目つきの鋭い男が、どこからか細長いナイフを取り出し、テーブルの上の私の時計に刃先を合わせた。そして、体重を腕に移動させるようにして、ナイフを時計に突き立てた。刃先がすべると、同じ動作を二、三度繰り返した。時計のガラスはバラバラに砕けてしまった。他の一人は、わざとらしくセカンドバッグのファスナーを開けたが、チラッと覗くと、銃口がこちらを睨んでいた。  私はとっさに身を引いたが、しばらく息ができなかった。正面の年配の男が私の顔を見据えて、低い声でこう言い放った。 「時計が腕になくてラッキーだったね。アナタになんでも質問しなさいと言ったが、ボクは反対の気持ちを言ったんだ」  男がまわりに目で合図を送ると、全員が同時に立ち上がり、何もなかったような顔をして平然と店から出て行った。私はそれから壊れた時計の破片をハンカチで拾い集めた。その時計は、私があるテレビ番組に出演した際、「粗品」として局から戴いたものだった。薄型で軽いので、私はいつもそれをポケットに入れて重宝していた。  真夜中、自宅に戻った私は水槽の前に座り込んでしまった。水槽の中には、この取材を始めてから飼い出した二十尾ほどのメダカが何事もなかったようにスイスイと泳ぎ回っていた。とても眠れそうになかった私は、メダカをしばらく眺めて、かき乱された心を落ち着かせた。  それから約一カ月後、あるルートから、時計をバラバラにした目つきの鋭い男が香港に本拠を置くチャイニーズ・マフィアの一員で、しかも蛇頭に深く関わっていることを確認した。もう一人の年配の男は台湾マフィアで、こちらも蛇頭に関係する仲間だった。一言も話さなかったが、実際は日本語が上手に話せることもわかった。  二人と面識がある組関係者にこの出来事を話す機会があった。私は「居酒屋が香港でなくて良かった」と慰められ、改めて胸をなでおろした。  時計を壊されてから二週間ほどして、私は男たちのことが気になり例のマンションを訪れた。住人の一人が「つい十日ほど前、皆引っ越してしまった。あの部屋はいまは空室になっている」と教えてくれた。密航者はまたしても闇の彼方へ消えてしまった。 [#改ページ]  |黄金の《ゴールデン・》三角地帯《トライアングル》から来た密航中国人ホステス  顔見知りのタイ人ホステスから、気になる話を耳にした。歌舞伎町に少しタイ語が話せる中国人ホステスがいて、なぜか彼女は自分をラオス人だと嘘をついているというのだ。  私の知る限り、これまで接した中国人ホステスが、客に対して自分が中国籍であることを隠すようなことは一度もなかった。この話を馴染みの中国人ホステスにぶつけると、「それはおかしいわ。何か悪い方法で日本に来たのかしら」と怪訝な顔をした。  歌舞伎町に出没する中国人密航者を追っていた私は、タイ人ホステスの話がどうにも引っかかった。十日ほど過ぎてから私はそれとおぼしき店をやっと割り出した。  その店は靖国通りから新宿区役所通りを大久保方面に向かって進み、『風林会館』の先を左に曲がって二、三分歩いた、とある低層ビルの中にあった。  店内は、十坪程度の小綺麗なクラブ風の造りだった。問題の中国人ホステスと同席するまでに私は、この店に都合四回も通った。  ホステスの顔ぶれは、日によって異なる。人数も時間帯によって数人だったり、十二、三人のこともある。三回足を運んでも、それらしき女性は現われなかった。  しびれを切らした私は、夜七時の開店直後ならホステス全員が集まるだろうと踏んで、四度目のドアを押した。  この店では、いつの間にか客が自分で指名したホステスと連れ立って、近くのラブホテル街へ消えて行く。完全な売春クラブなのだ。  料金は、飲み代を除き、前払い制で二時間三万円、泊まりで五万円。ホステスは、全員アジア系で、日本人は一人もいない。ホステスの取り分は、日本に来る前から背負わされている借金の額によって個人差があった。  開店から四、五十分過ぎて年配の客が一人で入って来た。私に続き、それが二番目の客だった。ちょっと間を置いてこんどは三十歳ぐらいの男が、やはり一人で姿を見せた。二人ともスーツ姿で、いかにも真面目なサラリーマン風だった。  九時を過ぎて客が七、八人に増えた。私の左隣りに座っていたマレーシア出身のホステスが、こう言ってビールをせがんできた。 「ウイスキーは、強いお酒ね。ワタシもう飲めないよ。別のもの飲んでもいい?」  ホステスはボトルキープした客のウイスキーをいくら飲んだところで、自分には一銭も入らない。が、この店では一本千円の中瓶ビールを客に注文してもらえば、あとで三百円がホステスに戻される。借金苦から抜け出せないでいるホステスにとって、こうした金が貴重な生活費になっていた。  ビールを注ぎながら私は、マレーシア人ホステスに顔を近づけ、小声で訊ねた。 「今日、ラオスの子来てる?」  ホステスは店内を見回してから、ちょっと不満気な顔をした。 「アナタ、ワタシを嫌いですか? ラオスの子が好きなの? 日本人は皆、ラオスの子が好きね。ラオスの子、三人いるよ。どの子?」 「知っている子はいないけど、どの子がラオスの子?」  私がすかさず言葉を返すと、三人のホステスをそれとなく指差した。それから急に思い出したように私の耳元で囁いた。 「でも、本当のラオス人は二人よ。髪の長い子は、ラオスの子じゃない。お客さんには、ラオスから来たって言ってる。でもあの子たぶん中国人よ」  黒っぽいキュロットスカートに緑がかったブラウスのそのホステスは、ほっそりした体つきで、髪が肩まで垂れていた。横顔にはまだ幼さが残っていた。  私は隣りのマレーシア人ホステスに悪い気はしたが、自称ラオス人ホステスを指名して自分の席に呼ぼうと考えた。  二、三分経ってトイレに立った。席に戻る際に、それを台湾人ママに伝えようとしたら、ママが慰めるように言ってきた。 「残念ね。これからデートなの。いま、お客さんから誘われたばかりなの。二時間後には必ず帰って来るけど、待ってる?」  私が席に戻って間もなくすると、当のホステスは向かい合っていた客と店から出て行った。  隣りのマレーシア人ホステスが、うらやましそうに呟いた。 「あの子、毎日忙しいよ。お客さんがたくさん……ワタシ、きのうもその前の日もお客さんとデートないよ」  他のホステスの話では、彼女は店一番の売れっこで、次から次と客からホテルへの誘いの指名が入るため店にいる時間は非常に短い。  自称ラオス人ホステスは店外デートから十一時半過ぎに戻って来た。ママから指名されていることを聞いて、休む間もなくこちらのボックスに来た。  私は顔がよく見えるよう真向かいの席を勧めた。 「あなたは、お客さんにすごく人気があるんだね。今日のお客さんはいい人だった? 悪い人だった?」  ビールを注ぎながら、私のほうはほんの軽い気持ちで訊いた。ホステスはビールに口をつけたあと、真面目な顔で話した。 「日本のお客さん、とてもやさしい。お客さんにワタシ、お金ないよと言うと、チップ五千円、一万円あげる言うね。日本の人、とても親切ね」  私は出身国について訊ねることはあえてしなかった。ところが、ホステスは話の途中で自分のほうから、「ワタシ、ラオスから来たね」と言い出した。  私は彼女がトイレに立った隙に、まだ一人残っていたラオス人のホステスを呼んで、彼女の隣りの席に座ってもらった。他のホステスの話では彼女は本物のラオス人だった。  二人のあいだはいやによそよそしい感じで、ラオス語らしき言葉は互いに一言も発せず、日本語でやりとりする。顔の骨格や皮膚の色の違いから、二人が同一人種でないことは誰の目にもわかる。当のホステスが、仮に中国系ラオス人であるとしても、自分が生まれ育った国の言葉を話せないというのは、いかにも不自然だった。私は、彼女がなぜラオス人を装うのか、どうにも気になって仕方がなかった。  その夜、私は「彼女と泊まりでホテルへ行きたいんだが」とママに言って、問題のホステスを連れ出した。結果がどうなるかはわからないが、本人から直接話を聞いてみたかった。すでに夜中の一時を過ぎていた。  しかし、私には最初からホテルへ行くつもりはなく、どこか適当なところで話を聞いたら、そのまま帰宅させるつもりでいた。歌舞伎町のはずれにある行きつけのスナックに誘おうとすると、ホステスは困った顔をして、「ダメ、ダメ。ママさんに叱られる」と首を振った。  店独自のシステムがあり、客とデートする場合は、チェックイン後に必ずホテルの自室から店に連絡を入れる決まりになっているというのだ。さらにホテルも指定されていた。  どうやら、店側としては、ホステスが客から金だけ受け取って、ホテルへの同伴を拒否するケースを恐れているらしかった。怒った客に匿名で警察に通報されれば、管理売春が発覚して、店が閉店に追い込まれることも考えられるからだ。私はホステスの立場も考慮して仕方なく店のシステムに従うことにし、その後、彼女の案内で、大久保一丁目の路地裏にあるラブホテルへ入った。  相手も疲れていたが、それは私とて同じだった。ホステスは、店への連絡を終えると悪戯っぽく笑いながら、「ワタシ、もう眠たいよ」と言って、服を着たままベッドに寝転がってタヌキ寝入りを始めた。そのまま本当に寝込まれては話が出来なくなるので、私は水を含ませたタオルを冗談半分に彼女の顔に被せた。すると、いかにも驚いたような声を発し、眠たそうに指で目をこすりながらベッドから起き上がってきた。それから、ビールを飲み、タバコを吸い、他愛のない冗談や歌舞伎町にまつわる話題をまじえながら根気よく話し合った末に、ホステスは自分が中国籍の不法入国者であることをようやく認めた。しばらくして近くの山手線から一番電車の通る音が聞こえてきたが、すでに彼女も私も睡魔から解放されていた。ホステスは、中国政府発行のパスポートは所持していなかった。日本にはタイの偽造パスポートで入国していた。  たどたどしい日本語や筆談などを通して、ホステスの話をまとめると、中国大陸からの予想もしなかった密航ルートが浮かんできた。そのルートで入って来た中国人は、私の知る限り、日本でこれまで一度も検挙されたことがなかった。 三万元を借金して中国脱出[#「三万元を借金して中国脱出」はゴシック体]  ──ホステスは中国南部の貴州省の農村生まれで、一九九二年まで親元で農業の手伝いをしながら紡績工場に勤めていた。そして二十一歳の誕生日を迎えた直後の同年五月に貴州省の省都|貴陽《グイヤン》市に出掛けた際、街で見知らぬ中国人男性から声をかけられた。その時、「日本へ行けば、カネが儲かる。中国のパスポートがなくても、日本へ行ける」と誘われ、とりあえず三万元(約三十六万円)の手数料がかかると言われた。彼女は実家の貧しさから両親と相談のうえ、中国脱出を決意して三万元を両親の兄弟関係から借金した。これは、彼女が紡績工場で貰っていた給料(三百十元)の八年分にあたる。  一カ月ほどして彼女は、声をかけてきた男と中国南西部に位置する雲南省の省都|昆明《クンミン》市へ向かった。他に同じ密出国目的の女性四人、男性二人が一緒だった。  木箱や布袋を積んだトラックの荷台に乗せられ貴州省を出発したが、途中で何度か警察の検問を受けた。「皆で友達の結婚式へ行く」と言うと、相手はどうにか納得したが、一度だけ、「招待状を見せろ。名前と住所を言え」と三、四人の警察官に執拗に食い下がられたことがあったという。しかし、これも、トラックの助手席に乗っていた案内役の男が、警官一人あたり百元程度の賄賂を出すことで切り抜けた。  昆明に着くと、さらに別の女性三人が加わった。ここで案内人が別の中国人に替わった。 「女の子は皆、ワタシと同じ若い子だった」  ホステスは当時を思い出しながら語った。毎晩、何人もの客を取っているので、かなり疲れている様子だった。  家を離れるときに持って出たのは、着替えの服、化粧品、そして生理用品だけ。所持金は三百数十元で、これは中国の平均的な女性工場労働者の月収に相当する。  福建省、浙江省など中国沿海部からの密航者は、漁船などで東シナ海を渡る。が、彼女の場合は昆明からさらに南に下り、川の水を飲みながら山岳地帯を何日も歩き続けた。  タイ最北部とラオス、ミャンマーが接するその山岳地帯�|黄金の《ゴールデン・》三角地帯《トライアングル》�は、イラン、パキスタン、アフガニスタン国境の�|黄金の《ゴールデン・》三日月地帯《クレッセント》�と並んで、アヘン、ヘロインの原料となるケシ栽培で有名なところだ。歌舞伎町に出回っている麻薬も元をたどればこの一帯で産出されたのだ。  彼女はこの山岳地帯を越え、やっとの思いでタイへ密入国したというのだ。 「お父さん、お母さんと別れて、三週間後にやっとタイに着いたね。ワタシ、疲れて死ぬと思った。タイに着いて、小さな町に三日か四日泊まった。小さなホテル、汚いホテルだったね」  ホテルにいる間に、越境者十人の行き先が決められた。彼女を含めた女性三人はそこから中国系タイ人と見られる男に連れられ、バスや列車を乗り継ぎながらタイの首都バンコクに出た。バンコクでは、三人とも同じホテルに寝泊まりすることになった。そこは売春宿だった。 「経営者はタイで生まれた中国人ね。ワタシ、セックス、いまも好きじゃないよ。初めてのお客さん、香港から来たおジイさん。中国人よ。経営者の友達と言ってた。二千バーツ(約八千円)渡された。苦しかった。とても悲しかったよ」  ホステスはそう言って私の前で初めて恥じらう顔を見せた。  彼女は九三年二月末まで、その売春宿で暮らしていた。彼女の客は、大半が日本人と他の東南アジア諸国から来る華僑で占められていた。経営者は日本人観光客から、ホテルのボーイや旅行会社の添乗員などを通じて女性の斡旋を頼まれる。このため、彼女は出張売春でしょっちゅうホテルへ出掛けていた。他の客の三倍以上の料金を取れる日本人は、経営者にとっても彼女にとっても、最高の上客だったようだ。  売春宿での女性の取り分は、売春料の約三割。食事代はもちろん、部屋、電気、水道の使用料、それにピル、コンドームなどの避妊具代まで差し引かれたそうだ。それでも日本人の客から貰ったチップなどを貯めて、日本に来るまでの八カ月間で約十七万バーツ(七十六万五千円相当)が手元に残った。しかし、この金はブローカーからタイの偽造パスポートを十一万バーツで買い、日本までの航空運賃を払うと、ほとんど消えた。  彼女は九三年三月中旬、入国審査官から何ら不審がられることなく、タイ人として成田から難なく入国した。  チェックアウトの時間が迫った午前十時四十分ごろである。ホステスは、こちらの質問攻めに疲れ果てて、服を着たまま私の眼の前で眠り込んでしまった。私はそのまま時間の延長をフロントに伝えた。  体を海老のように折り曲げて寝息を立てている彼女の姿を見て、私は思わず溜め息が出た。うら若く、か細い女性の何処に、このようなバイタリティがひそんでいるのだろうか。学生時代にパラパラと拾い読みした旧約聖書の中の『出エジプト記』。ほとんど忘れかけていたそんな題名が頭のなかに浮かびもした。神がユダヤの民に約束したという「乳と蜜の流れる地」──彼女にとって、歌舞伎町は一体、このような約束の地となるのだろうか。私は、寝不足からくる疲れも手伝って、何とも言えない暗い気分に陥ってしまった。  しかし、あえて突き放して考えれば、彼女の場合は、他のアジア系売春ホステスと比べて格段に恵まれているほうかもしれない。タイで稼いだ自前の金があったからだ。  ただ、いまの店やマンションを紹介してもらう手数料として、日本で暗躍している中国人、タイ人のシンジケートに計百二十万円を払わねばならなかった。これは歌舞伎町で働く彼女のような不法入国者には、いわば最低限の必要経費だったかもしれない。しかし、これもすでに返済が終わっていた。  この夜、ホステスは、私を含めて三人の客にホテルへ誘われている。二時間で三万円の客が二人で計六万円。これに、私からの泊まり料金五万円が加わって十一万円になり、その六割が彼女の取り分になる。さらに店から支払われる日当保障五千円が加算されるので、彼女は一晩で七万一千円を稼ぎ出したことになる。単純計算すると、この額は、彼女が中国脱出前に勤めていた紡績工場での給料の一年七カ月分にも相当する。  ホステスは眠りこける前に私にこう話した。 「一カ月に一回、家族へ手紙出すね。同じ貴州省に、お父さんの弟がいる。そこへ手紙出すと、彼が家族へ届けてくれる。家族も彼に頼んで、ワタシに手紙出す。近所の人、ワタシが日本にいること、誰も知らないね。上海にいると思ってる。だから、家族へ直接手紙出せない。間違って、近所の人に見られたら大変。  家族には、レストランで働いて毎日六千円貰ってると嘘言ってる。高いお金を言うと、日本で悪いことしてると心配するよ。でも、六千円のお金でも、中国では給料より高いね。二つ下の妹も、日本に来たいと言ってる。  ワタシ、歌舞伎町では、誰にも中国人と言わない。中国の女の子とも付き合わない。歌舞伎町には、中国から来た子、たくさんいる。でも信用できない。中国人は、お金ある人を見ると、その人のお金が欲しくなる。ワタシのお金が欲しいときは、ワタシを殺すかも知れない。お父さんもお母さんも、日本では、中国人に気をつけなさいと手紙で言ってる。タイのパスポートある。でも、タイ人と言わない。歌舞伎町には、タイの子もたくさんいるから、すぐ嘘がわかる。ワタシ、いつもラオス人と言うよ。ラオスの子はあまり多くないから」  しかし、私から見れば、ラオス語の話せない彼女がラオス人を装っているからこそ、疑念を抱いたのだった。いずれにせよ、中国大陸から�黄金の三角地帯�を経由して歌舞伎町に潜り込んでいる中国人女性がいるとは、私には非常な驚きだった。  最近、都内や関西の盛り場にベトナムやラオス、ミャンマー出身のホステスが徐々に増えつつある。その中には、この中国人女性と同じように、タイで入手した偽造パスポートで入国している者も多い。その気になれば、若い女性が簡単に日本へ密入国できる。密航はそれほど日常化しているのだ。  台湾人歌手のテレサ・テンが一九七九年二月二十四日、日本から国外退去処分になった。理由は二万香港ドル(当時約八十万円)でインドネシアの偽造パスポートを買い、日本に不法入国したのがバレたからだった。  現在は、当時とは比べ物にならないほど、偽造パスポートは精巧に出来ている。 新手の�韓国ルート�が判明[#「新手の�韓国ルート�が判明」はゴシック体]  新宿駅東側一帯の飲食店数は、およそ一万五千軒。バブル経済の崩壊で客足は落ちたものの、それでも界隈には連日連夜、二十万人以上が押し寄せる。だが、ネオン街の雑踏の中に密航や偽造パスポートによる不法入国者が紛れ込んでいることに気付く者はまずいまい。言い換えれば、快楽を享受している最中に、誰もそんなことに気を留めたりはしないだろう。しかし、中国人密航者を追っていた私は、街の隅々にまで足を踏み入れ、どんなささいな情報にも耳を|※[#「奇+攴」、unicode6567]《そばだ》てた。  やがて中国人社会に詳しいある人物が私に、あの『第28宝昌丸』事件の密航者二人が歌舞伎町に姿を見せた、と教えてくれた。 『第28宝昌丸』が北海道厚岸港に中国人密航者百一人を運んだのは、前述したように九三年六月。全員が密入国に成功して、大半がまだ逃げたままである。  その人物によれば、密航者二人は事件が発覚して二カ月後、歌舞伎町の中国系クラブをいきなり訪ね、「どんなことでもする」と職探しに来た。中国風の漢字の店名を頼りに何軒もの店を飛び込みで回ったらしい。  ある中国人就学生の従業員が二人の疲れきった姿を見かね、かつての自分のアルバイト先を紹介した。就学生を訪ねると、本人は「これは中国人の問題。日本人には関係ない」と言って取材協力を拒んだ。日本人と中国人のあいだには、密航に対する考え方に大きな開きがあり、この就学生も密入国という行為をさほど罪悪視してはいなかった。私は周辺に当たってついにそのアルバイト先を探し出した。  アルバイト先は、埼玉県越谷市内にある建設資材置き場だった。作業員の一人に訊くと、こんな言葉が返ってきた。 「中国人が二人、仕事がないから来たのは本当だよ。汗くさいシャツによれよれのズボンをはいてな。でも、こんな不況だもの、こっちのほうが仕事欲しいぐらいだ。人に仕事やるなんてできっこない」  一人千円ずつ渡してお引き取り願ったという。その代わり、知人を通して同じ埼玉県の本庄市内にある建設工事現場を紹介した。私はその工事現場にも足を運んだ。しかし、ここにも二人の姿はなかった。 「人の紹介なんで、一週間ぐらい雑用の仕事をしてもらった。日給八千円だった。よく働いたよ。でも、そのうち他の作業員の中から、日本語も話せないし、学生風でもないし、ひょっとしたら密入国者じゃないかっていう声が出たんだ。そんな人間を雇ってたら、大変なことになるもんな」  現場責任者は正直に話してくれた。密航者二人はその直後、例によって行方をくらましてしまった。  中国沿海部から密航を目指す者は、これまでの検挙例から中国や台湾、日本などの漁船、あるいは他の外国船籍の貨物船を使って直接日本に上陸するのが普通だった。  しかし、この他に�韓国釜山港ルート�ともいうべき新手の密航ルートが存在することが、ある関係者の話から判明した。  話は九二年春に遡る。浙江省出身の男九人が福建省の漁港から小型漁船で密出国。一夜明けて台湾の漁船に乗り替え、他の船には漁をしているように見せ掛けながら東シナ海を北上した。  男九人が東シナ海で乗り移った漁船は、日本の船ではなく、韓国の漁船だった。その後、漁船はさらに北上を続け韓国の釜山港へ入港した、とその関係者は語った。 「だが、韓国入国が目的ではないので、釜山港では一度も上陸しなかった。漁船の中に三日間閉じこもっていた。その間、この密航計画に関係した台湾籍の在韓中国人が、日本に住む仲間の台湾人と連絡を取り合って日本漁船の手配を頼んだ」 ブツで密航手数料を帳消し[#「ブツで密航手数料を帳消し」はゴシック体]  韓国漁船は釜山港から対馬海峡付近へ向かい、そこで迎えに来ていた日本漁船に密航者九人を乗り移らせた。日本漁船は玄界灘を通って博多港に入った。しかし、船が港に接岸しても密航者は船内で丸一日動かずにいた。というより、上陸しようにも上陸できない事情があった。仲間の一人が博多港に入る直前に荒波を受けて船内で転倒し、足首をくじいて動けなかったのだ。  九四年五月十八日、同じ博多湾から密入国した中国人百三十八人が、福岡市内の倉庫に隠れているところを検挙されているが、この九人は、その二年前に当局に気づかれることもなく上陸を果たしている。  次の日、上陸した九人は九州のさる暴力団に連なる日本人の男二人に連れられ、博多から新幹線のグリーン車で東京に到着。東京駅八重洲中央口の『銀の鈴』広場でさる在日台湾人と待ち合わせ、九人を引き渡した。この『銀の鈴』は、東京駅の改築工事のため、九四年八月二十二日に撤去され中央地下通路に仮移転されたが、それまでは中国人や東南アジア出身者の間でもよく知られた待ち合わせ場所だった。  密航はこうして成功したが、密航者は九人と意外に少ない。そのわりには、計画はわざわざ韓国まで経由する大がかりなものだった。しかも、博多から東京までの新幹線は特別待遇ともいえるグリーン車である。不思議に思って、私は先の関係者に訊いてみた。  関係者は「ウーン」と唸って、しばらく腕組みをした。そのあと、ついにこの密航に隠された秘密を語り始めた。 「じつは……何億円にもなるブツを運んできたんだ。上陸直後に、ある人物に渡しているが、連中は覚醒剤の原料(塩酸エフェドリン)を三十二、三キロも大陸から運んで来た。利用の仕方、売り方によっては、最終的には何億、何十億になる代物だよ。ブツは九州の組関係者、東京駅に迎えにきた在日台湾人、そして日本にいる韓国ヤクザの関係者で、三等分されているはずだ。韓国経由でワンクッション置いたのは、そのほうが安全だと見込んだからだ」  密航者九人は、通常なら一人当り二十万元(約二百四十万円)前後の密航手数料を支払わねばならない。密航志願者の中には、密航費用をつくるため、農村部から少女をさらって国内の売春業者に三、四千元で売り飛ばす事件まで起こしている者もいる。しかし、この九人は、日本では莫大な利益を生みだす覚醒剤の原料によって、密航手数料を帳消しにしたのだ。  覚醒剤の原料といえば、その後、こんな事件が摘発されている。九四年九月十八日に、福岡県警と第七管区海上保安本部が、大分県|南海部《みなみあまべ》郡鶴見町の沖合いを航行していたプレジャーボートから塩酸エフェドリン約二百二十キロを押収し、ボートに乗っていた元暴力団関係者ら日本人三人を現行犯逮捕した。これほど大量の覚醒剤原料が一度に押収された例はこれまでにない。先の関係者によれば、原料流出国の中国では、塩酸エフェドリンはタダ同然の値段で大量に調達することが可能だという。もともと中国は、エフェドリンの採取原料となる麻黄の主産地でもある。  ところで九人のうち三人は、日本で稼いだ金で中国系地下組織から香港やシンガポール、マレーシアの偽造パスポートを手に入れ、すでに米国、カナダなどへ渡ったらしい。残る六人のうち五人は、関東近辺に散らばっているが、仕事の内容まではわからない、と関係者は話した。そして最後の一人が、この関係者の情報から、歌舞伎町に出入りしていることがわかった。以前は密航仲間二人と共に長野県内で畜産関係の下働きをしていた。ところが、仲間と喧嘩別れをしてしまい、九三年五月ごろから歌舞伎町でその姿が目撃されているという。  男の顔の一部分には、幼少時に負ったケガの痕がかすかに残っているらしく、それもよほど間近で見ないとわからないらしい。  さらに取材を進めた結果、それらしき人物が歌舞伎町の中国系クラブを毎晩のように飲み歩いている、という情報を私は掴んだ。情報を収集してくれたのは、別々の店で働く複数の台湾、中国人ホステスだった。  私は、ホステスの取材協力者は一店に一人しか置かないと決めていた。協力者が一店に複数いると、情報量は多くなる反面、危険率も高くなる。客の取り合いや嫉妬から、ホステス同士が感情的に対立し、周囲に告げ口をすることもあるからだ。  ある晩、協力者の中国人就学生ホステスが、私のポケットベルを鳴らした。急ぎ連絡を入れると、ホステスは慌てた口ぶりだった。 「アナタが探している中国人の男の人がいま、うちの店に来てる。よく見たら、アナタが言ってた場所にちゃんと傷の痕があるわ。でも、アナタも顔を知ってる人よ。うちの店にも何度か来てるから。ワタシが『あの人、ホストをやってる』って、アナタに教えたことがある背の高い人よ」  確かに私はその男を店で何度か見掛けたことがあった。顔もはっきり記憶していた。だが、一度も言葉を交わしたことはなかった。 コマ劇場の裏手の傷害事件[#「コマ劇場の裏手の傷害事件」はゴシック体]  その後、私は、男が間違いなく密航者であることを確認し、その動きを徹底的にマークした。男があちこちの店で飲み始めるのは、夜十二時過ぎからだった。閉店間際の中国人ホステスに声をかけ、自分が関係している店に客として呼ぶのが目的だった。  私は、その男がある台湾クラブで飲んでいる最中だという情報を得て、店の外で待機していた。すると、男は夜中の一時ちょっと前に、仕事仲間と思われる男と店から出てきた。  身長百七十五センチ前後の痩せた体を薄いピンクのワイシャツ、真っ白いスーツで包み、上部のボタンをはずして、はだけた胸元には金色のネックレスがぶら下がっていた。どう見ても、その姿から密航者のイメージはまったく思い浮かばなかった。斜め前から「ちょっとすみませんが」と声をかけると、男は一瞬、後ずさりして逃げ出すような素振りを見せた。 「密航の経緯を知っている人物から話を詳しく聞いた」  そう伝えると、男はとたんにあたりを気にしてキョロキョロし始めた。連れの男は二言、三言中国語で何か喋ると、すぐ近くの路地へ消えた。私は、ホストよりも路地へ消えた男のほうが気になった。後ろ姿を横目で追っていると、ホストはなぜか急に気を取り直して私に食ってかかってきた。 「日本人、悪い人間よ。悪いこと、ぜんぶ中国人のせいにする。ワタシ、悪いことしてないよ。アナタ言うこと、ワタシ、何も知らないね。ワタシ、シンガポールの中国人よ。パスポート持ってるよ。何の文句あるの」  この時は内心、気が気でなかった。実は、このホストは歌舞伎町で傷害事件を起こした上海マフィアと関係がある、と聞いていたからだ。  前に詳しく触れたが、その傷害事件とは、九三年五月十四日の深夜、コマ劇場の裏手のビルで起きたものだ。日本人の客引きが、三階のフロアで立ち小便をしていた若い中国人に注意すると、四人の仲間が包丁やナイフを持ってどこからともなく現われた。日本人の一人は左手の指を根元から三本切り落とされ、もう一人は後頭部陥没の重傷を負わされた。  中国人五人は全員逃げてしまったが、しかし、その後も相変わらず歌舞伎町に姿を現わしていた。ホストを前にして、連れの男が連中を呼びに行ったのではないかと私は心配になった。私は用心深く周囲に目を配りながら、男と立ち話を続けた。事前に密航者である確証は掴んでいたが、あえてそこにはあまり触れないようにした。それに触れると、男も嫌がり、私とすぐ押し問答になった。男は最後まで、「シンガポールの中国人」で通した。 「シンガポールから来ていても、あなたは同じ中国人だ。私は、歌舞伎町の中国人の生活を知りたい。ナイフを持った怖い中国人がいっぱいいるが」  私がそう持ち掛けると、男は「それならちょっと話せる」と意外に簡単に応じてきたので、こちらが逆に驚いてしまった。こちらの立て続けの質問に対して、男は低く聞き取りにくい声で次のように話した。 「中国の人は、お金、お金、それしか頭にないね。中国の男は、中国の女から金貰うよ。ホステスに金出させる。出さないと、殴るよ。ナイフで腕切られた女もいる。殺されて捨てられた女もいる。歌舞伎町では、中国の警察の人も働いてるね。中国は給料安いよ。だから、警察やめて日本に来る。新宿、池袋、渋谷に何人もいるよ。政府に反対してる中国人を見張るために、国家安全部《グオジヤーアンチユエンブー》のスパイも来ている。台湾の女は金出さない。台湾の女に金出せ言ったら、台湾の男や、台湾クラブの面倒を見ている日本のヤクザと喧嘩になる。でも、いまは中国の男のほうが喧嘩強いね。中国人はヤクザより多いよ。ナイフ見せたら、ヤクザ、すぐ黙って逃げるね。いま、中国の男が一番怖いのは、同じ中国人。たくさんグループあって、誰が一番になるか、みんな競争してるね」  日本人の客引きを怪我させた上海マフィアとの関係についてもあっさり認めた。 「喧嘩の場所、コマ劇場の裏にある『T』というビルね。あの中国クラブにワタシも二回、飲みに行ったね。小便した男、ワタシ知ってるよ。日本人を切った他の男も知ってる。どこにいる? それは駄目。ワタシ、そんなこと教えないよ。みんな怖い男よ。自分を守るために、誰でも切る、誰でも殺すね。みんな就学生。ワタシもシンガポールからコンピューターの勉強で学校に行ってる。夜は男のホステスして、お金儲けしてる。一カ月に五十万円、六十万円、七十万円……百万円儲けることもある」  男は、事件があったビルの名称も正確に知っていた。男とは三十分ほど話が続いたが、そのうち、しきりに時計を気にし始めたので、こちらから握手を求めてそのまま別れた。最後まで仲間の姿も見えなかったので、正直いってホッとした。私は再度接触できることを期待していたが、間もなくして、この男も石垣島ルートで入って来た密航者と同じように歌舞伎町から姿を消してしまった。  この密航中国人は「中国人が一番怖いのは、同じ中国人」と語っていたが、その言葉を如実に物語るのが、九四年に入って、歌舞伎町で相次いで起きた中国人同士の殺人事件である。  二月十七日には、中国クラブ『夢心』に客として来ていた福建省の二人組が、売上金を強奪しようとして上海出身のクラブ店長をナイフで殺害。襲った側の一人も、返り討ちを食らって死亡した。この事件の裏には、偽造パスポート売買にからむトラブルがあった。店長の周旋で偽造パスポートを買ったものの、その出来が悪かったので、二人組の仲間が日本入国に失敗。事件は、購入した金の返還を要求する過程で起きた。六月八日に起きたつぎの事件も、ナイフを使っての犯行だった。中国クラブ『シャネル』にいた客の一人が、隣り合わせになった数人のグループから「一緒に飲もう。乾杯しよう」と誘われ、それを断わったところ、首にナイフを突き刺され、殺された。被害者、加害者の双方が福建省出身者だった。が、殺した男は、主に関東周辺を荒らし回る中国人強盗・窃盗団のメンバーだった。  七月十八日には、そのすぐ近くの中国風カラオケ・レストラン『KARA』で、マレーシア国籍の中国人従業員が、十数人のグループに向かって、『ここはお前たちが来る店ではない。帰れ!』と怒鳴ったところ、青龍刀《チンロンダオ》で首を切られた。被害者の首は、皮一枚残っていただけだった。  八月十日の事件も、青龍刀が使われている。『風林会館』の正面の路地にあった、中華料理店『快活林《クアイフオリン》』に、上海語を話す数人のグループが押し入り、北京出身の従業員と店に居合わせた上海出身の客を殺害した。この事件の背景には、中国系マフィアの複雑な勢力争いがあると見られているが、直接の引き金となったのは、百五十円をめぐるささいなトラブルだった。  上海出身のさる就学生ホステスは、そのトラブルの内容をこう話した。 「殺された北京の人は、ときどき、歌舞伎町の中国クラブを回って、ワタシたち中国人ホステスに弁当を売り歩いていたの。値段は千円でした。でも、殺した上海の人も、同じような弁当を売ってて、こっちは八百五十円。百五十円安いから、女の子は誰も安いほうを買います。  事件の何日か前です。二人が弁当を売り歩いていたら、ある店でたまたま顔が合ったんです。上海の人には客がたくさん集まって、北京の人は一つも弁当が売れなかった。それで頭にきて、ビール瓶で上海の人の頭を殴って、すぐ逃げたんです。殺されたのは、その仕返しなの。上海の人は商売が上手だから、北京の人たちはいつも羨ましがる。ホステスも、上海と北京はとっても仲が悪いんです」  歌舞伎町のホステスたちの動きを見ると、「黒社会」にも明らかな地殻変動が起きていることがわかる。バブル経済に浮かれていた頃は、台湾クラブのホステスは十人のうち七、八人が台湾人で占められ、大陸出身者はごく少数派だった。ところが、不況が長引くと、日本を引き揚げる台湾人ホステスが多くなり、九三年春ごろには、その比率が完全に逆転してしまった。だが、多額の借金をして日本に来ている中国人は、台湾人のようなわけにはいかない。  歌舞伎町に巣食う中国系マフィアの勢力図も、こういったホステスの動きと密接に関連している。最も幅を利かせていた台湾マフィアが、次第に鳴りを潜めつつあるのは、大陸系に数の力で圧倒されてしまったからだ。大陸系マフィアは、北京、上海、福建、広東と出身地域別にグループ化して、裏で激しい勢力争いを演じている。歌舞伎町における中国マフィアの勢力は、同郷出身のホステスの数とほぼ比例状態にある。  私は先の密入国中国人ホストと別れたあと、近くの韓国屋台で気を休めながら、男の密航過程を振り返ってみた。韓国釜山港を経由して、博多港から上陸したのは、九二年春のことだった。男たちは、密航手数料を帳消しにするために、覚醒剤の原料となる塩酸エフェドリンを三十キロ以上も中国から運んで来た。それを九州の暴力団関係者と在日台湾人、日本にいる韓国ヤクザが三等分した、と私は情報提供者から聞かされていた。  韓国ヤクザ──私は前から気になっていたが、これは日本の暴力団構成員に多い日本名を持つ在日韓国人ヤクザのことではなかった。文字通り、生まれ育った韓国から入って来るヤクザのことである。覚醒剤原料の三分の一を受け取ったということは、その韓国ヤクザが中国人密航に何らかの形で深く関わったことを意味した。釜山港を経由したところに何かの秘密が隠されているような気がした。韓国の裏組織が介在しないことには、そんなことは不可能だからである。ましてや九二年春といえば、中韓国交が樹立する以前のことだ。韓国のヤクザ事情は一体、どうなっているのか。そして歌舞伎町にも韓国ヤクザは入って来ているのか?  私は、「眞露《チンロウ》」という韓国焼酎を飲みながら、屋台の客が引き揚げるのを待っていた。ところが、厚化粧をした韓国人ホステスらしき女性三人を連れた男が、説教調の韓国語で何やら延々と話し出したために、屋台のオバサンに声を掛けるチャンスがなかなか回ってこない。ホステスらしき女性は、ビールを舐める程度で、話すでもなく笑うでもなくじっと俯いたままだった。何かのことでかなり厳しく注意されているようだった。やっと客が席を立ったのは、夜中二時半ごろだった。  韓国人のオバサンにいきなりヤクザのことを切り出すわけにもいかないので、私は軽い冗談を飛ばした。 「私、名前をオバサンというんですよ」  オバサンは目を丸くした。「名前がアジュマ(吾妻《あづま》)です」と言うと、オバサンはとたんに大きな口を開いて笑い出した。アジュマが韓国語で�オバサン�を意味することを知ったのは、ある取材で韓国へ行った時だ。ホテルのロビーにいても街を歩いていても、あちこちから「アジュマ!」と呼び掛ける声が耳に飛び込んでくるので、私はその度に周囲を見回して首筋が痛くなったほどである。オバサンの笑いが止まったあと、私は「歌舞伎町に韓国ヤクザはいるの?」とストレートに聞いてみた。特に年配の韓国人は、遠回しな言い方やあまりにも遠慮がちな言い回しをされると、北朝鮮系の朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会中央本部)に関係がある人物では、と警戒する人がいるらしい。オバサンもストレートに言葉を返してきた。 「韓国のヤクザ、たくさんいるよ。韓国クラブ、屋台、果物や靴を売ってる露店、韓国料理店……まあ、いろんな店に裏から目を光らせてますよ。歌舞伎町じゃ、韓国屋台はどの通りにもあるけど、日本のヤクザに毎月お金出してます。場所によって、三万円、五万円、七万円とかね。韓国のヤクザにも同じくらい払ってます。もちろん、払わない屋台もあります。そういう店は長続きしません。今月は苦しいって言うと、三万円を二万円にオマケしてくれることもあるし、そのへんは適当。韓国では、ヤクザのことを�カンペ�とか�マピア�って呼ぶ。�マピア�はマフィアのことよ。  ここには日本のヤクザだけじゃなく、中国、台湾とか、いろんな国のマフィアいるから、何かあったときは韓国のヤクザに頼むしかないよ。でも、ときどき怖い韓国人がいるから気をつけなよ。ナイフで脅してお金奪ったり、スリやったりね。韓国人のスリは怖いよ。抵抗したり追いかけたりしたら、本当に刺すよ。韓国のスリはどこにナイフ隠しているか、知ってますか? 手が隠れるぐらい長い袖の服を着てて、腕のところにナイフを入れている。だから、すぐナイフ出せるのよ」  オバサンが店仕舞いを始めたところに、数人の韓国人客が来た。客の前でヤクザの話題を続けるわけにもいかず、私は間もなく引き揚げたが、その時間帯に営業している屋台のほぼすべてが韓国系だった。それにしても、韓国ヤクザはこちらが想像していた以上に歌舞伎町に浸透していた。  韓国では、ヤクザ組織は国家保安法との関係で非合法なため、日本のヤクザのような組事務所は持てない。屋台のオバサンが韓国語で�マピア�と言っていた通り、チャイニーズ・マフィアやイタリア系マフィアにちかい存在である。地域ナショナリズムの強い国柄を反映して、韓国ヤクザは地縁で組織を固めているようだ。同じ地縁中心でも、中国や台湾の�幇《バン》�ほど相互扶助的色彩は強くないといわれる。  日本の植民地統治から解放された後、韓国各地に闇市が出現したが、その闇市を舞台に、それぞれ地域ごとに不良グループが暗躍した。それが一九五〇年に勃発した朝鮮動乱後の混乱期に、米軍の配給物資などを闇市場に横流ししたりすることでさらに組織化された。ところが、六一年から二十七年間にわたって続いた朴正熙、全斗煥両政権下で全国的なヤクザ狩りが行われ、延べ数万人が身柄を拘束された。しかし裏では、一部の組織が軍や警察、政治家と癒着しながら勢力を温存してきた。八〇年代半ばまでは、日本に入ってくる覚醒剤の七割以上は韓国産だった。軍事政権下でそれができたのも、そうした長年の癒着があったからである。ただ、現在は、不純物資が多いといわれた韓国産は、安価でしかも高純度の香港、台湾産に完全に押されてしまい、日本の闇市場にもほとんど出回っていない。  話は元に戻るが、韓国各地のヤクザが息を吹き返したのは、八八年に盧泰愚政権が誕生して民主化政策を打ち出してからである。拳銃を使った強盗、殺人事件が多発して治安も悪くなり、各地のヤクザが勢力争いを繰り広げた。  さる関係者が最近の韓国ヤクザについてこう語った。 「警察、政治家と癒着しているのは、以前と変わらないね。韓国ヤクザの招待で日本のヤクザがソウルへ行けば、金浦空港からホテルまで二台のパトカーがちゃんと先導してくれますよ。どんなラッシュ時でも、これでスイスイです。日本のヤクザは、パトカーの警官に一人あたり十万円もチップをはずむので、相手は大喜びですよ。  韓国には、七星派《チルソンパ》、二十世紀派《イーシツセキパ》といったヤクザ組織が百以上あって、組員は二、三千人はいますね。ただ、七星派は現在は、まわりの小さな組織を吸収合併して、七星会《チルソンフエ》という名称に変わっている。幹部の中には、日本のヤクザと兄弟盃を交わしている者もいるし、新米の組員はヤクザ作法を身に付けるために、日本の組織に留学しているくらいだ。事務所の便所掃除から挨拶の仕方、借金の取り立て、親分のガードの仕方までいろんなことを勉強する。拳銃を持って親分の両側をガードする際は、右側は右利き、左側は左利きでなきゃ駄目だとかね。  韓国は儒教の国なんで、目上の人、つまり親分とか兄貴分に対する礼儀作法は心得ているんだが、同じクラスだとすぐ意地の突っ張り合いをやって、公衆の面前でも大喧嘩をすることがある。そんなところも、日本のヤクザに注意される。  留学が終わって韓国へ帰る時は、みんなパンチパーマだね。中には日本にそのまま居残って、タコ焼きやお好み焼きなどの露店商売に精を出している者もかなりいる。歌舞伎町にも大物、下っ端が何人も来ているが、地元ヤクザとはあまりトラブルは起こしていないね。やはり同じ民族の在日韓国人ヤクザが多いから、日本のヤクザとも話が通じるのが早いというのかな。中国系のマフィアとはそのへんが決定的に違う」  次はさる韓国クラブのママの話である。 「韓国はずっと軍隊と警察が強い国でしたから、韓国のヤクザは警察をおだてるのがうまいですよ。赤坂警察署の刑事さんが、カジノバーの韓国人経営者から何百万円もお金貰って捕まったけど、警察官にお金出したり接待するのは当たり前のことですよ。  ママやってて一番困るのは、韓国人の女の子同士で喧嘩することね。お客の取り合い、化粧や服にケチをつけられたとかで、店で髪を引っ張り合って、凄い喧嘩をしますよ。顔は爪で傷だらけということもあります。韓国の子はプライドだけは人一倍高いので、同じ韓国人の私でも抑えられません。  夏は月に一、二度ですが、日本人のお客さんにサービスするつもりで、女の子に浴衣《ゆかた》を着せるんです。ところが、浴衣なんか嫌よ、と言って、それを私に投げつけてくる子がいます。十人のうち二、三人はそういう子がいますね。商売だから割り切らなくちゃ駄目よ、と注意すると、店から出て行っちゃうんです。店が忙しいときに、そんなことをされると、ママとしてはとても困ります。そんな時は、ママの力だけではどうしようもないから、韓国のヤクザに来てもらうしかありませんよ。  女の子が韓国から来るときだって、国のヤクザが関係してるんですから、それも当然です。ホステスを韓国で集めるのも、ヤクザの仕事ですね。日本人の男と偽装結婚させるときは、韓国のヤクザやブローカーが窓口の日本のヤクザに百万円から百五十万円渡し、そこから戸籍を貸してくれる人に三十万円から八十万円のお金が渡るんです。  ときどき、怖いこともありますよ。他の店に可愛い韓国人の子がいると、百万円ぐらいの前渡し金を払って、その子をスカウトするんですが、相手の店は怒りますよね。そんな時、店から頼まれた韓国ヤクザがピストル出して、店から女の子を連れて行くの。こっちもお金を損するので、別の韓国ヤクザを使って女の子を連れ戻します。結局、最後に痛い目に遭うのは、女の子ですね。  韓国ヤクザは、韓国クラブのママが仕事を終えて家に帰るとき、若い組員を四、五人出して車で送ってくれるんです。頼んだわけじゃないんだけど、結局、ボディガード代として、月に十万円から二十万円払います。女の子は十二時過ぎに仕事が終わると、同じ店でこんどはお客さんになります。経営者が変わってホストクラブになるからです。女の子は嫌で嫌で仕方がないんだけど、週に一、二回は付き合って、一回二万円ぐらい払うわね。韓国ヤクザが裏で関係しているので、いつもいつも断わることはできないですから」  話を聞いてみると、歌舞伎町に出入りしている韓国ヤクザは三十数人いて、あの手この手で小まめに金を吸い上げていることがわかった。歌舞伎町で最も器用に立ち回っているのは韓国ヤクザだ、とある組関係者が感心していたが、確かに目立ったトラブルは起きていない。歌舞伎町で飲食店を経営する在日韓国人は、そのあたりをこう説明した。 「日本の植民地支配を受けてたせいか、韓国人というのは、自分より絶対的に力が強い人間には逆らわないところもあるんですね。相手が弱いと見るととことん攻めるんですが、そうでない時は、自分の出番が来るまで黙って我慢しているようなところがある。結局、韓国ヤクザもそれと同じで、日本のヤクザや中国系マフィアには今は勝てないことを知ってるんです。出しゃばらないから、トラブルも起きないということです。それに、中国ほど貧しい人間も最近はいないし、八九年に海外旅行が完全に自由化されてからは日本にも自由に来れる。だから中国人の不良みたいに金のことで無茶苦茶なことをする必要もない」  しかし、先の密入国中国人ホストの例を見ても、韓国ヤクザは密航にまで手を出してネットワークを広げている。韓国には、中韓国交樹立に伴う台湾との断交以前から相当数の台湾籍中国人が居住している。密入国ホストが釜山港から博多港に向かう際、途中で日本漁船に乗り替えているが、この漁船の手配を在日台湾人に頼んだのが、在韓の台湾籍中国人だった。つまり、韓国ヤクザの一部は裏で台湾シンジケートともつながっていた。  ある晩、歌舞伎町の韓国屋台で飲んでいる時、私は妙な光景にぶつかった。近くのゲームセンターからイラン人と見られる男たちがひっきりなしに屋台に来て、裏のほうで韓国人の若い従業員と金の受け渡しをしているのだ。あとで聞いてみると、五百円の手数料を取って、一万円札を千円札に両替しているというのだ。後述する三人のイラン人失踪事件は、そうしたゲームセンターにたむろするイラン人から第一次情報を入手したものだった。  そして、このイラン人失踪事件にも、またしても上海から来た中国人不良グループが深く関与していた。 [#改ページ]  歌舞伎町から消えた三人のイラン人  九三年九月中旬の土曜日の夜遅く、私は顔見知りのイラン人と会うため歌舞伎町のあるゲームセンターを訪れた。  そのイラン人は、観光ビザで来日したが、滞在期限が切れたまま、約二年前から不法滞在を続けていた。埼玉や栃木、群馬県の現場を転々としながら道路舗装工事や杭打ち、バラ線張りの仕事をしていた。杭打ちは、河川、沼などの危険箇所へ子供たちが入り込まないようにするための防護柵づくりだった。長びく不況の影響で仕事はめっきり減り、月に一週間しか働けないこともある、と嘆いていた。日雇いの賃金も以前と比べて大幅に削られ、一万円が五千円に落ちた。 「テヘランに家族《フアミリー》がいます。妻《ワイフ》は二十二歳。ワタシが日本に来る前に、男の子がうまれた。ワタシの両親《ペアレント》、大学生《スチユーデント》の弟《ブラザー》が同じ家に住んでいます。ワタシは、家族にお金を送りたい。そのために日本に来たんだ。でも、仕事がないから、お金は送れないね。家族が可哀相よ。ワタシの食事も一日に一回。日本はお金持ちの国。どうしてイラン人に仕事がないの? アナタに教えてほしいよ」  前に会ったとき、イラン人は、英語の単語を混じえながら家族構成について話し、そして憤懣やるかたないといった顔で私に窮状を訴えてきた。  そんな彼にとって最大の気休めの場所が、歌舞伎町だった。土曜日の夜になると必ず、何人かのイラン人の友達と歌舞伎町に出て来て、ゲームセンターにたむろしながら夜を明かした。しかし、自分がゲームに興じられる金はない。いつも他人が遊んでいるのを背後から見つめるだけだった。  その夜も、ゲームセンターで彼の姿を見かけた。連れの友達四人とは初対面だったが、私は一緒に近くの居酒屋に誘った。私と顔見知りのそのイラン人は敬虔なイスラム教徒だった。戒律に従って、もちろんアルコール類は一切口にしない。 「日本に来るイランの男はすぐ酒とオンナを覚える。イランだったらそんなことは絶対にできないよ」  水を飲み飲み、ジャガイモのバター焼きを頬張りながら、彼は真顔で、ビールを呷《あお》るまわりの友達を睨みつけた。友達も全員、滞留期限オーバーの不法残留者だった。  しばらくしてから、私は冗談半分に聞いた。 「誰かナイフ持ってる人いる? 持ってたら、ちょっと見せてくれないか」  中の一人がズボンの裾をまくり上げ、靴下の内側から、建設現場の基礎工事で使う、表面にギザギザの凹凸がついた鉄筋棒を取り出した。黒っぽいハンカチにくるまれたその鉄筋棒は、長さは十数センチ、先端が釘のように鋭く尖っていた。 「歌舞伎町でヤクザに殴られたイラン人、たくさんいるね。目が見えなくなったイラン人もいるよ。イランでは、イスラム教徒は殴られたら、こちらも相手を殴る。両親、兄弟の誰かが殺されたら、こちらも相手の家族を殺す。十年経っても、二十年経っても、相手のことは忘れないよ。ワタシ、ヤクザに殴られたら、これで刺すよ」  彼らは、特に不良イラン人というわけではなく、私の目にはどこででも見掛けるごく普通のイラン人に映った。だが、コーランの教えを忠実に守るイスラム教徒の報復の論理だけは、歌舞伎町においても厳然と生きていた。  鉄筋棒を足首に隠したあと、こんどはポケットから数枚重ね合わせたテレホンカードを取り出した。 「これがあるお蔭で、イランにいる家族とは毎日話せるよ」  他の仲間もそれに釣られるように、「ワタシも持ってる」と言って、カードをつぎつぎ私の前に差し出した。五人ともそれぞれ十枚以上は所持していた。いずれも一枚百円ないし二百円で密売されている105度の変造テレホンカードだった。  一番安い夜十一時から朝八時までの深夜料金で東京からテヘランまで三分間約六百九十円。わずかな出費で長時間家族と話せるイラン人には便利なカードだが、NTTにすればこれほど頭の痛い問題もない。  鉄筋棒を持っていた男が話の途中で何気なくこう漏らした。 「イラン人が三人、歌舞伎町でいなくなった。今月の初めのことよ。殺されてるかもしれない。仕事もグループも違うので顔は知らない。でも、イラン人の別の友達から聞いて、三人の名前は知ってる。友達の話だと、三人とも悪いイラン人と言ってた」  こちらが差し出したメモ帳に男は、アルファベットの綴りを二、三度間違いながらも、「|MAHMUD《マームツド》」、「|HASAN《ハツサン》」、「|BAHARAM《バハアラム》」と大きな文字で三人の名前を書き連ねた。それはフルネームではなかったが、私は取材を進める糸口になるかもしれないと思った。歌舞伎町の裏側の動きに神経を集中していたので、私はこの種の情報には敏感になっていた。 三人のイラン人が消えた![#「三人のイラン人が消えた!」はゴシック体]  翌日から、イラン人が話した�九月初旬�に時期を絞って、歌舞伎町のあちこちで情報を拾い集めた。  やがて、九三年九月一日の深夜、歌舞伎町の中心部にある新宿コマ劇場のすぐ近くの路地で、刃物を持った外国人同士が派手な立ち回りをしていたことがわかった。客引きの一人が偶然、その光景を目撃していた。 「中国語みたいな言葉で叫んでいたので、中国人か台湾人がいたことは確かだ。すぐ近くに中東系の顔をした男が三、四人いた。夜遅く歌舞伎町にいるのは、ほとんどがイラン人だから、あの中東系も恐らくイラン人だと思う。日本語の怒鳴り声も聞こえたので、日本人もからんでいるみたいだった。何人もナイフを振り回しているので、怖くて近づけなかったよ。最後は中国系か日本人かは見分けられなかったけど、血だらけになった男が一人、車のトランクに放り込まれた。車も喧嘩した連中もすぐいなくなって、警察が来たときには見物人しか残っていなかった」  しかし、他の客引きの目撃したところでは、イラン人と見られる三、四人の中東系は単なるヤジ馬らしかった。彼らは、刃物を持って走り去った他の連中とは違い、ゆったりとした足取りで現場から離れていったというのだ。怪我をしている様子もなく、ナイフを持っていたという目撃証言も出てこなかった。  私はさらに聞き込みを続けた。すると、翌九月二日の夜十一時過ぎに、歌舞伎町の西側に位置する『新宿プリンスホテル』の斜め向かいの路上で、イラン人と日本人の喧嘩があったというのだ。  近くにあるスナック従業員は、その喧嘩を知っていた。 「日本人のほうは学生風の四、五人のグループ。かなり酔っていて、前から来たイラン人二人に訳もなく体当たりしたみたいだ。そのあと二、三人がイラン人に張り倒され、しばらく倒れ込んでいた。そのうち通りかかった酔っぱらいのオジサンが仲直りさせて、最後はお互いに握手して別れた。イラン人は体格がいいから、学生が何人かかっても勝負にならないよ」  たったこれだけの喧嘩が原因で、イラン人が三人も消されてしまったとは考えにくい。  私はその足で歌舞伎町の北側に隣接する大久保界隈へ向かった。すでに夜中の二時を過ぎていた。職安通りを横切り、ラブホテルが立ち並ぶ大久保一丁目の狭い路地を通り抜けようとすると、「あそびませんか?」と何人もの街娼から声を掛けられた。このあたりは、東南アジア系のなかでも特にタイ人の街娼が多いところだ。私はそのまま大久保通りに出て、別の路地へ入った。こんどは中南米系の街娼の姿が見えてきた。ペルーやボリビア国籍の女性もたまに立っているが、大半はコロンビア人だった。一帯には、毎晩、何十人ものコロンビア人の街娼が現われる。その夜は時間が遅いこともあって、七、八人が残っていただけだった。私がそこへ足を運んだのは、イラン人のポン引きから何らかの手掛かりを得たいと思ったからである。  大久保界隈にイラン人のポン引きが目立って増えたのは、九二年五月ごろからだ。最初は客として来ていた。そのうち不況で仕事にあぶれたイラン人の一部がたむろするようになり、馴染みのコロンビア人街娼と協力関係を保つようになった。イスラム教徒は、教義によって賭博行為を戒められているので、中国系マフィアのように麻雀やトランプ博打、ポーカーゲームなどを資金源にすることはほとんどない。その代わり、コロンビア人街娼に頼まれてコカインを密売してマージンを稼いだり、中には、彼女たちのヒモになって小遣いをせびる者もいる。日銭稼ぎの闘いに宗教など立ち入る隙はなく、ここでは、キリスト教徒とイスラム教徒間の厚い壁は完全に取り除かれていた。  イラン人のポン引きは、コロンビア人の街娼のためにボディガードのような役割も引き受けていた。しつこくからんでくる日本人の酔客を撃退する一方で、料金の踏み倒しや金品の強奪などを計る悪質な客に対抗するため、街娼が仕事を終えるまでラブホテルの外でじっと待っているのだ。  客の内訳は、大まかな割合でいうと、もっとも多いイラン人が五割を占め、残りをパキスタンやバングラデシュ出身のイスラム教徒と日本人が分け合っている。街娼との交渉の合間に、彼らがよくドリンク剤を飲んでいるのを見かける。しばらくしてから気が付いたが、『リポビタンD』を飲んでいるのは、ほぼ例外なくイラン人で、パキスタンなど他の国のイスラム教徒は、『ビタシーゴールド』の小瓶を持っている。なぜそうなったのか、詳しい理由はよくわからないが、彼らは、この二種のドリンク剤をセックスに欠かせない精力剤であると信じ込んでいる。  コロンビア人の街娼は、東南アジア系の街娼よりもさらにビジネスライクで許容性もあり、相手が髭面だろうが何だろうが、あまり客の選り好みはしない。料金は、二時間以内のショートセックスで三万円ないし四万円だが、イラン人のポン引きが客との交渉をまとめた場合は、街娼から一割を受け取る仕組みになっている。  警官や地廻りのヤクザを見張るのも、イラン人ポン引きの大事な仕事だった。  ある日の夕刻、こんな場面にぶつかった。警官二人が、街娼のいる路地の入口に向かって歩いて来るのが見えた。コロンビア人の街娼は、私の隣りに立っていたイラン人が頭上で右手をクルクル回すと、皆素早く建物の陰に隠れてしまった。  地廻りのヤクザに対しても、同じだった。ヤクザがショバ代名目で外国人街娼から徴収する金は、一人あたり日に三千円。ただし、仕事を休んだ場合は払わないで済む。当然、路地で客を引いている街娼の中には、ショバ代を免れようとする女性もいる。  夜の八時ごろ、見張り役のイラン人が例の如く合図を送ると、三、四人の街娼が一目散に別の路地へ逃げて行った。その直後、地廻りのヤクザが自転車でショバ代の集金に現われた。イラン人はヤクザから十メートルほど離れて様子を見守っていたが、それ以上近づくことはけっしてなかった。他の街娼から一人ひとり集金を済ませ、ヤクザが引き揚げると、逃げていた女の子たちはすぐ戻って来た。そして、見張り役のイラン人に、一人あたり千円ずつ渡していた。  街娼にすれば、ヤクザに三千円出すべきところが千円の出費で済み、イラン人にとっても、三、四千円の収入になった。しかし、彼らの思惑は一致しても、一帯でのショバ代をシノギ(稼ぎ)にしている地廻りのヤクザとは利害が直接ぶつかることになる。 「逃げ回ってショバ代を出さない立ちんぼは、車でさらって山に放り投げてくる。邪魔するイラン人も許さん。そのうち歌舞伎町、大久保から不良イラン人を一人残らず叩き出してやる」  組関係者の吐き捨てるような言葉から、ヤクザのイラン人に対する敵愾心《てきがいしん》が伝わってきた。  イラン人のポン引きに話を聞いているうち、中の一人からこんな情報が入ってきた。 不良コロンビア人が山林に[#「不良コロンビア人が山林に」はゴシック体] 「イラン人の客から聞いたよ。イラン人三人は歌舞伎町で日本人に捕まった。それから車に乗せられ、どこかへ連れて行かれた。それからどうなったか、客も知らないね。三人が捕まった時、逃げたイラン人が一人いるね。そのイラン人は、日本でオンナの人に悪いことしてる。たぶんワタシと同じオーバー・ステイの男ね。だから仲間が捕まっても、警察に行けないよ。彼の名前、ワタシは知らないね」  ポン引きの話は、歌舞伎町のゲームセンターに遊びに来ていたイラン人よりも具体性を帯びていた。それは、三人が車で連れ去られ、一人が難を逃れたという点だった。これだけの情報がイラン人のあいだに伝わっているのは、逃げた男が、そのときの様子を誰かに打ち明けているからだ、と私は思った。  私は、逃げた男の行方が気になった。イラン人への聞き込みのため、都内の盛り場を歩き、時には千葉、茨城県の常磐線沿線、埼玉、群馬県の高崎線沿線にも足をのばした。以前は日曜日ともなると、上野公園や代々木公園に一万人以上のイラン人が関東一円から集まり、情報の交換場所になっていた。ところが、一九九三年春ごろから、犯罪や違法行為の取り締まりを理由にイラン人が両公園から締め出されるようになり、その結果として情報交換の場が解体されてしまった。以後、イラン人は、東京近郊のあちこちの駅前に分散して集まるようになった。  大宮駅前で会ったイラン人に消えた三人の名前をぶつけると、こんな反応が返ってきた。 「逃げたイラン人は、ギャデルという男かもしれない」  このギャデルというイラン人は、以前、同じイラン人仲間数人と組んで上野公園でマリファナやハッシシを密売していたことがあるという。しかし、こちらが探していた男と同一人物であるという確証は何もなかった。私は大宮から上野に戻り、アメ横や上野公園の入口で変造テレホンカードを売っていたイラン人の一人にギャデルのことをそれとなく聞いた。 「アナタ、イラン人の呼び方、間違っているよ。それは、ギャデルじゃなく、ギャデ|ィ《ヽ》ルと呼ぶんだ。でも、ワタシ、そんなイラン人知らないね」  男はわざとこちらに顔を接近させ、口髭のなかから真っ白い歯を剥き出しにして、名前の中間に強いアクセントを置いた。それは、私をからかっているようでもあり、また、とぼけているようにも見えた。近くにいた他のイラン人にも声を掛けたが、皆、「知らない」と言った。情報はここでぷっつり途切れてしまった。  このあたりで変造テレホンカードを売り歩いているイラン人の中には、麻薬密売に手を出している者が確かにいて、私自身、アヘンやハッシシの購入を持ち掛けられたこともあった。西郷隆盛の銅像前で、連中が白昼堂々と麻薬の取り引きをしている場面を目撃したこともあった。どう考えても、連中が、ギャディルのことを知らないはずはなかった。  こんどは上野から歌舞伎町に向かい、複数の組関係者に接触した。歌舞伎町に限ったことではないが、ヤクザは、暴力団対策法の施行で資金源をせばめられ、飲み歩くことも極端に少なくなった。それでもネオン街の裏に流れる情報については相変わらず耳が早かった。  ある組関係者が語った。 「香港のマフィアに直接頼むと一千万円もかかるが、歌舞伎町には、何の証拠も残さず五十万円かっきりで人を殺してくれる中国系やイラン人が何人も出入りしている。外国との往復旅費を上乗せすれば、殺しはもっと完全なものになる。本名を隠して偽造パスポートで入って来てる奴が、殺したその日のうちに別の名前で日本を出て、次の日にまた別の名前で入って来ることだってできるんだ。実際に俺だって、『殺しの仕事を紹介してくれ』って、連中から三、四回頼まれたことがある。  逆に日本人に殺される外国人だっている。九三年七月ごろの話だが、歌舞伎町にちょくちょく出入りしていたコロンビア人の不良が、体をロープでグルグル巻きにされて手足を折られ、仮死状態で奥多摩の山林に捨てられたと聞いた。コカイン密売とコロンビア人の売春婦をめぐって、日本のある勢力と金のトラブルを起こしたのが原因らしいな」  しかし、組関係者からは、消えた三人のイラン人に関する情報はついに出てこなかった。私は、その日は早目に歌舞伎町を引き揚げた。新宿から自宅までの約一時間半、私は電車に揺られながら考えた。  イラン人を三人もさらった日本人とは一体、何者なのか。イラン人は何故さらわれたのか。イラン人はその日本人に殺されてしまっているのか。疑問ばかりがふくらんでいった。  行き詰まった取材が急転回したのは、それから二週間ほど経ってからだった。取材協力してもらっていた中国人就学生ホステスの一人から、店への誘いの連絡が入った。 「別の店に急に移ることになったの。三日前から新しい店で働いている。前の店はお金が一日一万円から六千円に下がって、もう生活できない。ママさんからお客と寝るように言われたけど、ワタシは断わった。こんどの店は九千円。新しいママさんから、知り合いのお客さんをたくさん呼ぶようにいわれた。アナタも遊びに来て下さい」  店は職安通りにほど近い、新宿区役所通りの東側にあった。ボックス席が十ちかくあった。その日は金曜日の夜ということもあって、店はかなり混んでいた。約二十人いるホステス全員が上海出身の中国人ということだった。  客の中に五人組の中東系と見られるグループがいた。テーブルにシーバスのボトルを二本も置き、水割りのグラスを呷《あお》るように傾けている。顔から見て、年齢は二十代後半から四十代前半まで開きがあったが、先のホステスに頼んでママに聞いてもらうと、案の定、皆イラン人だった。それまでにも何度か飲みに来たことがあるということだった。  イラン人グループが席を立ったのは、十一時半をちょっと回った頃で、いずれもかなり酔いが回っていた。私もすぐ席を立ち、イラン人に先回りして会計を済ませた。  私は、彼らと一緒にエレベーターに乗り込み、ビルの外に出たところで声を掛けた。 「皆さん、イランの方ですね」 「ワタシ、イラン、イラン人です。インシャラー!(神よ、御心のままに)」  太った大柄な男が、両手を高く持ち上げ、天を仰ぐようにして叫んだ。腹の底から絞り出すような野太い声だった。声を掛けた目的を告げると、男は一瞬、眉間に皺《しわ》を寄せ、睨むような目付きで私の顔を覗いてきた。酒のせいか、眼が真っ赤に充血していた。他の四人も何事かと思い、私のまわりに寄って来た。  私は五人のあいだに挟まるような恰好になり、まわりでペルシャ語が飛び交った。そのうち、太った男が再度口を開いた。 「イラン人にも、いい人と悪い人がいます。アナタが名前を言ったイラン人は、三人とも悪い人間です。同じイラン人が見ればすぐわかる。ワタシは、歌舞伎町の別の店で、一度、三人と会ったことあります。彼らに間違いありません。今年(九三年)の六月ごろです。他にもう一人、イラン人がいました。皆、アラクから来たと言ってました。アラクは、テヘランの南西にあります」  男は、日本語で話した。数年前から日本に住み、イランとの間を往復しながら小さな貿易会社を経営していると言った。  ここで初めて、大きな手掛かりにぶつかった。そこに至るまで、私は、歌舞伎町でイラン人らしい酔客を見掛けると、手当たり次第に声を掛けていた。こちらを警察か入国管理官と勘違いしたのか、脱兎のごとく逃げ出す者もいた。ある店では、隣席のイラン人グループにイッキ飲みを勧めていたところ、中の一人が酔って店内で暴れ出し、店から大目玉を食らったこともあった。しかし、この夜は、そうした苦労がやっと報われそうな気がした。  私は足元のおぼつかないイラン人の案内で、四人を見かけたという店へ向かった。その店は、『風林会館』からわりと近い、エレベーター付きのあるビルの中にあった。  私は、情報を提供してくれたことに謝意を表すつもりで、そのイラン人を店に誘おうとしたら、彼はとたんに弱気な顔つきになって、「ワタシ、お酒、もっと飲みたい。でも、店にはもう行けない」と言ってきた。 「九月の初めごろだった。店に行ったら、ママさんから『イラン人の客は、断わっています』と言われました。『どうしたんですか?』と聞き返すと、『悪いイラン人がいるから』と言われました。詳しい理由は言わないんです。そのとき、前に店で会ったことのあるイラン人四人が、何か問題を起こしたんだなと思ったんです」  私はイラン人とは間もなくして別れ、一人でエレベーターに乗って店のあるフロアまで行った。そこには、クラブ、スナックが何軒も並んでいて、カラオケの音がフロアの隅々まで響き渡っていた。目当ての店の前を行ったり来たりしていると、わずか十分ほどの間に中国系らしい若い男が七、八人出入りした。いずれも酒を飲んでいる様子はなく、服装から客という感じでもなかった。ヨレヨレのズボンに薄汚れたシャツを着て、何かの作業現場から脱け出してきたような者もいた。私は、目だけ動く蝋人形を思わせるような表情のないその顔つきから、以前に出会ったことのある密航中国人を思い浮かべた。  私は店の雰囲気に厄介なものを感じたので、その日は店に入らず、出直すことにした。  数日後、店の名義人が年配の日本人であることが分かった。身元を調べると、都内に住み、ある事業に関係していることがわかったが、飲食業に関わっているという形跡はなかった。  さらに取材を進めると、意外な事実が浮かんだ。ある中国系の男が店を開店するにあたって、その日本人から名義だけ借りていたのだ。現在は、同じ中国系の別の人物に又貸しした形になっている。この人物の周辺には、暴力団関係者が何人もいることもわかった。 閉店間際に奪われた売上金[#「閉店間際に奪われた売上金」はゴシック体]  私は店に入ることに逡巡したが、だからといって、避けて通るわけにもいかなかった。ともかく、店内の様子を探るため、客を装って入ることにした。ママがイラン人の客は断わっていると聞いていたが、その裏には何か複雑な事情があるような気がした。これは冒険だったが、私はあえてイラン人を同行して、ママが一体どんな反応を見せるのか、自分の眼で確かめようと思い立った。同行することになったイラン人二人は、店に入る一時間ほど前に新宿駅東口で声を掛けて誘った。 「時間がありましたら、一緒に食事をしたいんですけど」  見知らぬ日本人からの突然の誘いに、相手はかなり戸惑ったが、しばらく雑談を交わしているうちに、強張っていた顔もやわらいだ。 「日本人に食事に誘われるの初めて。とても嬉しいです」  このところ、かなりの数のイラン人と接触していたので、顔つきや服装、身のこなし方から、相手を判断する少々の自信が私にはあった。他にも何人かに声を掛けたが、イラン人と思ったのがパキスタン人だったり、イラン人はイラン人でも日本語がまだ不自由だったりして、結局、この二人に落ち着いた。  私は、東口の『高野ビル』六階にあるインド料理店でマトンカレーを一緒に食べながら、彼らの身の上話を簡単に聞いた。イラン人二人は、自分たちは、東京・江戸川区内のアパートに住み、都内の板金工場で働いている、と打ち明けた。九〇年末から不法残留で就労しているということだが、二人ともいかにも真面目そうな青年に見えた。  イラン人の中には、自分がイラン人と見られることを嫌がって、ソ連崩壊で分離独立したアゼルバイジャンやトルクメニスタンの国名を出す者もいる。イランに隣接する両国にはイスラム教徒が多いこともあって、ついその国名が出てしまうのかも知れない。しかし、自尊心が強いイラン人にとって、それはいかに耐え難いことか。犯罪に加担している一部のイラン人のために、多くのイラン人が日本人から悪人のイメージで見られているのではないかと、私は二人を前にして胸が痛んだ。同時に、問題の店へ同行するにあたって、こちらの事情を一切知らせないということで二人を騙すことになり、そのことでも非常に心苦しかった。  私は、その店が取材対象になっていることや、店に関する情報が、他のイラン人の間に漏れることを何よりも恐れた。よほど信頼を置いている協力者は別だが、この種の取材は、第三者にこちらの動きや目的を把握されないようにしながら一見自然体で立ち回ることが鉄則だからだ。歌舞伎町においては、自然体と隠密行動は私にとって同義語だった。ましてや、名刺が通用するフィールドでもなかった。だから、私の職業を知っている顔見知りのイラン人を同行させることだけは、どうしても避けたかった。  食事をした足で店へ向かい、私は二人の背中を両手で押し込むような恰好で、問題の店に入った。すると客席から小柄な女性が立ち上がり、「スミマセーン、スミマセーン」と甲高い声を発しながら私のところに飛んで来た。 「お客さん、日本の方ですね。ワタシ、ここのママやってる者です。ちょっと、ワタシの話を聞いてほしいの」  ママはこちらの腰に手を回すようにしながら、私だけを店の外に連れ出した。ドアを閉めると、彼女は小声で訴えてきた。声が震えていた。 「一緒に来た人、イラン人ですか? ああ、やはりそうですか。うちは、イラン人、ダメなの。お客さんだけならいいんですけど、イラン人は、女の子も嫌がるんです。あの口髭が気持ち悪いって。うちは、皆、中国と台湾の子なんで、髭に慣れていないの」  私が「イラン人だって客なんだから、入れてくれたっていいじゃないですか。イラン人が何か悪いことでもしたんですか?」と訊ねると、ママはやはり震えた声でこう続けた。 「何カ月か前、テレホンカードを一枚百円で売りに来たイラン人がいたの。四人です。その人たち、それから何度も飲みに来ました。そのうちひどい目に遭ったんです。店を閉めるちょっと前に入って来て、売上金を何十万円も取られたり……とにかく今日はお帰り下さい」  ママは足首まである薄い水色のドレスに小柄な体を包み、目鼻立ちの整った派手な顔をしていた。日本語を上手に話したが、日本人ではなかった。こんどは逆に私のほうからママに頼み込んだ。 「このまま帰らされたら、あの二人が変に思う。今日のイラン人は、真面目な人間です。三十分で帰りますから、席に座らせて下さい。支払いも私が持つことになってますから」  そのうち、イラン人二人が心配そうな顔をして店から出て来た。私との会話をイラン人に聞かれたくなかったのか、それとも私の話に納得したのか、ママの態度がガラリと変わった。 [#改ページ]  売上金強奪・強姦犯のイラン人を追う 「さあ、どうぞどうぞ」  ママに案内された席には、先にイラン人を座らせた。その席は、店の入口を背にする形になるからだ。私は歌舞伎町で店に入るときは、人の出入りをチェックするためにいつも入口付近を見通せる場所に座るようにしていた。  隣り合わせで座ったイラン人二人の両側に、ママがホステスを付けてくれた。ホステスはイラン人にビールを注ぎ、タバコに火もつけた。目はけっして合わせようとしなかった。会話も一切なく、私の隣りのホステスとは接客態度が大きく異なり、体も三十センチ以上離れていた。イラン人はやはり歓迎されざる客だった。 「どぉ? こういった店、好き? 女の子とこんなにして一緒に飲むの、初めて?」  黙ったままのホステスの代わりに私が声を掛けると、二人は心臓のあたりに右手を当てながら、「ビックリしてます。こんな店、初めてです」と口を揃えた。ママが付けてくれたホステスは、三人とも中国人だった。  街角でたまたま声を掛けられた日本人に、まさかこんなところにまで連れて来られるとは夢にも思わなかったに違いない。二人は座り方も背筋を伸ばしたままでぎごちなく、会話がどうにも続かない。  私はすでにイラン人四人組に売上金を奪われる事件があったことをママから聞き出していた。しかし、四人のうちの三人が何が原因で消えてしまったのか、まったくわからないままだった。  私は、何らかの感触を掴みたかった。三十分で帰ると約束したが、素知らぬフリをして居座ることにした。そのためには目の前のイラン人にもっと口を開いてもらい、店側に少しでもいい印象を与えておく必要があった。イラン人に限らず、立派な口髭をたくわえた男二人が酒席で姿勢を正して押し黙っていたら、私でも気味が悪くなる。過度の緊張は周囲から余計な不安感、警戒感を引き出すことがあるので、その点がとても気になった。  私は会話を弾ませるキッカケをつくるために、わざと場違いな話題を持ち出した。それも、彼らにとって最も身近な問題である宗教にからむ話題を選択した。 「サルマン・ルシュディ、知ってる?」  小説『悪魔の詩』の作者で、インド系英国人のサルマン・ルシュディ氏は、作品の中でイスラム教徒の宗教的感情を傷つけ、且つイスラム教そのものを冒涜したとして、イランの最高指導者だった故ホメイニ師(一九八九年六月死亡)から死刑宣告を受けていた。その二年後の一九九一年七月には、同作品の日本語版訳者で筑波大助教授だった当時四十四歳の五十嵐一さんが、何者かに首筋を切り裂かれて殺害されている。  ルシュディ氏は九三年十一月二十四日、ワシントンのナショナル・プレスクラブで、「五十嵐さんを殺したのは、中東から中国経由で日本に来た三人のテロリストだ。日本の警察当局は、その三人のうち二人の名前はすでに確認している」と情報の入手先については言葉を濁しながらも、はっきりとそう言明している。しかし、犯人は未だに捕まっていない。  二人は顔を見合わせて、ニヤッと笑った。テヘランで時計の修理店を開いていたという右側の男が話し出した。 「ワタシが日本に来たのは、一九九〇年十一月。大学の先生が殺されたこと、いま働いてる会社の社長さんから聞きました。社長さんから、『お前の国は狂っている。イラン人は要らん』と言われ、とても悲しかった。狂っているのはルシュディのほうだよ。イランではサルマン・ルシュディの名前は誰でも知ってます。ルシュディを殺せば、国から日本のお金で二億か三億円貰える。これ、本当の話よ。イラン人でも誰でもいいんだ。アナタが殺せば、アナタがお金を貰える。でも、殺すのは難しいね。イングランドの警察《ポリス》がいつもルシュディを守っている」  もう一人の男も口を開いた。彼は、一九八八年に停戦になったイラン・イラク戦争に従軍した経歴を持っていた。 「チャンスがあれば、ワタシでもルシュディを殺すよ。その日本の大学の先生は、イラン人に殺されたと思いますね。イラン人でなければ、他の国のモスリム(イスラム教徒)に間違いありません。ムハマド(予言者マホメット)やアッラー(アラーの神)のために人を殺すときは、モスリムは必ず、首を切ります。ワタシがイラクと戦ったのは、ジハード(聖戦)のためです。大学の先生を殺したのも、それと同じです」  まわりのホステスは、キョトンとした顔をして耳を傾けていた。話が一段落すると、私の隣りのホステスが、首をすくめて「何か怖い話してるのね」と呟いた。イラン人は会話を重ねたことで気持ちが落ち着いたのか、ようやくその場に溶け込んできた。  店に入ってすでに一時間三、四十分が経っていた。まだ十二時前だった。突然、入口のドアが開き、数人の若い男が入ってきた。男たちは客ではなかった。何か中国語を発しながら、全員そのまま厨房へ向かった。  前に店の下見に来た際、中国系のグループが出入りするのを見かけたが、年恰好から、その連中に違いないと直感した。  しばらくしてイラン人の一人がトイレへ立った。私はグラスを傾けながら、その後ろ姿を見送った。その直後だった。  トイレの右奥にある厨房から出てきた中国系の男と、イラン人が鉢合わせになった。中国系が仰天した顔で咄嗟《とつさ》に引き返した。こんどは厨房から中国系が何人も飛び出してきた。 ナイフを出して扉を閉めた[#「ナイフを出して扉を閉めた」はゴシック体]  トラブルが起きてはまずいので、私もあわてて立ち上がった。ママも後ろからついて来た。中国系は最初から喧嘩腰で、皆もの凄い形相をしていた。中にはビール瓶を持って、すでに身構えている者さえいた。 「どうしたんだ? 彼は俺の友達だよ」  私がイラン人の前に立ちはだかるようにしてそう言うと、ママがさらに私の前に出てきて、男たちと早口の中国語で話を始めた。男たちはその間もしきりに体を揺すって、いっときもイラン人から目を離そうとしなかった。会話の内容はわからないが、ママの話に納得していない様子だった。  イラン人は困った顔をして、私に訊いてきた。 「ワタシが何か悪いことをしたんですか?」  私はつとめて落ち着いた口調で答えた。 「いや、何もしていないよ。あなたは悪くないから、大丈夫だ」  歌舞伎町で取材を始めて不思議でならないことがあった。ヤクザや日本人の酔客が中国系の男と喧嘩になった挙げ句に、包丁やナイフで切られたという話を何度も聞いたが、中国系の男は警察やヤクザがいくら追っても、またたく間にどこかへ姿をくらましてしまうのだった。  私はその理由がわかったような気がした。あちこちの店の厨房が連中の隠れ家になっていたのだ。男たちは、ママとの話に納得したのか、ようやく厨房へ引き揚げた。イラン人二人にも先に席に戻るよう、私は促した。私はママにそれとなく訊ねた。 「彼らは、どうしてあんなに怖い顔をしてたの? 何って言ってたの?」  私の問いかけに対して、ママは「みんな、バカ。中国人もイラン人もバカね。たぶん、日本人もバカ」と意味深なことを口走った。肝心のこちらの質問にはなかなか答えず、客席ばかり気にしていた。同じことをもう一度ぶつけると、仕方なさそうな顔でやっと口を開いた。ママの答えはこうだった。 「四人のイラン人に売上金を奪われたって、ワタシが言ったわね。お客さんが連れて来たイラン人を、その四人の仲間と勘違いしたらしいの。仕返しに来たんじゃないかって」  私は、胸の高鳴りを覚えた。「仕返し」という言葉が出るからには、男たちとイラン人との間に、何らかの衝突があったということだ。それもイラン人側が、手痛い打撃を受けたことになる。私はそれ以上は何も聞かず、席に戻った。問い詰めてママを追い込めば、二度と店に来れなくなる。それに問い詰めたところで、ママが本当のことを明かすわけもない。厨房にいる男たちのことも気になった。  私はブランデーを一気に飲み干し店を出た。事情も知らされず、深夜まで付き合ってくれたイラン人二人にこんどは私のほうから何度も握手を求めた。二人のお蔭で、厨房の男たちがイラン人失踪に直接関与していることが、これではっきりした。私は二人を江戸川区内のアパートまでタクシーで送り、そのまま自宅へ向かった。一人になると疲れがドッと出てきて、急に酔いが回ってきた。  ちょっと横になろうと思ったときに、運転手が声を掛けてきた。 「お客さん、中東系の男には怖い奴がいるから気をつけなよ。仲間の運転手が三人、中東系の男に金を盗られているからね。どうもイラン人らしいが、連中はでっかいサバイバルナイフ持ってるから、抵抗しちゃ刺されちゃう。歌舞伎町から埼玉県の所沢まで乗せた運転手は、四人組に九万円も奪われた。それでも殺されなかっただけ運が良かったよ。なにせ運転手は、時間商売だからね。一、二万円の金で何度も警察に呼ばれるのが嫌だから、被害届は出さんけどね。金額が大きければ、話は別だけど」  よく喋る運転手だった。自宅までの一時間ちかく、私は仮眠することもできなかった。  それからも私は問題の店に客を装って何度も通った。ホステスから渡された源氏名の入った名刺は、十枚を越えた。こちらの求めに応じ、部屋の電話番号をこっそり教えてくれたホステスも何人かいた。  そのうち私は、複数のホステスから忌わしい事実を聞かされた。実はイラン人四人組は、売上金を奪っただけでなく、店でママとホステス二人を強姦していたのだ。  ホステスの一人が、声をひそめた。 「ちょうど店を閉めるところに、イラン人の男が四人で来たの。『トイレ貸して下さい』『ライター貸して下さい』って。ママさんは断わったんです。『ダメ、ダメ。いま、店閉めるの。急いでいる。店のオーナーが別の店で待ってるから』って。  そしたら四人がママさんと女の子二人にナイフ出して、扉に鍵をかけてしまったんです。声出してもダメね。隣りの店はもう閉まってたから。セックスされたあと、ママさんは、バッグを奪《と》られた。ママさんと店のお金、ぜんぶで八十四万円入っていたそうです」  わずか十分か十五分の出来事だった。例の中国系の男たちが厨房にいたらこんな被害には遭わなかったはずだが、その夜は、最後の客が帰ってすぐ、連中も引き揚げてしまっていた。 血のついたシャツ[#「血のついたシャツ」はゴシック体]  ホステスの話を詰めていくと、事件が起きたのは、九三年九月四日の深夜二時半過ぎと判明した。  ホステスの話は続いた。 「イラン人が逃げたあと、ママさんが近くの店で待っていたオーナーに電話したんです。オーナーはすぐ店に来て、ポケットベルで男の子を呼びました。  アナタがイラン人と一緒に飲みに来たとき、料理の部屋から出て来た子です。いつも歌舞伎町のどこかにいる怖い人たちです。上海から来た子で、何をしてるかわかりません。料理の部屋に血のついたシャツがあったのを見たことがあります。  それからみんなでイラン人を捕まえに行った。三十分ぐらいして、三人のイラン人を捕まえたそうです。一人は逃げてしまったと聞きました。イラン人は、みんなにたくさん殴られたそうです。そのあとどうなったか、ワタシはわかりません」  その話は、私が追っていたイラン人失踪の一件と符合した。  やがて別のホステスから重大な話を耳にした。 「お金|奪《と》られた二日か三日あとね、店が終わって、女の子の半分はすぐ帰りました。ワタシは最後までお客さんについてたので、帰りの準備が遅れました。その時、オーナーと男の子が五人か六人いて、客席でみんな怖い顔で話してました。ワタシ、みんなの近くに立って化粧なおしてたんです。それから別の店で朝まで仕事ありましたから。  その時、聞こえたんです。北京語でオーナーが『何回撃った?』って聞いたの。そしたら男の子が、『三回か四回撃ちました』って下手な北京語で言ってました。オーナーが『富士山まで何時間かかった?』って。男の子は、『たくさん時間がかかった』って答えてました。  みんな、ワタシがいたこと知らないね。話に夢中になって。ワタシ、こんなこと話したのアナタが初めてです」  ホステスはまた、オーナーがそのとき、男たちに金を渡す場面も横目で見た、と言った。消えたイラン人三人は、富士山麓で死体となっている可能性が強くなった。私は胸騒ぎを抑え切れなかった。  ホステスから聞いた話が事実ならば、ことは殺人事件である。私はこれ以上、首を突っ込むべきかどうか迷ったが、しかしどうしても真相は知りたかった。  イラン人がどこで取り押えられたのか、気になった。その後、店の外で接触した何人ものホステスからの情報を総合すると、その場所がほぼ特定できた。それは歌舞伎町の東側に隣接する新宿六丁目の文化センター通りだった。  店からさほど離れていない『風林会館』の前の通りを東へ二百数十メートル進むと、明治通りにぶつかる。その道路を挟んだ真向かいが文化センター通りの入口だった。この通りは、数百メートル先で職安通りの東側に抜けた。イラン人三人は、そのどこかで追っ手に捕えられた。それから先の詳しい情報は掴めなかった。  私はホステスから得た情報の中で、ママたちが襲われた直後、上海出身の男たちと共に一人の日本人が店の中国系オーナーから呼び出されている点に注目した。その日本人はイラン人を捕える現場にいたというのだ。私は、その日本人が真相を知っているに違いないと思った。 「その日本の男の人、店には来ません。ワタシも顔知りません。名前も聞いたことありません。でも、オーナーととても親しいようです。店にしょっちゅう来てる上海の男の子と外で毎日会ってるようです。昼間、上海の子が遊んでるところ、ワタシ、一カ所だけ知ってます」  ホステスの一人から聞いたその遊び場所とは、歌舞伎町のある雑居ビルの一室だった。その部屋は飲食店の看板を掲げているものの、実際は開店休業の状態だった。そこにゲーム機器を何台か持ち込み、モグリのゲームセンターになっていることも突き止めた。先の店のオーナーと例の日本人が、そのゲームセンターの経営に関係しているらしいという情報もあった。  日本人の身元を割るため、私は徹底した張り込み取材を続けた。日によって時間帯は異なるが、毎日午後になると同じ車種の車がそのビルの前に止まっていた。  ある時、目当ての日本人が車で乗り付けるところを目撃した。身なりはキチンとしたスーツ姿だが、目が異様に据わっていた。  身元は簡単に割れた。車のナンバーから所有者の住所を割り出して、その周辺取材を進めると、東京近郊のある町に住んでいることがわかった。  午前中、マンションを訪ねると、ドアの横にマジックで苗字だけ書かれた表札が掛かっていた。しかし、これは偽名だった。周辺の住民の話では、男には家族はない。ただし深夜、若い女性と一緒に帰って来ることがある、ということだった。  マンションの住民は、男に悪い印象は持っていなかった。 「生活が不規則みたいだから、サラリーマンじゃないことは確かね。何か商売でもしているのかしら。愛想はないけど、顔を合わせれば、誰にでもちゃんと頭を下げるわね。でも、ちょっと怖そうだけど……」  それから間もなくして、男は都内に拠点を持つある暴力団に所属していることが判明した。私は、とたんに気が重くなってきた。組の人間が自分が関わった事件について口を開くとは思えない。うかつな攻め方をすれば、逆にこちらに危険が及ぶのは目に見えていた。  コカインの密売ルートを探るため、コロンビア・マフィアのカウディリョを追跡した時も、最後になって暴力団の組員が出てきた。その組員は九州のさる組に所属していたが、こんどの組員は所属が広域組織である。この組員が、厨房にたむろしている上海出身の男たちとどういう関係にあるのか、まだ皆目見当がつかなかった。  すでに触れているが、歌舞伎町に出入りしている中国マフィアの手荒さには、ヤクザも一目置いているほどである。私は、歌舞伎町でこんな場面を目の当たりにしたことがある。『風林会館』の真横の歩道で、ある組の四、五人の組員と同人数の中国人グループが、道を譲る、譲らないで言い合いを始め、あわや殴り合い寸前までいったが、しまいには日本側が身を引く形で中国人グループと同じ方向に歩き出したのだ。また、次のケースにも私は驚かされた。  イラン人失踪事件の追跡取材は、九三年九月から十一月まで続いたが、それから四カ月後の九四年三月下旬のことである。  歌舞伎町のある店で、たまに顔を合わせる三十代の組員三人と飲んでいると、後から入って来た二人連れの若い中国人と席が隣り合わせになった。それからの様子が変だった。組員の顔色がなぜか急に変わり、口数も少なくなった。こちらが気になって、「何かまずいことでも?」と小声で訊くと、中の一人が「何もない」と不機嫌な顔でボソッと答える。驚いたのは、その直後である。  隣りに座っていた中国人が一人だけ急に立ち上がって組員の背後に回り、仲間が差し出したグラスに、わざと組員の頭越しにビールを注ぎ始めたのだ。私は、それが何を意味するのかさっぱりわからず、何か特別な儀式でも見せられているような錯覚に陥った。  ヤクザが人前で最も気にするのは、面子である。形はどうであれ、それを第三者がつぶせば、その先は暴力が出てくるのが普通である。双方が代紋の異なるヤクザであれば、それが切っ掛けとなって抗争に発展することもある。そんなヤクザの行動パターンを知っていただけに、目の前の中国人の振る舞いは、私には信じられないものだった。 「今日は引いていこうぜ。相手にしても仕方ねえ」  組員三人はそれとなく顔を見合わせると、中の一人がまわりを抑えるような口調でそう言った。二人連れの中国人は、組員に鋭い視線を送りながら、隣りの席で互いにビールを注ぎ合っていた。一人は茶系統のブルゾンを引っ掛け、もう一人は青緑のジャケットを羽織っていたが、それは大きすぎて男の体には不釣り合いだった。二人とも筋肉質の体型をしていて、その不敵な面構えは、目の前のヤクザにも引けをとらないものだった。 「百万円で駄目か?」  ブルゾンのほうが身を乗り出すようにして組員に声を掛けた。 「この前も言ったろ。俺たちは本当に知らねえ。誰か他の奴に聞いてみろ」  組員の一人が苛立った声で言葉を返した。この時、組員と中国人が互いに顔見知りであることに気付き、たったこれだけの会話からも双方の間に何か特別な事情があることがわかった。  時間が長引くにつれ、組員側が引っ込みがつかなくなって揉め事が起きても困るので、私は間もなくして三人を別の店に誘い出した。  そこで改めて話を聞くと、組員はこんな話を打ち明けてくれた。 「あの二人は上海マフィアだ。連中はよくやるらしいが、相手の頭の上で酒を注ぐのは、俺たちは命懸《いのちが》けでやってんだってことをまわりに見せつけるためだ。要するに、こっちを挑発してるってわけだ。ヤクザがあんなことされたら、普通はぶっ殺してやってもいいんだが、こっちはあえて我慢してる。警察に引っ張られるのも嫌だし、訳のわからん中国人を相手にしてもつまらんからな。はっきり言っとくけど、こっちが黙っていたのは、連中が怖いからじゃないぜ。  あいつら、自分のボスを探すために必死になっている。いい情報があったら、百万円出すから教えてくれというわけだ。顔見知りの中国人チンピラを通して、さっきの店で、前にもあの二人とは会ってんだが、知らねえものは知らねえと言ってやった。それでも諦め切れねえんだ。あいつらのボスは、上海の連中がリーヴン、北京の連中はリーウェンと呼んでる男だ。何があったか知らねえが、そのボスが一カ月ぐらい前に突然、行方がわからなくなったらしい。子分連中は、日本のヤクザにさらわれてどっかに監禁されているか、殺されていると思ってる。どこのヤクザの仕業か、連中はそれを知りたがっている。  ボスがヤクザと揉めてるという噂は何度か聞いた。池袋や中野あたりで、裏でポーカーゲーム店を仕切っていて、韓国花札や麻雀|牌《パイ》を使ったバクチ場もマンションで開いていたという話も聞いた。それを知った組関係者が、ショバ代、カスリを出せと言ったら、相手は、中国人が自分で儲けた金をどうして日本人のヤクザに出さなきゃならんのかと歯向かってきたらしい。  一方でヤクザに高い利息で金を貸して、取り立ても厳しかったという話も聞いた。ヤクザの中には、暴対法でパチンコ屋からミカジメ料(用心棒代)が出なくなって、代わりに玉の出る機械を教えてもらい、日に一、二万円稼がせてもらっている者がかなりいる。それでやっと食いつないでいるんだ。羽振りのいい中国マフィアを見たら、そりゃ誰でも頭にくるわな」  じつは私は、行方不明になる前、その男を二、三度、歌舞伎町で見掛けたことがあった。運転手付きの黒っぽい『BMW』を区役所通りに止め、いつも数人の取り巻きを引き連れていた。痩せ型で身長が百八十センチちかくあり、頭は短髪で童顔だった。両手首に金色の太いチェーン・ブレスレットを巻き、いつも携帯電話を握りしめていた。客引きをしている日本人の中には、「羽振りのいい中国野郎」とか、「BMWに乗った中国ヤクザ」と呼ぶ者もいた。  私は、男の正体と姿を消した背景に関心を抱き、周辺を洗ってみようと思ったが、しかし残念なことに、追突事故によるムチ打ち症(外傷性頸部症候群)の後遺症がひどく、取材は断念せざるを得なかった。その三カ月前の大晦日に、東京近郊の国道で赤信号で停車したところに、四輪駆動の『ビッグホーン』が後方から突っ込んで来て、私は車ごと十メートル以上も押し飛ばされてしまったのだ。  相手の車は、バンパー代わりの太い鉄パイプが車体からはずれて曲がり、こちらの車は後部が大破。知人に届けるつもりで車内のポリバケツに入れておいた淡水魚のタナゴ六十尾ちかくが衝撃で絶命してしまった。ムチ打ち症は、自覚症状だけで外見的な異常がないことから、サボリ病とも呼ばれるらしい。だが、実際は、手足がしびれ、頭部、頸部全体が鈍痛と重圧感に包まれ、神経組織が得体の知れない、まるでマフィアのような魔物に食い荒らされているような辛さが続く。  それはともかく、組関係者から「上海マフィアのボス」と呼ばれていた男の消息が、警察によって明らかになったのは、それから約五カ月後の九四年九月初旬だった。東京から遠く離れた、青森県北西部の西津軽郡|木造《きづくり》町にある沼地から、男は無惨にも白骨死体で発見されたのだ。男は、東京・豊島区内の高級マンションに住んでいた李文という中国人で、八七年に身ひとつで日本に入国した三十歳の留学生だった。先の組関係者が言っていた通り、李文は確かに北京語で「リーウェン」、上海語で「リーヴン」と発音される。  遺体発見の切っ掛けは、別の銃刀法違反容疑などで逮捕、起訴されていた複数の暴力団関係者の一部から犯行をにおわす供述が得られたからである。その供述によると、李は、九四年二月二十七日午後七時ごろ、自宅マンションを出たところで数人の男に拉致され殺害された。私の前で、組員の頭越しにビールを注いだ中国人二人は、李の手下だった。  ところが、遺体発見後、意外な事実が明らかになった。一部の組関係者の間で、李は上海マフィアと見られていたのだが、じつは上海出身ではなく、福建省の出身だった。  私が追っていたイラン人失踪事件に関係する厨房の男たちは、同じ中国人でも、この殺された留学生くずれのマフィアとはまったく別のグループだった。殺された中国人の活動範囲は主に池袋周辺だった。金銭上の対立から中国人マフィアを殺すヤクザもいれば、一方では逆にマフィアとグルになるヤクザもいる。失踪イラン人の消息を握っている男も、そんなヤクザの一人だった。男を攻めるには、最初の接触の仕方がやはり大きなポイントだった。  あれこれ考えた末、私は下手な小細工はせず、真正面からぶつかることに腹を決めた。  ある日の夕刻、男は一人で新宿通りに面したある喫茶店へ入った。  誰かと待ち合わせているような気配もないので、思い切って声を掛けた。 「突然で恐縮です」  私は名前を告げた。歌舞伎町で私は、相手の出方がわかるまで名刺は渡さないことにしている。男は「ハァ」と気の抜けたような声を出したあと、「俺に用事あんの? あんた、誰なの?」と聞き返してきた。 「じつは、歌舞伎町の外国人犯罪を追ってます。いろいろ調べてたら、あなたが外国人犯罪に詳しいと聞いたものですから、声を掛けさせていただきました」  男の顔色がサッと変わった。一瞬、視線をそらし遠くを見詰めるような目つきをしたが、すぐ視線を私に戻した。軽く腰を浮かして右手で椅子をずらして座り直した。そして、体が半身の恰好になるよう向きを変えた。 「あんた、刑事さんかい?」  私はここで初めて職業だけ伝えると、男は、声を荒らげた。 「人に声を掛けるときは、それを先に言うのが筋じゃねえのか」  しかし、こちらと視線はぶつかっても、睨みつけることはしなかった。肩が揺れるほどタバコを深く吸い込むと、そのまましばらく息を止めた。視線がテーブルに落ちた。吸いかけのタバコを灰皿にねじるように押し付けた。顔を上向きにすると、煙を静かに吐き出した。 「おネエちゃん、コーヒー、もう一つくれやぁ」  地声とは異なった、意外にハスキーな声が飛んだ。ウエートレスがコーヒーを運んで来ると、「ありがとう」と声を掛けた。 「これ、飲めや。ここのコーヒーはまずいけどな」  立ち居振る舞いだけで判断することはできないが、見境のつかない人間とは思えなかった。 「名刺はあるんか?」  内ポケットに何枚もあったが、私はわざとシャツの胸ポケットに指を突っ込んだ。そこにはイラン人からもらった変造テレホンカードのサンプルが数枚入っていた。 男の顔から血の気が引いた[#「男の顔から血の気が引いた」はゴシック体]  まだこちらの身元を完全に明かす段階ではなかった。 「すみません。ここに来るまで警察関係の人に何人も会ってきて、名刺が切れてしまったんです。この変造テレカ、イラン人が売ってるんですよ。歌舞伎町には、不良イラン人がいっぱいいますからね。最近、そういった連中がヤクザに殺されたという噂が流れてるんです。私もその噂を追ってまして、もうそろそろ結果が出ると思いますけどね。何か手がかりになるような情報があったら、教えてほしいんですよ」  男の顔から血の気が引いていくのがわかった。右肘をテーブルに置いたままの恰好でタバコを吹かし始めた。左手に持った黒い薄型のライターでトン、トン、トンと小刻みにテーブルを叩き続けた。小指が第二関節から欠落しているのが見えた。  警察とイラン人。この二つのキイワードは、男に相当な重圧を与えたに違いなかった。私は重い扉を開けるために、ドアのノブにやっと指がかかった思いがした。  もちろん、私が警察関係の人に会ったという話は、まったくの作り話だった。私はこの取材を始めるにあたって警察情報には頼らない方針を立て、実際、警察関係者にも接触しないできた。一度新宿署を訪れたことがあったが、これは九二年九月十五日に起きた台湾マフィアによる警官銃撃事件の公表データを得るためだった。  歌舞伎町に巣くう外国人マフィアの実態はどうなっているのか。このネオン街の最深部に沈んでいる生《なま》の情報を私は、独自に引き出したかった。  その男は、相変わらず半身の姿勢を崩そうとしなかった。途中からその姿勢で足を組み、ネクタイを大きくゆるめた。  男は話を始めた。 「ヤクザがからんだ競売の話とか、俺が刑務所に入ったときの話とか、そんなことなら、いくらでも話せるけどな。中国人の不良の話も少しは知ってる。でも、そのイラン人が殺されたって話は、初耳だな。  まあな、歌舞伎町には殺しの話はゴロゴロある。十何年前には、金や不動産でトラブって七、八人殺したヤクザがいた。今はもう歌舞伎町には出入りしてないようだが、殺人で警察に逮捕されたことは一度もないと聞いている。死体はドラム缶に生コンと一緒に詰めて、海に沈めるんだ。間抜けな奴は、ドラム缶に穴を開けないで捨てるんだな。そんなことしたら、死体が腐ったときに出すガスでな、ドラム缶が浮かんできちゃうことがあるんだよ。あんたらの知らん話は、いくらでもある」  イラン人殺害の噂については素知らぬフリをした。 [#改ページ]  ある現役ヤクザの告白  喫茶店で突然、見知らぬ人間から自分のことを聞かれたりしたら、普通のヤクザは大変な剣幕で怒るはずである。こちらの質問の仕方によっては、痛い目に遭うかもしれない。  それくらいのことは当然、私も覚悟していた。しかし、眼の前の男は、努めて平静を装っていた。表情も動かなかった。それがなんとも不自然に見えた。  こちらから口に出した、イラン人殺害の件については、あくまでも素知らぬフリをした。ただ、歌舞伎町にたむろする不良中国人との付き合いに関しては、はっきりと認めた。 「店の名前は言えんけど、俺の知ってる中国系の男が、歌舞伎町でクラブを持ってる。ここにな、上海の不良が何人も出入りしてるんだ。荒っぽい連中でな、いつも包丁を隠し持ってる。錆《さび》のこないステンレスのやつで、厚いビニール・ケースに挟んで背中のベルトに突っ込んでいる。連中にとっては、喧嘩で包丁使うのは、飯食うときに箸を使うみたいなもんだよ。  奴らはほとんど歌舞伎町にいるけど、二、三日急にいなくなるときがあってな。全国を飛び歩いて、強盗のようなことをやってるみたいだな。よく新聞に出てるだろう。目撃者の話では、逃げた犯人は、中国語のような言葉を話していたって。  ところで、さっきから気になってたんだが、誰に聞いて俺んとこに来たんだ? 誰か他のヤクザにでも聞いたんか? なんていう名前だ?」  男は「そいつの名前を答えんと、俺はもう何も話さん」と付け加えた。よくあることだが、この手の条件がいつも取材する側を悩ませる。  あるヤクザの話をもとに記事を書いた記者が、別のヤクザから情報源を明かすよう脅された。堪《たま》らず答えたところ、ヤクザの間にトラブルが生じ、記者と接触のあったヤクザが、指を詰めて一方に詫びを入れる事態にまで発展した。  また、ある記者は、関西のヤクザに脅された。そのときは拳銃を両側から突き付けられたまま、都内から千葉県内のゴルフ場に連れて行かれた。グリーンの真ん中に正座させられ、日本刀の腹で首筋をピタピタと叩かれた。満月にちかい夜だった。その記者は、後日、「お月さまがあんな暗く見えたことはない。翌日、血の小便が出た」と周囲に話していた。  男は、私が口を開くのをじっと待っていた。私はあえて毅然とした態度で答えた。 「誰から聞いたか、答えられません。それが私の主義なんです。私はどんなときでも名前や組名を出してヤクザの話をすることは、絶対ありません。ある西日本のヤクザですが、この男は人を三人殺しているんです。私はその男から直接、話を聞いています。  しかし、私はその男がどこの県のヤクザなのか、それさえも明かしたことがないんです。そういうときは、取材メモに日付けは残しても、相手の名前は書きません。紛失した場合、相手の身元が割れるからです。仮にあなたから『俺は人を殺したことがある』と聞かされても、私は同じようにしますよ。私は警察じゃないですからね。大袈裟でも何でもなく、相手の秘密は墓場まで持って行く、それが私のやり方なんです」 変造テレカは元々ヤクザが[#「変造テレカは元々ヤクザが」はゴシック体]  もともと私は、他のヤクザから聞いて男のことを知ったわけではなかった。ときどき男の目元が痙攣《けいれん》を起こしたようにピクピクと動く。 「そんなに人の秘密を握っていて、危なくないのか? 怖い目に遭うこともあるんじゃないか? 人間だから、酒に酔っぱらってうっかり口を滑らせることもあるんじゃないか?」  男はこう訊いたあとで薄ら笑いを浮かべた。 「そりゃあ、危ないこと、薄気味悪いことにはしょっちゅうぶつかってますよ。ある組から破門された覚醒剤の密売人に、歌舞伎町の近くで拳銃突き付けられたこともありますしね。それに歩いているとき、中国系の男に後ろから突然針で刺されたこともありますよ。  ただ、酔った勢いで、人の秘密をバラしたことは一度もありません。自分を守るのは、口の堅さだけですから」  男は相変わらず据わった目つきで私を睨みながら、頭を軽く振って何度も頷いた。何か言いかけたが、男はすぐ言葉を呑み込んでしまった。そして、「ちょっと電話してくる」と言って、ゆっくり立ち上がった。 「試しに使ってみますか?」  私は胸ポケットから変造テレホンカードを取り出し、冗談半分に言った。 「そんなものは、俺だって持ってる。もともとな、変造テレカを造る機械をこしらえたのは、ヤクザなんだ。学生ローンから金を借りたどっかの大学の理工学部の学生が、利息がどんどん増えて首が回らなくなった。そいつに借金の代わりに機械を造らせた。今はな、イラン人が自分たちで造っている。あんなもの秋葉原の電気街へ行けば、部品をいくらでも売ってて簡単に造れるんだ」  どこかへ電話を二、三本入れてから、男は席に戻って来た。 「時間があるなら、俺と軽く酒を付き合わんか? 仕事の話は抜きでな。こうしてあんたに声をかけられたのも、何かの縁というもんだ。どうだ?」  私は二つ返事で誘いに乗った。男は自分が行きつけの歌舞伎町の店に私を案内しようとした。しかし、私はそれは断わった。初めて会って一時間半も経っていなかった。私はまだ気を許していなかった。  男の周辺に不良中国人が何人もいることがわかっていた。それらの中国人はホステスの盗み聞きによれば、「イラン人を撃った」連中だった。 「あなたと飲んでいるところを歌舞伎町にいる他のヤクザに見られたくないんです。私は他のヤクザと飲むときも、歌舞伎町を離れて飲んでいるくらいなんです。取材協力者や情報源は、誰にも知られたくないんです。そのほうが相手にも迷惑がかからないし、私にも都合がいいんです」  私がはっきりそう言うと、男は「あんたは用心深い男だな。それなら仕方がない」と、こちらの提案を受け容れた。  私は西武新宿駅の斜め向かいの路地にある、大きな居酒屋へ男を案内した。案内したといっても、そこは私も初めて入る店だった。男は、ビールを一気に飲み干した。 「ああ、うめえなぁ。喉が渇いていたもんなぁ。あの喫茶店は換気が悪くて、しゃあねぇところだ」  やっと生気が戻ったというような顔をした。間もなく私は電話をかけるために席を立った。 「あとで店へ行きたい。夜九時半過ぎに行くつもりでいる。いま飲んでいるので時間を忘れそうだから、そのころにポケットベルを鳴らしてほしい」  電話の相手は、何カ月も前から取材に協力してもらっていた中国人就学生ホステスだった。  九時半までに約一時間二十分あった。  男は、消えたイラン人の一件の真相を知っているに違いない。いずれ事件への関与を問い質《ただ》すのがこちらの目的だったが、そのためには過度に酒席を共にするのは禁物だった。相手が真相を話す気が起こるまで、緊張関係を維持しておく必要があった。長時間の酒は、それを薄れさせる危険性がある。 「酒は何が好きなんですか?」  私は男ととりとめのない雑談を交わしていた。 「日本酒以外は何でも飲む。日本酒は、あの臭いが嫌なんだ。だからこんな居酒屋に入ることは、めったにない。そりゃあ、オヤジ(親分)とか兄貴分に日本酒を勧められたら、『おいしい、おいしい』と言うよ。相手が弟分だったら、ぶん殴る。まあ、いちばん飲み慣れているのはブランデーかな」  話の合い間に出身地や年齢、組員歴、逮捕歴などをさり気なく探った。男はとりたてて特徴のあるヤクザではなかった。 「俺はこう見えても、二十歳までは真面目な人間だったんだ。まともな仕事もしてたしな。あることがあって二十歳過ぎてから、おかしくなった。人には言えないいろんな悪さはしてるが、盗みと強姦だけはやったことがねえ。  従妹の一人が高校生の時、ある野郎に犯された。俺はすでに組に入ってたが、その野郎を死ぬ寸前までぶん殴ったよ。強姦だけは、どうしても許せねぇ」  この時だけは男の眼の奥がギラリと光った。  初め警戒していた男は、私が口が堅いことを知ると次第にうちとけていった。 「強姦だけは、どうしても許せねぇ」  話の途中で口にした、男のこの一言には、妙に力がこもっていた。  失踪したイラン人たちも、歌舞伎町のクラブで売上金を奪い、挙げ句にママとホステスの二人を強姦していた。その直後、男は店のオーナーから連絡を受けて店に駆けつけている。私は大きな謎が少しずつ解けていくような気がした。  約束した通り、九時半ちょうどに、先の中国人ホステスがポケットベルを鳴らしてきた。私は急いで電話口へ向かった。  それから席に戻り、いかにも困った顔をしてみせると、男がすぐ声を掛けてきた。 「何か大事なことでも起きたんか? 今日の酒は気分がいいから、これから渋谷にでも行ってとことん飲むつもりでいたんだがな」  私は「緊急の情報が入りまして」と言って真顔になった。 「まだ表沙汰にはなってないんですが、あるところで他殺死体が発見されましてね。今日はこれで帰らしていただきます」  男は「あるところって、どこなんだ?」と即座に聞いてきた。私は「警察から発表があるまで、場所は誰にも言えないんです」と答えた。  男はもっと何か聞きたそうだった。私は質問を遮《さえぎ》るようにしてポケットベルのボタンを何度か押し、相手の電話番号を消す仕草をしながら男にいった。 「ポケベルの番号は、一度確認したら、こうしてすぐ消してしまうんです。消さないままそのへんに落として変な奴に拾われたら、大変なことになりますから。  一度、ポケベルを落としたことがありましてね。下町のある居酒屋の汲み取り式のトイレで、酔ってたときにポトンと。他の客が入ったときに真下からピッピッピッと音が聞こえる。出るものも出なくなったって、店から何日間も苦情を言われたんですよ」  男が私の前で大声を出して笑ったのは、このときが最初で最後だった。  この夜、私は男と互いにポケットベルの番号を交換し合った。コマ劇場の横で別れたが、男は別れ際、「こっちからは連絡は取らんからな」と言い残した。  男とはその後、二、三日置きに接触した。  二度目、三度目はいずれも二時間ほど酒を一緒に飲み、男にイラン人の消息をとことん追及するつもりでいることをそれとなく伝えた。同時に、男の顔色も細かく観察した。 「俺がその情報を知ってるんなら、あんたに教えてやってもいいんだがな」  私が真剣な顔をすると、男は、何度かこう言ってシラを切った。  男を疑っているような素振りは、努めて見せないようにした。遠回しな言い方、中途半端な攻め方は、相手の態度を豹変させてしまう危険性がある。  こんな話を聞いたことがあった。ある西日本のヤクザの幹部に「どう考えても犯人はあなたに似た人物に見えるのだが」とあいまいな言い回しで聞いた記者がいた。直後、記者はまわりにいた若い衆にねじ伏せられ、片腕をへし折られてしまった。 「わしらに物を言うときは、はっきり言え!」と怒鳴られ、記者は病院へ向かった。それまで耳にしていたマスメディア界での出来事が、あれこれ頭に浮かんできた。 「指ぐらいじゃ済まさんぞ」[#「「指ぐらいじゃ済まさんぞ」」はゴシック体]  男と四度目に会ったときだった。酔いが軽く回ったのを見計らい、私は思いきって言った。 「よく聞いて欲しいんです。あなたはイラン人の行方について、一〇〇パーセント知っている。イラン人を取り押えた現場にも、あなたは確かにいたはずです。  私は売上金強奪や強姦があった店の中国系オーナーも、ちゃんと調べて知ってるんです。あなたが中国人の不良たちとイラン人を捕まえに行ったことも知ってる。私は今のところ、オーナーや不良たちを追うつもりはないんです。見境のつかない連中なので、取材をかければ必ずトラブルが起きて事件が表沙汰になる」  男の顔色がみるみる変わり、怖い形相になった。そのあと私は外に連れ出された。四谷駅の近くにある飲食店街での出来事だった。  男は「てめえ」「おめえ」「貴様」と激しい言葉を並べて私をなじり、「何の証拠があるんだ!」と詰め寄ってきた。  私は、声は上ずりながらもこう切り返した。 「正直に言いますと、私は何度かホステスの話を聞いてます。ここで言っときますが、あなたたちが彼女たちを痛い目に遭わせたりすれば、話は確実に外に洩れます。あなたがいう証拠が必要なら、さらにホステスの話を詳しく聞いてみます」  男は怖い形相をしたまま押し黙った。それから男が「こんなところに突っ立ってても仕方がない」と言ったので、近くの別の居酒屋に場所を変えた。そこで、「条件次第によっては、ある程度のことを話してもいい」と男は言い出したが、怒りはまだおさまらない様子だった。 「俺がこんど会うときに、組のもんを二人連れて来る。警察にタレ込んだり、てめえのせいで俺が捕まったら、それ相応の責任は取ってもらわにゃ。指ぐらいじゃ済まさんぞ。組のもん二人は俺の後見人みたいなもんだが、俺が刑務所へ行ってもてめえは逃げられんぞ。連中が動いてきっちり責任を取らせるからな。それでもいいんなら話してやってもいい」  私は男をなだめすかすように言った。 「これまで何度も言ってきましたが、私が固有名詞を出して誰かにあれこれ話すことはあり得ません。ですから、たとえ警察に捕まっても、私は責任は取れませんよ。組の者を後見人にして私の首でも取ろうと言うんですか?  よく考えてみて下さい。その二人の組員があなたとどう関係あるかわかりませんが、二人が来ることになれば、あなたは弱みをさらすことになる。まして抗争とか組のために動いたという話ではない。その組員にイラン人の件、もう話したんですか?」  話の流れから、男が仲間の組員にはまだ何も話していないことを私は察知した。 「あんたのほうからも、保証人を二人出してもらう」と言ってきたが、私は当然断わった。  男とは、話が噛み合わないまま別れることになった。別れ際、男は「二、三日、俺なりに考えてみる」と言い残した。深刻な顔をした男は通りかかったタクシーに飛び乗り、新宿通りを西へ向かった。 高層ホテルで五度目の接触[#「高層ホテルで五度目の接触」はゴシック体]  私は男にあまり時間を与えたくなかった。その間に変な企《たくら》みをされては困るからだ。  それから四日後、男と五度目の接触をした。私は新宿駅の西口地下広場にある交番前を待ち合わせの場所に指定した。 「あんたな、俺をからかってるわけじゃねぇだろうな。どっか、他に気のきいた場所がねぇのか」  電話の向こうから男の怒った声が聞こえてきた。結局、新宿副都心に聳《そび》えるある高層ホテルのロビーで会うことになった。  その日の夜八時過ぎにそのホテルの二階にあるバーへ入った。男は一人だった。周囲は観光客らしい外国人ばかりだった。日本人ウエーター以外は、大して気を遣うこともなく話ができた。 「こういうところは俺は、あんまり好きじゃねぇ。かしこまり過ぎて、気分が落ち着かねぇよ。早く出て別の店へ行こうじゃないか」  男はしばらくの間、バーの雰囲気に馴染めないでいた。足こそ組まなかったが、相変わらず体は半身に構えていた。  グラスを何杯か傾けたあと、私は核心に踏み込んだ。 「ここはマナーにうるさいんですよ。新宿署がすぐそこにあるんで、大声なんか出したらすぐ警察が飛んできますから。ところで、この前会ったとき、あなたが真相を話す条件として、後見人や保証人が必要だと言ってましたね。気になってたんですが、あなたはそこまでしなければならないほど、例の件に深くかかわっているんですか?  はっきりお聞きしますが、イラン人はもう仏になってるんじゃないですか? 私の知る限りでは、あなたと付き合いのある中国人の不良グループが、富士山のどこかでイラン人を拳銃で何発も撃った、と聞いているんです。あなたも現場にいたんじゃないですか?」  すると男は、私の顔を上目遣いにまじまじと見ながら、低く抑えた声でこう言ってきた。 「いまは俺の口から何も言えねぇ。仏になってるかもしれんし、なってないかもしれん。どっちみちあんたは、俺を疑っている。俺が見るところ、あんたは俺がイラン人を殺したと思ってる。そうだろ? まあな、疑われても、しゃあねぇな。それで本当のことを話したら、どうする気だ? まさか、記事にするわけじゃねぇだろうな。最後の最後まで秘密を守れるんか? その自信はあるんか?」  男の目付きはさらに鋭くなった。 [#改ページ]  イラン人を富士山中に運んで撃った  五度目の接触となった新宿の高層ホテルのバーで、男は新たな条件をつけてきた。 「俺がもし話す気になった時には、ヤクザの後見人は立てんようにする。俺なりに考えてな。手前のことで借りや義理ができるのは嫌だからな。それに、あんたの言ってた通り、秘密が散らばる危険もあるしな。その代わり、あんたの住んでる住所だけは、こっちに教えておけよ。それぐらいのことは出来るだろ? 別にどうこうするわけじゃねえが」  言葉に詰まるとまずい。そう思って、私はすぐに言葉を返した。 「これだけは言っときますよ。イラン人が歌舞伎町からいなくなった話は、私だけが知ってるわけじゃないんです。イラン人の間ですでに噂が流れている。私も噂をあちこち追って、やっとあなたに辿り着いた。私は歌舞伎町の裏側で何が起こっているのか、それが知りたいから、あなたにこうして何度も会ってもらっているんです。それで話していただけないのなら、私は別のルートから取材を進めます」  最後は突き放すように言った。男が知りたがった自宅の住所については、「職業上、どんな取材対象者にも教えない決まりになっている」と付け加えた。  ホテルのバーにいたのは、およそ一時間四、五十分。男はドアマンがタクシーの手配をしている間、何度も念を押した。 「話すかどうかわからんけど、こんど会う時は俺のほうから連絡する。いいか、わかったな。それがいつになるかわからん。それまで俺のポケベルは鳴らすな。鳴らしたら怒るからな」  私は、ここまでやったら、もう結果はどうでもいい、という気持ちになった。とはいうものの、男から連絡が入るのを、いつも心待ちにしていた。  じつはこの間、自宅に妙な異変が起きた。ある朝、妻が「庭に来て!」と叫ぶので、庭先を見ると、銘柄の異なるタバコの吸いガラが三十個ちかく散らばっていたのだ。それも同じことが二日も続いた。妻は「危ない取材はもう止めたら」と、すっかりおびえてしまった。私は、取材開始当初から、妻と高二の長男だけには、取材内容を告げていた。  それからしばらくして、さらに異変が起こった。中東系の男が三、四人で、「古い新聞とトイレットペーパー交換して下さい」と言って、日に三度も自宅を訪ねて来たのだ。これも二日にわたって続いた。不思議なことに、隣り近所に彼らが行った形跡はぜんぜん無かった。私は家族に、戸締りを厳重にするよう注意した。しかし、それ以上のことは何も起きなかった。一体、あれはどういうことだったのか、今もってわからない。  ただ、偶然にしては、あまりにも奇怪な出来事なので、取材の合間に私なりに調べてみた。  レースのカーテン越しに窓からチラッと見ただけなので、正確な数字は確認できなかったが、中東系の男たちが乗ってきた軽トラックのナンバー・プレートには、�土浦�の文字が見え、ドアには社名も書かれていた。関東運輸局の土浦自動車検査登録事務所によると、土浦ナンバーは、茨城県南部の一定地域に限られている。  軽トラックの所有者はそれから間もなくして身元が割れたが、その男は産業廃棄物処理の関連業者だった。さらに周辺を調べると、男がちょくちょく都内に足を運び、ある四階建てのビルに出入りしていることもわかった。ビルの持ち主は、五十代後半の在日韓国人だった。人の出入りがないところを見計らって、ビルの入口に近づくと、ドアの右隅に白い小さなプラスチック・ボードが下がっていて、そこには何やら宗教団体を思わせる文字が横に並んでいた。それは、日本語と英語が混じったじつに奇妙な名称だった。また、ボードの左側には、二つの正三角形を交差させたマークが黒いマジックで描かれていた。あとでやっと思い出したが、それはイスラエルの国旗の中央にある�ダビデの星�と酷似していた。近所の人が、そのマークを見るようになったのは、九二年春ごろからだという。それまでは、同じ場所に十字架のマークが描かれていた。さらに不可解なことは、この建物に、イスラム教徒のイラン人が何人も出入りしていたことだ。  本来なら相容れるはずのないものが一緒になっている。周囲の情報を総合すると、その背景には、日本で露店商売に進出している韓国人キリスト教徒、イスラエル人ユダヤ教徒、イラン人イスラム教徒の共同ネットワークが見え隠れしていた。それはあまりにも深い闇に包まれたものだった。私の歌舞伎町での取材が、そのネットワークとどこでどう交錯したかは不明だった。あれこれ考えた末、この件に関しては、それ以上の深入りはあえて避けることにした。  男がイラン人殺害について告白したのは、六度目に会った時だった。  その日は、前回会った時の取り決め通り、男から連絡をとってきた。ポケットベルには、相手の連絡先の番号につづけて、男のコード番号「111」が並んでいた。私がこの数字を使うのは、緊急の時だけである。なぜか私は、プッシュボタンを押す指先がひどく震えてしまった。 「今夜は俺にとっても、あんたにとっても、特別な日になる。俺の知ってる店で、二人でゆっくり飲もうじゃないか。店は歌舞伎町じゃない」  男は、会う店まで指定してきた。さばさばした声だった。山手線のある駅から、私は、細い路地を右に左に曲がりながら飲み屋街を突き進んだ。目指す店の前に立つと、後ろを振り返って店の位置を再確認した。左手に目をやると、ビルの間から山手線の一部が見えた。周囲は小ぢんまりとした盛り場になっていた。そこは私が初めて行く場所だった。 「ここなら安心して話ができるんじゃないかな」  約束の時間の九時ちょっと前にドアを押すと、男はまるで他人事のように言ってきた。一人でカウンターに座っていたが、酒はまだ飲んでいなかった。 「今日はあんたに会う前に飲んじゃいけないと思ってな」  店は、ボックスが二つあるだけの小さなスナックだった。男と同年代のママの他にホステスが三人いた。手前のボックスに客が一組いたが、私が行って間もなくして引き揚げた。私の後ろで、ママが「無理に帰らしてごめんね」と客に何度も謝っているのが聞こえた。私は男に背中を軽く押されるようにして、奥のボックスに案内された。 「いつもはあんたの席に座るんだが、今夜は俺がこっちに座る」  私が座らされたのは、壁を背にした一番奥の席だった。 「俺のほうはビールは要らんぞ。いつものやつをくれ。お湯も一緒にな」  男は首を半ひねりして、カウンターの中のママに叫んだ。  私は、男と軽くグラスをぶつけ合った。それまでに五回会っているが、男はいつも半身の姿勢を崩そうとはしなかった。ところが、その日は最初から、私のほうを向いて体を開き、ネクタイもちょっときつめに締めていた。  私は水割りを選んだが、男は最初からブランデーのお湯割りを飲んだ。銘柄はヘネシーだった。それまで、男がブランデーのお湯割りを飲んだことは一度もなかった。 「焼酎のお湯割りは、私もたまに飲むことがありますが、ブランデーじゃ、もの凄く酔いが回るんじゃないですか?」  私がそう言うと、男は「まあな」と照れ笑いを浮かべた。 「他の店じゃ恥ずかしくてできやしねえよ。名義は違うが、ここは俺の店なんだ。こんな飲み方、しょっちゅうやってるわけじゃねえよ。まあ、その日の気分によって、どうしても飲みたくなることがあるんだ。おたくも酒飲みだから、こういう気持ち、わかると思うけどな」  私のことを「おたく」と呼んだのは、この時が初めてだった。いつもは「あんた」だった。私は、心の変化を感じ取った。そのうち男はまた首を半ひねりして、ママに叫んだ。 「女の子を帰していいぞ。日当は一時までの分をちゃんと払ってやれよ。俺は友達と大事な話があるから、ママも帰ってくれ。お湯はポットにたくさん入れておいてくれよな」  間もなくしてママは、私のところに寄って来て、「お先に失礼します。ごゆっくり」とにこやかな表情を浮かべた。男には「準備中の札を外に掛けておきますから」と小声で言った。  ママと一緒に出て行ったホステスの一人は、褐色の肌をした目鼻立ちのはっきりした東南アジア系の女性だった。 「俺みたいなヤクザもんがこんなことを言うのはなんだが、タイとかフィリピンとか、東南アジアから来てる子は可哀相だよ。歌舞伎町を見てみろ。台湾や中国の子は日給で五千円、一万円貰ってるけど、タイの子なんかは千円、二千円だ。これじゃ体を売るしかねえわな。さっきの子もタイ人だけど、うちは日本人の子と同じ金を払ってるんだ。時給二千円だけどな」  男はちょっと誇らしげな顔をした。そして、すぐまた表情のない顔つきに戻った。  上着を脱いで背もたれに体を預けると、男は「ウーン」と唸って、しばらく天井を見上げていた。よく見ると、胸の両側に、シャツを透かして青と赤の刺青《いれずみ》がかすかに浮かび上がった。  長い時間に感じられた。タバコに火をつけようとしても、ライターが小刻みに震えてしまって、タバコを口から離したほどだ。男は突然、ガバッと体を起こすと、こちらに視線を向けて静かな口調で告白を始めた。 「イラン人は、三人とも仏になっている。車で富士山の山ん中に連れてって、拳銃で三、四発ずつ撃った。俺はヤクザの喧嘩で刺し殺されそうになったことはあるが、人を殺したのは初めてだよ。抗争で組のために相手を殺すのとは、わけが違う。組内で自慢できるような、大義名分は何もねえんだからな。  ただな、イラン人の連中は許せんかった。おたくと最初に会った日、俺が言ったろ? 従妹を強姦した奴を半殺しにしたことがあるって。連中を殺したのも、それと同じ気持ちなんだ。  実はな、店で強姦された女の子の一人は、俺の女房みてえなもんだ。台湾から来てる子だけどな。今は友達と住んでるが、そのうち一緒に住むつもりでいたんだ」  男はひと息ついて話を続けた。 「ママも強姦されてるが、あのママはな、店を裏で経営してる男の愛人なんだ。二人とも中国系の人間だ。そのオーナーは、俺と一緒にモグリのゲーム屋商売に関係してた男だけどな。いろいろやってて、金は相当持ってる。俺はあとでその男から五百万円貰ってる。  ここまで言うからには、おたくに何でも話すがな。俺の他に中国人五人が殺しに加わってるんだ。おたくも知ってるように、店の厨房にたむろしてる連中だよ。オーナーは、五人に一人アタマ二十万円から三十万円ずつ払ってる。なんで差があるのかわからんけど、頭にトドメを撃ち込んだ奴が三十万円貰ったみてえだな。  誤解してもらっちゃ困るが、俺はな、金が欲しくて連中を殺したんじゃねえからな。何か無性に腹が立ったんだ。最初は俺は関わんないで、中国人の連中だけで始末させるつもりだったんだ。だが、車を運転する奴が他にいねえし、その辺に死体をポイと捨てられたんじゃ、すぐバレちまう。それで俺が富士山の近くまで連れて行くことになった」  そこまで話すと、男は大きな溜め息をついた。そして、ブランデーのお湯割りを自分でゆっくり作ると、一気に飲み干した。私は、言葉は何も発しなかった。男はまた背もたれに体を倒し、しばらく空を睨んでいた。  強姦されたホステスの一人が組員の内妻だったことは、この時初めて知ったが、私が同じ店のホステスから聞いていた話は、男の告白とほぼ一致していた。  私の眼の前で、男はただの組員から、人を三人殺した殺人者へと変わった。対峙する私の気持ちは、何とも言い難い複雑なものだった。真相を突きとめたのはいいが、男から殺人の告白を聞いたことで、得体の知れない影に追いかけられるような気分にとらわれた。  暴力団対策法の影響か、歌舞伎町でも外国人勢力と手を結ぶヤクザが増えつつある。男もそんな一人だった。男はゆっくり体を起こし、私とまた視線が合った。男はまだ険のある顔をしていて、気負いが感じられた。 「気分を楽にして下さい」  私は、懺悔《ざんげ》する信徒を前にした神父になったような気持ちとでも表現すればいいのか、とにかく丁寧に言葉をかけた。性急な質問は避けるべきだった。それは子供への対応にも似ていた。嫌々ながらも、これから机に向かおうとしている子供を「早く勉強しなさい」と追い込んだら、それは逆効果になる。  男が再び口を開いた。 「不思議なもんだな。少しは気分が楽になってきた。おたくとは、最初に会った時から嫌な予感がしてたんだ。ひょっとしたら、すべて握られてるんじゃないかと思ってな。  歌舞伎町の居酒屋から出る時、おたくは場所は話さんかったが、どっかで他殺死体が見つかったって言ったな。あの時は、殺したイラン人じゃねえかと思って、心臓がドキドキしてな。あの晩はまともに眠れんかった。だがよ、よく新聞見てんだが、その事件、もう記事になったんか? なんだって、作り話だって。そうか、俺をペテンにかけたんだな。だが、今になっちゃ、そんなこと問題じゃねえな」 すぐに調達された車と拳銃[#「すぐに調達された車と拳銃」はゴシック体]  男は諦めたような表情を浮かべ、私の目を見据えた。 「あんたはこっちが何もかも話さんと、納得できねえ性格のようだな。イラン人がクラブの子に悪さをした夜だ。中国系のオーナーからポケベルでクラブに呼び出された時、俺は、自分が関係する歌舞伎町の店でソファに寝ころんでいたんだ。  クラブへ駆けつけると、ママや女の子は泣いてるし、オーナーは中国語で何かわめき散らしていた。俺には『捕まえて殺しましょう。殺して下さい』って何度も頼み込んでくるんだ。上海の連中はどう言われたかわかんねえが、みんな、包丁、ナイフを持ってえらく興奮してる。  そんとき、俺が言ったんだよ。相手も刃物持ってんだから、刃物で向かったら、こっちもやられるってな。それで連中を捕まえたら、どっかへ車で連れて行こうということになった。  ワゴン車がオーナーの筋ですぐ手に入った。拳銃も、すぐ二丁届いた。リボルバーとダブルアクションのやつだ。それから折り畳み式の鉄の警棒が何本かと、警棒を二、三倍太くしたようなスタンガンもどっかから手に入った。ガムテープもいくつかあった。  連中は、横のつながりがもの凄いよ。あっという間に何でも集まってしまうんだからな。中国系は�幇《バン》�という組織をつくってて、これは良くも悪くも互いに助け合う組織をいうんだ」  男の口調は、だんだん高ぶってきた。私は相変わらず言葉をさし挟まなかった。話を先へ進めるよう、それとなく目で促した。ブランデーのお湯割りが効いてきたのか、男の顔が赤鬼のように紅潮していた。 「夜中の三時ごろだった。みんなでワゴン車に乗って、歌舞伎町のまわりをグルグル探し回った。車を止めて手分けして路地裏まで見たよ。背の高そうな奴がいると、『あいつだ!』と言って駆けつけた。しかし、そいつは日本人の酔っぱらいだった。気が立ってるんで、大柄な奴は誰でもイラン人に見えちまうんだな。  そうこうして二、三十分後だ。喧嘩やひったくりをやった奴が、よく新宿文化センター通りに逃げ込むのを思い出して、車でゆっくり職安通りの方角から入って行った。あそこは一方通行だからな。そしたら連中がいたんだ。ライトで顔が見えて、すぐイラン人とわかった。人違いでもイラン人ならやっちまえ、という感じだった。手前からドアを開けておいて、そばに行ったところで上海の連中がみんなで飛びかかった。俺は運転席にいたけどな。  用意していた鉄の警棒でそこらじゅうぶっ叩いて、スタンガンを何度も押しつけた。運転席から見てたら、一人が日本語で「カネ、返す」って何度も叫んでたな。へたり込んだ奴から順に車に引きずり込んだ。  連中もちょっとは抵抗してきたんだ。こっちは小せえ奴ばかりだが、あっちは図体がでかい。上海の不良が七人いたんだが、そのうち二人がナイフで腕や足を切られた。大した傷じゃないけどな。イラン人は三人は捕まえたが、一人は細い道に入って逃げてしまった。捕まえたイラン人は、顔と手足にガムテープをギリギリ巻いて、ジタバタできんようにした。暴れる奴は警棒でぶん殴ってな。人から借りた車を汚しちゃまずいから、ナイフは絶対に使うなと俺が言った。イラン人の落としたナイフを拾い、すぐ現場から離れた。ほんの二、三分で終わった。  連中のポケットを調べたら、一人が三十何万円、他の二人が十万円ずつ持っていた。すでに山分けしてたんだ。ぜんぶで八十何万円|盗《と》られてるから、残りは逃げた奴の取り分だ」 冷蔵庫から取り出した包み[#「冷蔵庫から取り出した包み」はゴシック体]  目撃した通行人がいたはずだ。心の中でそう思っていたら、男はその点にふれてきた。 「何人かが通りを歩いていて、こっちを見てたのもいたけど、離れてたからな。こっちの顔は見えんかったんじゃねえかな。歌舞伎町のまわりじゃ、喧嘩なんか毎晩いくつもあるしな。  逃げた奴? そりゃ気になった。警察に逃げ込まれたら厄介なことになる。だがよ、日本で悪さしてるああいった連中は、警察に行くわけがねえ。  そのあと、相手のナイフで怪我した二人を残し、俺の運転で中国人五人と中央自動車道へ向かった。高速道に入る前、ある工事現場からビニール・シートを失敬して、イラン人の連中にかぶせた。まだ死んじゃいねえよ。足で窓を蹴ったり、ゴロゴロ動こうとするんで、中国人がスタンガンを何度も押しつけてたな。それから連中のベルトを取り外して、太股をしばった。  三人ともズボンの内側に隠しポケットを持ってて、そこからコカインの袋や、ウサギの糞《ふん》みてえな黒いものが何十個も出てきた。ハッシシだよ。連中は、麻薬の密売もやってたんだ」  そこまで話すと、男は下を向いたまましばらく黙りこくった。時計はすでに日付けが変わっていた。 「体じゅう熱くなってきたな。俺、ビール飲むけど、ちょっと付き合うか?」  男はカウンターの中に入って行き、冷蔵庫の中を何やらガサゴソやった。左手で中瓶を二本ぶら下げ、右手にビニールの包みを持ってきた。ビールを飲みながら、ビニール袋から新聞紙の包みを取り出した。さらにそれを広げると、銀紙の包みが出てきた。男は「こうしておかんと錆びちゃうんだ」と呟きながら、その銀紙を開いた。それは拳銃だった。 「ベレッタのジャガー・モデルだ。22口径のイタリア製で、これで十連発だからな。弾入ってるけど、どうだ、持ってみるか?」  男が無理に手渡そうとしてきたので、私は体を後ろにのけぞらせながら、両手でそれを押し返した。男は拳銃をテーブルの端に置いたまま、話をつづけた。途中から奇妙な信頼を男に抱いていた私は、黙って話に聞き入った。 「山梨県内のあるインターで高速道路から一般道路に出た。イラン人三人はガムテープの隙間からやっと息してる状態だから、ほとんど動かなかった。  場所を探しながら、いろんな道を行ったり来たりしたが、なかなか適当なところがないんだな。だんだん山に入って来たなと思って車を走らせていると、河口湖に出てしまう。別な道に入ると、何か名前の知らねえ湖にぶつかる。最後は細い山道に車を止めて、イラン人の足からガムテープとベルトを外して自分で歩かせたんだ。枯れ木や腐った木の葉っぱに足を取られて何度も転びそうになったが、何十メートルか奥へ進んだ。俺は強姦した奴は許せねえんで、連中を一発ずつ撃った。イラン人が倒れたのを見届けて、俺は現場から車に戻った。  そのあとのことは見てねえ。あとで聞くと、中国人の連中が何発ずつか撃ち込んだようだ。死体は、連中が包丁やナイフで穴を掘って埋めた、と言ってたな」  その日の午後三時すぎ、男は中国人たちと一緒に東京へ戻ってきた。 「みんな腹ペコだった。中国人の連中は何もなかったようにワァワァ騒ぎながら、飯をガツガツ食ってたな。  俺は連中のようなわけにはいかんかった。腹は空いてんだが、食欲がぜんぜんねえんだ。その日は結局、水だけガブガブ飲んで、腹には何も入れんかったな。とにかく喉が異常に渇くんだよ。人の命を奪った者にしかわからんことだけど、俺はイラン人に強姦された台湾人の彼女とは一緒になれねえと思ってきた。一緒に寝れば、殺したイラン人を思い出すし、子供だってつくる気がしねえよ。  おれに新しい命をつくる資格はねえからな。なんていうのかな、俺は近い将来、歌舞伎町を離れて、山小屋の番人でもやりてえ気分だよ。それもな、あんまり客の来ない山小屋を選んでな。今はしゃあねえことをやってしまったと思ってる」  男はテーブルに置いていた拳銃を包み直した。両手が肘のあたりから震えていた。 「これは一度も引き金を引いたことがねえ新品だよ」  男は湿った声で言った。目が潤んでいた。  夜中の二時すぎ、私は男と店で別れた。男は私の両手を何度も強く握り、「あんたにすべて話して、ずいぶん気が楽になった。こんな気分になったのは初めてだ」と涙声で言った。  私は帰りのタクシーの中で、足の震えが止まらなくなった。男が怖いというわけではなく、イラン人の間に流れていた噂が事実だったということが、私を打ちのめしていた。人を三人も殺した人間がいることを知っても、自分はどうにもできない……。そう思うと、今度は激しい嘔吐を催してきた。私は途中で何度もタクシーを止めながら、やっと自宅に辿り着いた。  男は、紙ナプキンに射殺現場に関する大ざっぱな地図を書いて渡してきたが、それも細かにちぎって途中で捨てた。 [#改ページ]  あとがき  九四年十月二十五日、京浜急行青物横丁駅で、都立台東病院の岡崎武二郎医師(47)が軍用トカレフ型拳銃で射殺された。逮捕された元会社員(36)は、岡崎医師の元患者で、ヘルニヤ手術の術後経過を逆恨みしての犯行だった。ここで問題なのは、ごく普通の人間がいとも簡単に銃を入手することができ、人混みで簡単に引き金を引いてしまったという事実である。日本も徐々に米国型銃社会になりつつあることを顕著に示す事件といえるだろう。これだけ銃器が一般社会に拡散すると、日本の警察もそれを押収、回収することは極めて困難である。  警視庁が、新宿地区環境浄化総合対策本部を設置して、歌舞伎町での犯罪摘発作戦を始めたのは、九月二日からである。しかし、それも遅きに失した。地元住民からは、「魚の一匹もいなくなった沼で、漁師が何百人も網を広げているようなものだ」という声が上がっている。警視庁のこの作戦は、一週間も前から新聞でデカデカと取り上げられたため、結果的に外国人マフィアのほとんどが全国各地へ逃げてしまった。今後、マフィアは全国に分散し、それによって地方都市の盛り場がミニ歌舞伎町化する恐れが生じてきた。本書で取り上げた、富士山中でイラン人を射殺した上海出身の不良グループも、歌舞伎町から姿をくらましていた。私が告白を聞いたヤクザも姿を消している。現在、歌舞伎町は一時的に平穏に見えるが、ほとぼりが冷めれば、再び元の状態に戻るに違いない。  最後に、名前は割愛させていただくが、蔭で取材協力して下さった多くの皆様、連載及び本書の出版に御尽力いただいた「週刊文春」編集部、文藝春秋出版局の皆様に感謝する。  一九九四年十一月 [#地付き]吾妻博勝  [#改ページ]  文庫版へのあとがき  本書の取材で歌舞伎町に足繁く通っていたのは、一九九四年夏ごろまでである。記事の連載がどうにか終わって、一連の取材に一応の区切りを付けることになった。その時は、大袈裟にも、脱獄にでも成功したような、自分でも嫌になるほど爽快な解放感に包まれたのを覚えている。  これでやっと堅気の世界に戻れる。相手の気紛れに振り回されながらも怒りを抑え、神経を尖らして飲み続けてきた酒からやっと解放される。さらに言えば、猛獣や毒蛇が潜む密林からやっと逃げ出せたような気分にもなった。来る日も来る日も種々雑多なアウトローたちとの接触、そして神経戦。取材対象が最初から闇の領域に絞られていたので、これも仕方がないが、それにしても滾《たぎ》る取材欲だけではどうにもならないのが闇社会の奥の深さである。  本文〈蛇頭《スネーク・ヘツド》が腕時計に突き立てたナイフ〉のなかで触れているが、私は、中国人密航者を追っている最中、密航斡旋組織の蛇頭関係者に威迫されたことがあった。関係者とは、香港系の中国マフィアと台湾マフィアである。その正体を最終的に明かしてくれたのは、実は、日本の複数の暴力団関係者だった。それら関係者と約束した手前、当時は書けなかったが、この密航者追跡取材の最終過程で、私は関西と関東のそれぞれ代紋の異なる系列組織の中堅幹部クラスから別々に呼び出しを食らい、「わしらはあいつらと付き合いがある。あんたがうろついているのをえらい嫌がっている。その種の取材は、無理して追っても、あんたが損をするだけだ」と釘を刺された。他の取材にも障害が起きては困るので、これはとても聞き流せる話ではないと納得せざるをえなかった。そこで思い知らされたのは、密航ビジネスをめぐる蛇頭の裏の人脈がいかに広範囲に日本に築かれているかという驚きだった。  この四年の間にも、他の関連取材、あるいは当時の取材協力者に誘いの声を掛けられたりして、私は幾度となく歌舞伎町に足を運んできたが、この盛り場は今も相変わらず人を吸い寄せている。長引く不況で全体的に客足が落ちている印象は否めないが、底に潜む街の本質は何ら変わっていない。 「ノーパンしゃぶしゃぶ」接待で享楽にふけった大蔵官僚を例に出すまでもなく、歌舞伎町は、人間のあらゆる欲望を満たしてくれる不夜城である。一攫《いつかく》千金を夢見て、中国マフィアや他の外国人不良が寄り集まる理由も正にここにある。  だが、欲望はいつも一方通行というわけにはいかない。欲望を待ち受ける別の欲望が存在する。二つの欲望が搗《か》ち合えば、いずれは暴力本能が噴出して血が流れる。  本書の取材が終わりかけた、九四年八月十日午後八時過ぎのことだ。「新宿コマ劇場」東側の路地裏にあった「快活林」という中華料理店を、青龍刀やサバイバルナイフで武装した上海マフィア数人が襲撃した。中国、陝西《せんせい》省出身の店長は全身血だらけになりながらも命だけは助かったが、北京出身の従業員と二階に客としてきていた上海出身の男は、身体中をメッタ切りにされて絶命した。この事件の前にも中国人同士の喧嘩は絶え間なく続き、殺人事件も何件か起きていたが、いずれも背景にあるのはマフィアどもの勢力争いだった。各勢力の利権、つまり欲と欲がぶつかり合うことで、それまでの寄せ集めの集団がより組織化されていった。  ところが、これらの事件が逆にマフィアに明確な教訓を与えることになる。警察沙汰になるような派手な喧嘩は、勢力拡大の思惑とは裏腹に、かえって取締りの強化を招き、結果的に自分で自分の首を絞めることになるとマフィアに悟らせたのだ。日本に来たのは、手段はどうあれ、金を稼ぐのが目的である。逮捕されて日本で服役したり、本国へ強制送還されたりすれば、本来の目的が吹っ飛ぶ。血なまぐさい事件を通して、こうした単純なことに彼らはようやく気がついた。以後、歌舞伎町に出入りしていた中国マフィアは、日中から通りにたむろしたり、些細な行き違いでナイフを振り回すような目立った動きは止め、以前よりもさらに巧妙に地下深く潜行してしまった。  一方、繁華街に立て続けに起きる凶悪事件を重視した警視庁は、新宿地区環境浄化総合対策本部を設置。九四年九月二日から防犯、刑事、公安の三部と新宿署との合同で各種犯罪摘発作戦を開始した。それは歌舞伎町の各路地裏を数分置きにパトカーが巡回するという徹底したパトカー作戦で、連日、制服・私服警官が延べ四百人も動員された。  当時、私もその様子を見ていたが、あまりの物々しさに道行く人の流れは途絶え、歌舞伎町二丁目にあった十数軒の韓国屋台は早々と店をたたみ、近くのラブホテル街に立ち並んでいたタイやミャンマーの売春婦は、暫くの間、一人も姿を現さなくなった。  界隈の中国クラブは、大別して二つに分かれていた。中国コミュニティの間では、売春ホステスを置く店を黒店、もしくは出場店と呼び、その逆は白店、清店と言われていたが、どの店もホステスが激減した。九〇年六月に施行された改正入管法では、就学生に一日四時間のアルバイト就労を認めているが、しかし、風俗関連営業店で客の接待をすることは禁じている。密航、偽造旅券による不法入国者やビザの切れた不法残留者はむろんのこと、中国クラブのホステスのほぼすべてが法の網に引っ掛かることになる。それでも一カ月後にはホステスは復帰したが、現在は、北京、上海、福建に加え、蘇州、大連、ハルビン、内モンゴル自治区出身のホステスが増えて、黒店が白店を凌駕しているのが実情だ。  事実上のマフィア狩りと見られていたこの環境浄化作戦は、街を闊歩していた外国人のチンピラや街娼を一掃したことでは効き目があったが、その裏で蠢《うごめ》く肝心の犯罪組織を摘発するまでには至らなかった。浄化作戦を実施する一週間ほど前の全国紙に、作戦の規模と開始時期に触れた記事が出たために、逃げ足の早いマフィア関係者や犯罪加担者は歌舞伎町から一斉に姿を消してしまったからだ。  もとより誰がマフィア関係者なのか、警察はその消息や活動の実態を掴めていなかった。そんな状況下では事前に有効な手立てを講じることは無理な話であった。暴力団対策法を持ち出すまでもなく、他の法令を適用して重箱の隅を突っつけば、どんな微罪容疑でも暴力団の組員は検挙可能だが、しかし、これはあくまでも日本人が捜査対象であって、外国人マフィアの策動に対しては無力である。  環境浄化作戦の実施から二年後の九六年秋に、私は、仲介者を通して、日本で暗躍している上海マフィアのボスに何度か接触した事がある。ピンからキリまでいる中国人ボスの中でも、この男は三本の指に入ると言われ、直接指示を下せる幹部十三人を含め、全体で約五十人の配下を従えていた。日本の暴力団や他の外国人勢力との抗争に備えて幹部全員が拳銃を持ち、配下には密入国者も抱えていると話す。拳銃の入手先は、付き合いのある日本の暴力団で、買い値は中国製トカレフ一丁が五十万円前後。本国では、軍から横流しされた同型中古銃が一万円程度で手に入るが、それを高い金を払って日本で調達するのは、持ち込む際の摘発の危険を避けるためである。実は、男は、中国人二人が殺害された前述の「快活林」事件の襲撃側の一味であった。  年齢は二十代後半。一見、頼り無さそうに見える童顔だが、「中国に五億円以上送り、すでにビルを建てた」と豪語した。将来は、日本で儲けた金で中国に何かの製造工場をつくり、商談で世界を飛び回る仕事をしたい、と何ら悪びれる様子もなく実業家への夢を語っていた。中国共産党の地区委員会幹部を父に持ち、留学生の在留資格で私費で来日。父親の年収は、日本円にして約二万円。息子から送られてくる大金に両親は驚き、「何か悪いことでもやっているのではないか」と心配するそうだが、息子はその度に、「夜も寝ないで一生懸命働いている」とはぐらかす。男は都内の某私立大学に籍を置き、淀みのない日本語を話した。 「『快活林』の事件のあとは、中国人同士の喧嘩はできるだけ話し合いで解決するようになった。人を殺しても、自分が損するだけ。人を殺せば、警察に追われる、仕事が出来なくなる、金儲けが出来なくなる。あんな大きな事件を起こすと中国人も日本人も俺たちを警戒するから、歌舞伎町に行きにくくなる。今もこっそり飲みに行くけど、前は別の人の名前で歌舞伎町にクラブを持っていたことがあるんだ」  客商売は儲けの効率が悪いので閉店したと話す。荒稼ぎの方法は、当時、パチンコ店が悲鳴をあげるほど猛威をふるっていた不正パチンコ。日本におよそ五十人はいるといわれる破錠専門のマレーシア人を一晩五十万円で雇い、深夜、すでに下見を済ませていた警備システムの手薄なパチンコ店に侵入する。パチンコ台を開けて正規ロム(基板)を抜き取り、そこに台湾のメーカーに作らせた、大当たりの確率が高くなる変造ロム(裏ロム)を差し込む。私もこれら両方を何度も見比べてみたが、正規、変造の見分けが全く出来ないシロモノだった。翌日からは玉抜き専門の打ち子を何人も送り込み、特殊なセット打法で大当たりを連発させる。出玉率が低下したカス台は暴力団に回してやるが、それでも組員たちは大喜びで飛んで来るそうだ。各自が携帯電話を持ち、配下五十人はこうして全国のパチンコ店を荒し回った。不正行為を咎《とが》めた店員が袋叩きにされたり、ナイフで刺されたりする事件が頻発した時期である。  この中国人ボスは、「日本で長く稼ぐためには、服装でも何でも目立たないのが一番。金を稼いで、ブランドものを身につけているマフィアは馬鹿」と吐き捨てた。当人は、茶色の革サンダルをひっかけ、白いTシャツに黒いパンツと極めてラフな恰好。確かに目立つ特徴は何もない。拝金至上主義から悪事を重ね、ついにマフィア化した留学、就学生は数多いが、この男のように日本で組織を率いるボスにまで昇り詰めたケースはそう多くはない。  不正にパチンコ玉を抜いて換金する手口は、変造ロムだけではない。変造プリペイドカードで抜かれた被害金額も莫大である。  収奪された金は、中国語で「ティシャリンハン」と呼ばれる地下銀行を通して中国へ送金される。手数料は、送金依頼額の〇・五パーセントから三パーセント程度だったのが、最近は不況の影響で送金依頼が少なく、〇・三パーセントで引き受けているところもあるという。つまり百万円を三千円で送金できるが、これは都市銀行を使っての同額の電信送金より手数料が千円安い。しかし、単に安いという理由だけで地下銀行が利用されているわけではない。闇の送金ネットワークを使ったほうが、金が電信送金よりも早く受取人の手元に届くからだ。また、都市銀行の場合は、一度に五百万円以上を送金する場合は、送金目的と使途について説明を求められ、名前や住所が記録に残る。犯罪に絡んだ黒い金を送るには、地下銀行を使ったほうが安全というわけだ。  しかし、中には摘発される地下銀行もある。昨年六月に、福建省出身の二人が神奈川県警に銀行法違反(無許可営業)で逮捕されたが、その不正送金額は、九五年十二月から約一年二カ月の間に百二十六億円。この摘発で現金三千万円、大手都市銀行の預金通帳約五十冊、キャッシュカード三百六十枚余が押収され、数千人がこの地下銀行を利用していたことが明らかになった。  送金方法は実に簡単で、依頼者はまず最寄りの銀行へ行き、事前に地下銀行から渡されていた他人名義の通帳で入金、記帳を済ませる。同名義のキャッシュカードは地下銀行が持ち、入金を確認したあと、依頼者が指定してきた受取人の名前と住所を本国の組織にファックスで通知する。場所によっては、送金依頼から一時間以内に現金が受取人に配達されることもあるという。利用者は当然、金稼ぎ目的の密入国者や不法残留者が多い。  歌舞伎町で働いている中国人ホステスの中には、切迫した状況に追い込まれ、この地下銀行を通して、中国の親元からやむなく「逆送金」してもらった者もいる。昨年四月のことである。深夜、この就学生ホステスは、帰宅した一瞬の隙を狙われ、中国人二人組の押し込み強盗に遭った。本人名義の預金通帳にも手許にもまとまった金が残っていなかったために、ホステスはナイフで脅され、明くる日の夕方まで部屋に監禁、身代金を要求された。その間に、ホステスは中国の両親に事情を訴え、そして日本国内の地下銀行とも連絡を取り、日本円で百二十万円を自分の口座に振り込んでもらった。その金は前に同じ地下銀行から送金していたものだという。部屋にいた一人が、ホステスのキャッシュカードを持って銀行に走り、その全額を引き出す。それから間もなく解放されるが、ホステスは、不法残留、不法就労がバレるのを恐れて警察に被害届けは出せなかった。  九七年一月、密航中国人が同じ密航中国人を都内で誘拐、監禁し、中国にいる仲間が監禁された男の両親を脅して身代金を奪取しようとした事件があった。この時は、親が地元の警察に届け、日中両国の捜査当局が動いて犯人が逮捕された。この種の事件は実は頻繁に起こっているのだが、しかし、このホステスのように地下銀行の逆ルートを利用して身代金を支払ったというケースは、事件としてはこれまで一度も表面化していない。  最近は、歌舞伎町へ出掛けても、茶髪とヤクザの姿はやたら目につくが、外国人犯罪組織の動きはなかなか見えにくくなってきた。四年前の環境浄化作戦とその後の警邏《けいら》活動によって警戒感が広がり、街に出入りする不良外国人の全体数が減ったことは間違いないが、しかし、犯罪稼業を諦めているわけではない。路上で若者に覚醒剤密売を持ちかけているイラン人の姿は今も見られる。この密売方法が覚醒剤が日本に蔓延する原因になったのだ。本書の取材当時とは、顔ぶれが全く変わったが、コカインを扱っているコロンビア人も相変わらず出入りしている。  また、九六年九月ごろから、台湾マフィアと見られる男たちが再び姿を見せるようになった。人数は十人前後。その直前、台湾では、法務部(省)作成の暴力団一掃行動「方案」に基づいて全国でマフィア狩りが行われ、五十四人が身柄を拘束された。八〇年代半ばに、台湾マフィアが押し寄せてきたときも、台湾では徹底したマフィア狩りが行われていた。こうした経緯を見ると、新顔の台湾マフィアは今回も警察の取締りから逃げてきた可能性が強い。しかし、台湾人ホステスが極端に少ない現状では、かつてのように麻雀賭博を資金源にすることは難しい。だが、最近は、台湾経済の景気低迷で、いったんは引き揚げた台湾人ホステスが大阪を中心に歌舞伎町にも徐々に戻りつつある。この状態が更に加速すれば、近い将来、台湾マフィアが歌舞伎町で息を吹き返すことは十分考えられる。  アウトローは、基本的には組織の力と暴力を背景に裏経済で資金を吸い上げる。これも景気の良し悪しで浮き沈みが激しく、ここ数年の間にも、暴力団の組長クラスが金に困って何人も拳銃で自殺している。一部の幹部はともかく、多くは新たな資金源を求めて先鋭化するか、冷や飯を食わされる羽目になる。歌舞伎町に出入りする日本最大の指定暴力団山口組の組員の動きを見ただけでも、それは如実に分かる。  昨年六月、私は、西武新宿駅近くのスナックでこんな光景を目のあたりにした。ある取材がらみで前に会ったことがある山口組系の組員と飲んでいると、組員が急に立ち上がって、席を離れた。火がついたままのタバコを放り投げるように席を立ったので、一瞬、何事かと心配になった。組員は、若い男二人と店に入って来た四十がらみの男の前に立ち、腰を屈めて金のことで詫びを入れている。 「てめぇ、こんなとこで飲んでていいのかよぉ! 飲める身分かっ! そんなにいい加減な奴なら、関西へとっとと帰れぇ!」  目をつり上げた男が、集中する客の視線のなかで組員を怒鳴りつける。さすがにバツが悪いと思ったのか、組員は両手をドアのほうに向けて、「話は外で」と言いかけた。その時である。男の鉄拳がいきなり組員の右頬にとんだ。痛そうな鈍い音が伝わってくる。組員の両拳に力が入るのが見えたが、拳を腰より上に上げることはなかった。その直後、右頬をまた殴られたが、これは音からして平手打ちだった。 「てめぇ、俺に文句なんか言えねえんだからな。わかってんだろうなっ!」  男のあまりの見幕に、店側は何もできず、こちらもただただ呆気に取られていた。ヤクザがらみの喧嘩に素人が口出しすることは禁物である。いくら関東のヤクザが仕切っている歌舞伎町での出来事とはいえ、山口組系の組員が人前で殴られ、しかも何の手出しもなく黙っているということは、よほどの事情がある筈である。組員の口元に血がにじんでいた。  二人ですぐにスナックを引き上げ、別の店で話を聞こうとしたが、組員の興奮がなかなか治まらない。 「公衆の面前であんなことされよったら、普通はぶっ殺してやるんやがな。それも代紋違いやからな。恥ずかしい話やけど、わしら極道の世界には、堅気の人にはようわからん事情がいろいろあるんや」  相手の男は、案の定、新宿区内にも拠点を持つ某組織系の幹部だった。組員がその事情について照れくさそうに話した。  山口組の末端組織ではあるが、関西にいる組員の親分は、かつて同じ刑務所に服役したことが縁で、以前から兄弟分の付き合いをしていたその幹部から金を借りている。金額については、「自分もようわからんのやが、二、三千万円ぐらいとちゃうか。いや、それ以上かもしれん」と組員は話す。ところが、山口組の中では比較的穏健派と見られていたこの組は、バブル崩壊後の不景気が祟《たた》って、組全体が組織維持もままならないほどの資金難に陥《おち》いってしまい、親分の借金返済が約束の期限までに履行できない事態に追い詰められた。代紋の違いにかかわらず、ヤクザ間の金銭貸借はごく簡単にできるが、返済期限の厳守が鉄則である。それは親分、子分のあいだでも例外はなく、約束を守らなければ、最終的に組から追放されて命を狙われることもあるし、あるいは自殺まで追い込まれることもある。その時は借金は香典代わりになり、遺族が取り立てを食うことはない。この山口組系組員の場合は、上部で話し合いが進み、「いずれはそちらの若い衆にしていい」ということで、借金のカタに預けられたのである。しかし、当分は、関東で山口組系列以外の組関係者と顔を合わせる際は、自分が山口組の傘下組員であることは一切伏せることが条件付けられていた。預けるほうも預かるほうも、他の組織から余計な誤解を受けるのを避けるためである。一方には面子《メンツ》があり、相手のほうは、他の代絞から組員を引き抜いたと見られるのを嫌がる。身を預けられたといっても、組員は、相手の幹部と同じ代紋を使うわけにはいかず、中ぶらりんな立場に置かれ、歌舞伎町でヤクザとして動くことはまず不可能な状態にあった。結局、東京近郊の工事現場で日当一万五千円で日雇いをすることになり、月々二十万円を幹部に渡すということになった。殴られたのは、前月分が遅延していたからだという。紆余曲折の末、組員は最近になってヤクザから足を洗ったが、これも歌舞伎町の裏社会の一断面である。  歌舞伎町進出を目論んでいるのは、外国人マフィアばかりではない。組織が肥大化し過ぎたために、関西で共食い現象まで起きている山口組も同じである。先の組員は極めて稀なケースだが、同じ山口組系の組員でも、中には歌舞伎町進出を急ぐあまり、ところ構わず大暴れする者もいる。  先の組員が殴られた約一カ月後の昨年七月のことである。夜十一時過ぎ、歌舞伎町のあるキャバクラで、山口組三次団体の系列組員二人がテーブル、椅子をつぎつぎ蹴り倒して店内をメチャクチャにした挙げ句、最後は店のドアまで叩き壊してしまった。請求代金が自分の計算より千円高いというのが、大暴れの理由である。その千円というのは、同席したホステスが客の了解をとって注文したジュース代だった。だが、客のほうは「そんなものを注文させた覚えはない」と難クセをつけた。店の関係者は、「店側が引き下がった対応をすれば、連中はこちらを甘く見て、俺達が店のケツ持ち(世話人)をやってやると言いだしたに決まっている。つまり月々ミカジメ料(用心棒代)を取ろうというのが魂胆だった」と振り返る。結果的には、組員達は店への食い込みには失敗した。以前から店のケツ持ちをしていた関東二十日会系の広域組織が面子を楯に、二人に破損調度類やドアの修理等を全面的に弁償させたのである。警察沙汰になることは滅多にないが、山口組系の組員がからむイザコザはけっこう多い。  しかし、一方では、山口組に食い込まれてしまった店がある。日本人経営のある風俗営業店は、最初は一つの代紋にミカジメ料を払っていたが、そのうち、別の代紋に揺さぶりを掛けられ、ついにここにも同額を払うことになった。ところが、いつの間にか、店の要《かなめ》の店長自身が山口組系列組長の企業舎弟になってしまった。種類の異なる猛蛇が三匹も狭い箱のなかで絡み合っているようなものだから、店側も気が気でない。  この企業舎弟となった店長とは別個の人物だが、各国の売春ホステスが集中することで知られるある中国クラブは、店のマネジャー役が西日本の指定暴力団系の企業舎弟で、店の共同経営者におさまっている。中国人ママの手持ち資金が少なく、三百万円前後の開店費用の半額を出資したというのだ。この店には、ママが前の店にいたときからの客で中国マフィアと見られている男が出入りしている。時々、この男と企業舎弟マネジャーが二人連れ立って飲み歩いているところを見掛けるが、すでにかなり深い繋がりが出来ているようだ。  これまで何人もの暴力団関係者に訊ねてみたが、日本のヤクザは基本的に中国や台湾のマフィアを信用していない。あるヤクザは「昨日まで付き合っていた人間でも、金さえ出せば、相手をあっさり裏切り、もっと金を出せば、殺しまでやる」と話す。自分も同じ立場に立たされることがあるわけだから、これでは信用できないのも無理もない。その代わり、「殺しを含め、汚ない仕事は金の力で何でもまかせられる。人の始末は一人百万円が最近の相場と聞いている」というのだ。  中国マフィアのほうもヤクザを信用していない。 「日本のヤクザには頼み事ができない。他のヤクザから百万円を取り立てる仕事を頼んでも、すぐ相手のほうと談合する。相手に金がなかったと言って、仕事を頼んだ俺たちには、二、三十万円しか持ってこない。実際は相手から八十万円も取っているんだ。二十万円は勝手に談合して値引きしている」と憤慨する。  ところが、どんなに相互不信があっても、裏で手を組むケースは増加する一方だ。密入国した中国人の国内での運搬、就労先斡旋役、香港などへ密輸される高級車窃盗の下見役、中国産覚醒剤の密輸加担と列挙すればキリがない。すでに日本の暴力団を巻き込んでいる国際闇社会が今後、どこまで深く広がるのか、それがどんな形の重荷となって一般社会に撥《は》ね返ってくるのか、危惧せずにはいられない。  自販機荒らしから強盗殺人まで、全国各地で起きる外国人犯罪は今や日常茶飯事である。中国をはじめ、他のアジア諸国から日本を目ざして来る密航者は、減るどころか増加する一方である。昨年は検挙数だけで千人を越えた。経済不況から脱出する方策も見つからず、零細中小企業がバタバタつぶれている日本に、何を期待するというのか。目的は一つ、それは金である。密航者の中には、「日本では、道端や空き地にカラーテレビや大型冷蔵庫が捨ててある」と蛇頭から煽《あお》られてやって来る者も多い。標準賃金の格差を考えても、彼らにとって、日本はあくまでも「黄金の国」なのである。しかし、日本に来て初めてわかることだが、現実は厳しい。就労先がなければ、犯罪に手を染めてでも金を手に入れようとする者が出てくる。悲しいかな、我々日本人には危機意識が欠如している。そして、あらゆる局面で後手《ごて》に回ってしまう危機管理の甘さ。どう対処すべきなのか、妙案はなかなか浮かんでこない。嗚呼《ああ》、頭がクラクラする。  歌舞伎町について、私自身、どう表現していいのか、率直に言って、良く分からない。怖い街か、と言われれば、その通りだし、楽しい街かと聞かれても、その通りですと答えてしまう。街の裏側や犯罪組織などに興味を持たず、ボッタクリバーを避けて、ごく普通に飲んでいれば、それほど怖い目に遭うこともないような気もする。もちろん油断は禁物である。誤解されると困るが、ときどき、こんな取材はやるべきじゃなかった、飲みに行くだけならともかく、こんな形で歌舞伎町になんか関わりを持つべきじゃなかった、と思うことがある。そうすれば、もっと気楽に足を運べたのではないかと思う。馴染みの店へ行って楽しく飲んでいても、「顔は笑っていても、目はぜんぜん笑っていない」といつも言われる。嫌でたまらない。これはもう後遺症である。  それはともかく、最近、私は、歌舞伎町と大久保を分ける職安通りで腰を抜かしそうになったことがある。背後から、大柄な黒人が突然、両手を広げ、「ウォーッ! ウォーッ!」と甲高い叫び声を上げながら、突っ込んできたのだ。驚いて身構えると、飛びかかってくる様子はなく、再び「ウォーッ!」と叫びながら、私を独楽《こま》の軸のようにして駆け回る。かと思うと、私の真ん前でピタッと立ち止まり、白い歯を剥き出しにして笑い、そのまま跳ねるようにして立ち去ってしまった。こちらも思わず笑ってしまったが、こういうのは本当に薄気味悪い。麻薬で気が変になっているのか、それとも単にそういう行為が趣味なのか、素性を含めて全く分からないからだ。  歌舞伎町には、確かに、いつ、何に出食わすかわからない、という不気味さはある。昨年のことだが、韓国屋台で飲んでいると、顔見知りの元暴力団組員が、隣の席で連れの男と取っ組み合いの喧嘩になった。そのあと、相手のほうがビール瓶を地面に叩きつけて割り始めたので、その時はさすがに手を押さえた。双方とも相当酔いが回っていて、最初、こちらが知っているほうが「いきなり新宿に呼び出して、酒飲ませろ! とはふざけた奴だ!」と大声を出したのである。それに対して一方が「お前に俺を怒鳴る資格があるんか!」とやり返す。実に些細なことが喧嘩の始まりだった。  最後はどうにか仲直りして楽しく飲んでいたが、よく見ると、男は左目を閉じたままである。小用に立った隙に聞くと、この男もかつて暴力団に所属していたことがあり、その頃、リンチに遭って、スプーンで眼球を抉《えぐ》られたというのだ。こちらも酒に酔っていたので、リンチの詳しい原因については逆に聞く気になれなかった。男は堅気になってからは、東京郊外で木工職人として生き、時折、昔の現役時代の仲間が恋しくなって歌舞伎町に出て来るというのである。  各国からの不良、マフィアもしかり、この街には様々な人間が出入りしている。本書では、外国人犯罪に焦点を定めたが、言うまでもなく、これが歌舞伎町という街のすべてではない。ましてや、街の恐怖イメージをアピールするのが目的でもない。街には、どこか怪しげな雰囲気を漂わせながらも、ついつい気になってしまう人物も多い。機会があれば、そうした犯罪者以外の人間も追ってみたいような気もする。  文庫化にあたっては、文藝春秋出版局にご尽力いただき、心よりお礼申し上げます。また、お忙しい中、解説を引き受けて下さった馳星周氏に謝意を表します。  一九九八年七月 [#地付き]吾妻博勝   単行本 一九九四年十一月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十年九月十日刊